私の空は黒い雲に覆われている。どこに居ても、重い大荷物を背負い、鉛の靴を履いている。明るい事、前向きな事、ワクワクする事が何も考えられない。
「いまは」を彷徨う母が突然、両手を空に上げた。そっと手を握ると、薄っすらと目を開けた。どんな夢を見ていたのだろう。今日の母は、酸素マスクに覆われた顔が苦しそうに歪んでいる。「すぐそばに居るから、大丈夫だよ。ゆっくりお休み。何か言いたいことあるのかい?」 微かに首を横に振る。入れ歯をとった乾いた口を歪めて何か話そうとしている。「ねな」と微かに聞こえた。 「何って言ったの?」 思いっきり口を開き絞り出すような声で、「おまえも、ねな。」 分かった「お前も寝な。」と言っていた。しばらくすると、「ちゃんと、カギ、締めて行ってね。」 私が実家から帰る際のいつもの聞き慣れた挨拶。だからはっきり聞き取れた。母は自宅に横たわっていると思っている。今日の会話はこれだけだった。眉間に皺を寄せ、口を歪めて苦しそうに息をする母の姿を見つめ続けるのは辛い。が、命ある限り見守ってあげたい。今は、他の事は何も考えない。ただ母に集中すればよい。
昨日はもう少し話ができた。目もパッチリ開いていた。研修で英国に行っている息子が、自分はもうお婆さんと話ができないのかと、悲嘆の電話をかけてきた。お婆さんに見せて、元気になって貰ってと、自分の元気な写真を送ってきたので、少し元気そうだった昨日の母に見せた。母は暫く両目を大きく開けてじーっと凝視していた。そして、写真の息子の満面の笑みに誘われるように微笑んだ。数か月振りに見た、以前同様の母の微笑。その笑顔が私を育ててくれた。私も思いっきり微笑んで母を見た。母が私を見た。笑顔は消えていたが、私の笑顔を受け止めてずっと見つめ返していた。気持ちが通じたと思い、すごく嬉しかった。それ以降、微笑顔はなかった。最後の微笑になってしまうのだろうか。もう一度見たい、母の微笑。