森の時間 SINCE 2002

Le Temps Du Bois

2002年の森の時間プロローグの回顧

2014年11月14日 | 随想・雑文

                          


 

2002年の夏、人知れぬ里奥に土地を手に入れた。 
場所は農業用水を貯える「佐口湖」の畔で、北に浅間山、南に北八ヶ岳連峰を望む。昭和の時代、冬になると凍結した湖はスケートリンクとなって賑わっていた。 八ヶ岳の影を映して静かに佇む佐口湖。地元の人だけが訪れる八千穂町畑地区の農水池となっている。
土地は半造成地で、大方の樹木は伐採されていたので、森の土が削り取られた部分では赤土が剥き出しになり、草本や先駆草本が再生始めていた。ここに森の土を再生し、広葉樹を植林して、ゆっくりと時間をかけて森を蘇らせてみようと考えた。
世界60の国々を訪れ、延べ20年近くの海外暮らしの体験は、日本の自然、風土、習俗、歴史を見つめ直し、この国土を愛する機会を与えてくれた。生まれ育った国土の風景、人々、文化、価値観に親しみを憶える思いが年齢と共に極自然に沸々と湧いてきた。急激な日本の経済発展の時代を生きて、全ての既存の秩序に抵抗し、常に新しいものに価値観を見出し、伝統や古いものを壊しながら、欲望の充足に傲慢に生きていた。
アジアモンスーン気候帯のはずれに位置し、ユーロシア大陸と太平洋の海洋気象の影響を受け、南北に長い列島は四季に彩られ、変化に富んだ生態系に恵まれたこの国土。この国の歴史、伝統的な文化、その文化を形成した自然景観、四季の変化やこの列島に棲むあらゆる生き物を五感で感じ、理解し、感動し、共生して、明日へ、次の世代へつないでゆかねばと思う。
細やかに灯りだした小さな郷土愛の炎を燃え立たせる処、次の世代に語り継ぐ空間、この地を “LE TEMPS DU BOIS” 『森の時間』と命名した。
第一期は2002年から始まり、第一小屋小屋を完成させて周辺を整備した。第二期は2005年の連休に始める。第二小屋の建設、井戸を掘削したり、見晴らし台になるような高床バルコニーを作り、さらに土造りを学び簡単な農作物に挑戦する等々の計画を立てている。
2002-2004年の第一期工事と二期工事前の2005年春の記録はフォトアルバムに掲載し、2005年5月からの歩みをブログ1ブログ2ブログ3に記録し、2010年からの四方山はTwitterに記録した。 

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『屋根』

2009年01月24日 | 随想・雑文

"屋根"が星たちに語ったひとつの家族の物語。果たしてこの豊かさはいつまで続くのか? 平和はいつまで続くのか? - そして、時代を越えた本当の幸せとは? 

家が朽ちるとき、屋根は不思議と最後まで残る。屋根はその下に住むものの出来事を逐一見つめ、ひそかに笑い、涙を流したりして来たに違いない。もしかしたら屋根はそうした出来事を、我々が疲れ果て眠ってしまった後で、つぶさに星たちに語ったかもしれない。屋根はその客観的俯瞰の目線で、大正から今への日本の歩みをどのように星へ伝えただろうか。戦前、物不足の中で、かつかつの暮らしを強いられた。それがあの凄まじい復興のなかで、たちまち解消し、逆に「豊か」と云う名の物の溢れる時代を招いた。需要と供給のバランスが崩れ、充実した物品を浪費せよと経済社会は声高に叫び出した。節約が善であり浪費は悪である。そういう教育を受けてきた我々は、この転向に震え立ちすくむ。時代の為に死んでいった者達、ひっそり耐えていきて来た者達。この人々の人生の物語を、屋根は星たちにどう語ったか。そのことを静かに考えてみたい。

        -『屋根』」作者倉本聡氏の言葉より

「屋根」東京公演を観劇したのは6年ほど前だと思う。昨年夏、六郷巡りに富良野に行った際、富良野Groupによる『Img_2273』が2009年真冬の「富良野演劇工場」で上演されることを知った。私には、「森の時間」の最初の小屋の屋根を初めて自力で完成させ、雨露がしのげた時の感動がこの「屋根」のドラマと重複する。観劇だけのために冬の富良野、雪原に降り立ち、凍てつく空気と雪に包まれる。その『屋根』観劇の富良野の旅が実現した。一人でも実行するつもりでいたが、意外にもすんなりとS代が賛同してくれたので、結婚Img_2284記念日イベントしてANA特別パッケージを組んだ。

倉本氏との最初の出会いはカルガリーオリンピックがあった1988年前後のカルガリー空港。Img_2294その後、数度お会いして いる。といっても、氏は私の事はもちろん認識されていない。氏の著書は殆ど拝読させて頂き、舞台も5作品は観たと思う。

離陸した羽田は曇天だったが、北海道に入ると雲が消れて地上が見えた。 洞爺湖と有珠山がくっきりとImg_2316見え、開拓時代の区分けのままの碁盤の目のような大地の模様が続き、雲間に白く輝く旭川の町が見える。白いシーツのように見える地上のうねり。

富良野盆地が一望に見渡せる新富良野プリンスホテル上階の部屋にチェックイン。 Img_2321小さな丘の上、十勝岳をバックに、今夜訪れる「富良野演劇工場」が見下ろせる。

ニングルの森奥にある「森の時計」 に向かう。私の「森の時間」は、この建物の雰囲気を意識しつつ展開してきた。お金をかけない主義で一人でコツコツの森の時間では、それが達成されることはない。森の時計と倉本ワールドは夢、希望の指標にさせて頂いている。ドアを開けると数組が席の空くのを待っ ていた。待つのは嫌Img_2330いだが、昨年夏に来た際の長蛇を思い、待つことにした。カウンター席では、「優しい時間」のシーン通りにコーヒー ミルを使い自分で豆を挽き飲むことができる。暖炉の見える席で、お店のおじさんと歓談しながらマイルドな水とコーヒー。 暖炉の炎を見つめる。夕食前に、ニングルの森「ニングルテラス」を散策。Img_2339

早めの夕食。利き酒セットで少しほろ酔い気分。「屋根」開演は7時半。劇場から車が迎えに来てくれる。 劇場入り口の出迎えは雪の熊。同乗者は関西弁のご夫婦など三組。千Img_2361名ほどで満席になる小劇場。ほぼ半分の入り。間近で見る生声、息使いの迫力。最後のシーンが突然消え、漆黒の暗闇。そして闇の中から拍手の波が沸き起こり、舞台が再び照明に照らされると役柄通りの出演者、そして富良野塾の素顔の若い役者達が何度も登場する。立ち上がり拍手を続ける人、ブラボーを連呼する人、頭の上で拍手を続ける人、涙を拭う観客達。終演後、感動をこぼさぬようにゆっくりとロビーに出ると、そこに倉本氏が・・・。 Img_2377_2

感激を口に出すのが勿体無いような、どのように表現して良いのか分からないまま無言で車に揺られホテルに戻る。そして、初めてなのに、何度か繰り返しているお決まりのコースのように、凍てつく森の坂道を辿って「Soh's BAR」に向かった。愛煙家の為に倉本氏が監修した森の中のバー。「風Nec_2381のガーデン」 の撮影に使われていた。が、満席。待てばあきそうだが、凍てつく森を引き返し、ホテル最上階のバーに向かった。舞台の余韻に浸り、静かにグラスを傾ける。遥か暗闇の奥、ゲレンデ整備車の灯りだけが忙しそうに動く無音の世界に包まれて、至福の時が流れた。

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『荒ぶる』

2009年01月11日 | 随想・雑文

12月7日 早明線  

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同窓の友人とそのゼミ仲間と観戦。圧倒され続けたが終盤戦、意地と伝統のトライ。結局、4トライ。3トライの明治に2点及ばず、22対24。期待はずれの惨敗。

1月2日 大学選手権準決勝 対東海大学

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抜けるような冬の青空。代々木方面の高層ビルがくっきり。ラグビー初観戦のS代、熱燗と焼酎お湯割り、それにホットコーヒー。おにぎり、おせんべい。防寒服に身を固めて、冬のピクニック。5トライ、36対12で快勝。

1月10日 大学選手権決勝戦 対帝京大学

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決勝戦は成人の日、12日だと思い込んでいた。前夜の和歌山からの帰宅は夜半過ぎ。遅めの起床、ボーーとして新聞を見ていたら、その日に試合があることを知った。予定では実家に行くつもりだった。母にの様子を電話で確かめる。「こっちのことは心配要らないから、ゆっくりと楽しんでおいで。私もテレビで見るよ。やっぱり、箱根駅伝もそうだったが、ワセダが強くないと面白くないね。初恋の人がワセダ政経学部だったから、ワセダと聞くと何かワクワクするんだよ。」 意外な程の元気な声に勇気付けられ、観戦に行くことにした。雲が出るとかなり気温が下がる寒い日、S代も観戦したそうなムードだったが、家事の最中で外出準備に時間がかかりそうだったので、ラグビー観戦セットをバッグに押し込んで、私一人で国立競技場に向かった。男は身勝手、気楽に動けるものです。週末は家でゆっくり休めというS代に引き留められ、行く気が萎えてしまわない内に、家を飛び出した。この日の飲み物はは焼酎お湯割りだけ。それと無数のミカン。優勢な試合展開だったが、硬いディフェンス。何度も直前で潰される。そして、やっと捻じ込んだ2トライ。帝京側は焦って反則の連発。自滅した感じ。20対10。勝利と同時に多くの観客がエンジの小旗を持って立ち上がる。苦戦した大勝利にファンが歓喜。帝京大の選手にも大きな拍手を送った。

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2008年-食べ物さんありがとう

2008年12月31日 | 随想・雑文

「食べ物さんありがとう」 は、2008年私の愛読書ベスト3。栄養学者

川島四郎氏とサトウサンペイ氏の共著。この挿画入りの分かり易い栄養学の本には、続、さらに続々がある。戦前・戦中、戦後の復興期の著書も沢山あるようだが、絶版になっていてなかなか手に入らない。氏の戦前・戦中の栄養学研究データはGHQが借りて行き、後に宇宙食の開発に役立ったとか。

地球各地の気候風土は違う。それぞれの民族には、必ずその気候風土に合った食の文化がある。世界各地にはそれなりにその土地の新鮮で滋養豊かな食べ物はあるが、季節の変化が少なくて、収穫の秋が短い地域、水の少ない地域の食生活は貧困だと思う。放牧家畜の肉・乳製品と小麦。例えば、森に囲まれていない地中海には魚が少ない。マグロは大きく育たない。だから、地中海沿岸の民族は、蛸や貝も多く食べるようになったのではないかと思う。

寒流・暖流が交差する海に囲まれ、南北に長く横たわる変化に富んだ日本列島。顕著な季節、寒暖の差、年間を通じての降雨量の多さ、きれいな水。「日本食」文化は世界に比類なき恵まれた地理的条件、気候風土で育まれてきた。旬を愛でて、季節ごとに新鮮な食べ物を口にできる日本に生まれて幸せだと思う。戦後、戦勝国アメリカの余剰食糧、小麦・肉・乳製品を押付けられて、日本食は否定されてきた。経済的効率性、利潤追求資本主義、Globalizationが日本人の食糧を海外に依存するような構造を煽ってきた。地元の日本食の供給者が減った。「旬」も姿を消してきた。資本主義の毒の盛られた食糧を口にし始めて30年近く経過している。

炭酸飲料・インスタント食品に添加されているリンはカルシウムと化合してリン酸カルシウムとなり、カルシウムの吸収を妨げるらしい。保存料、不自然な人工物質だらけのコンビ二食。厚生省が食品添加物規制を緩めた28年前以降に生まれた子供・若者の体は化学物資漬けで、従来の日本人とは違う、生物として異常な生育をしているらしい。「直ぐにキレル」「家族を殺す」「アトピー」「花粉症」「3人に1人が癌死」「風邪ひき易い、治りにくい」「精子減」、・・・・。

「食」が堕落した民族は滅びる。古代文明、地中海文明、インカ文明、過去の文明は全て「食」が確保出来なくなって滅亡した。日本人の心と体を作った大地と海洋から獲れる日本人の体に適した食べ物を食べることの大切さ。二年前の「憩室炎」は、長年の北米生活や仕事上で体質に合わない食べ物、脂・肉を多食して食生活が乱れていたことが原因だと思っている。よく言われることだが、歯の形にあわせてとるのが正しい食事。即ち、上顎、下顎それぞれ16本の歯の内、肉を噛み切る犬歯は2本、野菜・果物を毟り取る門歯は4本、穀物を磨り潰す臼歯は10本。その歯の割合にしたがった食べ物の組み合わせが人間と言う動物には最適ということ。

「四里四方」、「地産地消」、地方・季節の「旬」。葉緑素野菜と小魚を食べ、肉は極力食べない。

動物と植物、違いはあっても、どっちも同じ命。植物は死ぬ時に血を流さない。だから人間はそれ程同情しない。だけど同じ命。動物も植物も頂くときは、命を「いただきます。」。食べ終わったときは「ごちそうさま。」

今年はこんな物を食べていた。

「森の時間」で:

Img_1664_3 Img_1678 Img_1682 Img_1689  Nec_2055 Img_1772 Nec_1776 Nec_1752 Img_2075 Nec_1961_2 Img_0906 Img_0907

和歌山・北海道・屋久島・琵琶湖・ドバイの旅先で:

自宅で:

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そうだ、京都に行こう!

2008年12月14日 | 随想・雑文

紅葉が終わり、静けさを取り戻しつつある京都に行った。修学旅行で行ったのが初京都。商社の新人時代に、外国からのお客さんを何度か案内した。海外駐在時代に客先と一時帰国して、商談の後や国内移動の途中に度々立ち寄ったこともあった。外人客の観光用でポイントしか訪れていないので、京都の全体感は持ち合わせないまま、以来一度も立ち寄っていないので、ほぼ30年ぶり。かつて行った場所はおぼろげに覚えているが、それらの位置関係は全く記憶にない。和歌山出張帰りの週末、S代と京都駅で待ち合わせて2泊3日の京都。本当は紅葉真っ盛りの頃にImg_2154_2行きたかったが、仕事の都合と、宿が取れない事情で初冬の京都を訪れた。ANAクーポン利用の京都全日空ホテルとメンバー利用の長浜ダイワリゾート。宿には殆どお金がかからない。

風水による開運の京都の歩き方というのがある。少しだけ真似てみた。まず、南から始め北に向かい、それから西、東とお参りする。まず、南に位置する 「東寺」に馳せ参じたが、既に閉門。寺の裏に沈む夕日を拝む。Img_2175_2 日が落ちたので、風水歩きは翌日にまわして腹ごしらい。「錦市場」まで歩く。京野菜の漬物が美味しい。 Img_2206

二日目は早朝から北へ向かう。バスで足利義満の別荘、「鹿苑寺」へ。金箔を張り直したばかりの外壁が初冬の青空の下でまぶしいほどに輝く金閣寺。Img_2231_4 古い町並み、裏道を歩いて「千本釈 迦堂」。米空軍も京都は空襲しなかった。本堂を建造した棟梁の奥さんの名前が福。旦那の苦境を救った福が「お多福」となる。福の像をS代が拝む。

その後は西に向かう。嵐電北野線の終着駅「北野天満宮駅」から嵐山へ。「天龍寺」脇から嵯峨野の竹林を散策。紅葉を落とした木々の枝が青空に突き刺さる。「常寂光寺」の苔の上に吹きImg_2269 Img_2253残された紅葉。「二尊院」の池の底に鮮やかな紅葉。

嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」まで戻り、「二条駅」へ。地下鉄に乗り換え真東に向かい「蹴上」で下車。石川五右Nec_2365衛門の「絶景かな。絶景かな。」南禅寺の大門から、琵琶湖疎水分流に沿って「哲学の道」を足利義政の東山文化の中心 「慈照寺(銀閣寺)」に向かう。修復工事中だったので寺には入らず、門前でお蕎麦屋で、朝から歩き通しで棒になった足を休めた。再び歩き出し、吉田神社に裏手の山側からアプローチ。さらに京都大学まで足を伸ばし、Img_2277 タクシーでホテルへ。そして、ホテルに預けた荷物を取ってから駅前のレンタカーを借り て琵琶湖湖畔の長浜に向かう。初めて走る名神高速道路。Img_2301

「長浜城」は、1573年浅井長政滅亡後、湖北を支配した羽柴秀吉が築城した。柴田勝豊、山内一豊らが城主になり、石田三成の支配下に入り、その後徳川時代の1615年に湖北支配の役割を彦根城に譲って使命を終えている。城の木材・石垣は彦根城に運ばれて、城は完全に消滅したそうだ。翌朝、琵琶湖は冬を感じさせる小雨に霞んでいた。長浜の町を散策し、車で湖畔に沿って南下する。米原から新幹線で帰京した かったが、レンタカー乗り捨て料金が高いので京都まで戻った。京都東ICから京都駅に向かう途中、Img_2325_4 「三十三間堂」の 看板が目に入った。千体の等身大観音像に囲まれた先手観音像、風神・雷神と二十八部衆像をじっくりと見学した。中世の人々が刻んだ精巧な群像にいたく感動。何度来ても、その時の心持次第で見方、感じ方が違うだろう、多分見飽きることはない仏像群だと思った。計画外の予定だったことが、歴史の京都の旅の締めとして、殊の外充実した時間に包まれた気がした。 Img_2332

初めての場所を早朝から動いていた。好奇心がフル回転していたようでお腹が空いた。駅で買い込んだ遅めの昼食。京都発午後2時台の「のぞみ」、西日の当る窓辺でゆったり。ワインで乾杯。

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忙中閑

2008年11月28日 | 随想・雑文

Img_2033海水を湛える池面に、紅葉の混じる遠くの山容が影を写す大小の池。 中国の西湖に似ていると思った。

和歌山市の西の外れにある雑賀崎は、四国をかすめて太平洋に向いている。近くに、紀州第十代藩主が造営した舟遊式庭園「養翠園」がある。

今週はひと仕事を終えたことと驚愕な出来事があり、金曜日になると疲れがどっと出た。気分転換と思い、ゆったりと列車で家路に着くことにした。が、仕事がなかなか吹っ切れなくて、予定していた和歌山発の列車に乗り遅れてしまったので、次の列車には遅れないように、雑賀崎にある事務所を早めに出発した。その日は曇天、時折雨が散らついていたが、ちょうど庭園の入り口を曲がりかけたとき、曇よりした空から突然陽が射して、「養翠園」方面の木々が明るく輝いた。列車の時間が気になったが、陽光に誘われるかのように庭園方面にハンドルを切った。

昔の庭園は今より広く、周囲の田畑・野山と渾然一体となり、四季の実りも庭園の一部として取り入れていたそうだ。日本の自然は、はっきりとした四季の変化と激しく変化する気象の恩恵を受け、厳しくも豊かで美しい。そのような自然は、日本人にとっては一体の存在であり、認識の対象とは捉えられない共生する存在であった。明治維新以降、西洋の合理主義、科学思想の影響を受けて以来、自然は利用されるものとして、自然を人間の下に位置づけるようになり、自然と対峙し、自然は破壊・収奪の対象となった。

近代の日本人は、豊かさ、便利さ、快適さを求め、より良い社会を創るために必死の努力を続けてきた。我々の父母、祖父、先祖たちは懸命にがんばった。が、より良い社会になっているのだろうか。自分の育った僅か数十年前の時代は、今とは比べ物にならないほど不便であった。夜は、魑魅魍魎が徘徊すかのように濃い闇。商店の灯りは消え、外灯の少ない町、コンビニも自動販売機もなかった通りは真っ暗で、雨戸を閉めた家々は闇の底に溶けたように黒い塊になった。寒い冬、日が落ちると外を歩く人は居ない。質素な家の中、一つの灯りに寄り添い、暖かい団欒を囲んだ。いつの頃か、夜が明るくなり、家の中に物が溢れ、不要な情報が飛び交い始め、満腹になった人にもっと食え、食い続けろと無理強いするような飽食の時代が現れた。景気回復だ、経済発展のためだと、人の欲望が刺激され、人は物と食べ物とお金に溺れた。 Img_2035

誰も居ない、江戸時代の庭を一人散策して思った。自然と一体となって生きた「養翠園」の時代。私の育った時代までは、日本は精神文明と物質文明が同じ大きさの両輪となって、真っ直ぐに歩んでいたと思う。戦後、浸透し始めた米国式資本主義が両輪のバランスを崩した。物質文明のみが重視され、精神文明は置き去りにされた。自然とゆったり戯れた中世の人々、戦後の荒廃から国を復興させより良い社会を築こうと努力してきた父母。我々は、先祖の努力を裏切っているのではないだろうか。

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四十三キロ

2008年11月09日 | 随想・雑文

ひとりの時間。

「いきる力を高めよう!」。飲まず食わず新宿-青梅43kmを歩き抜く「かち歩き大会」。数年振りに参加した春Nec_2417の大会。秋の大会も参加するつもりで、山小屋に行く日程は調整して来た。昨日は久しぶりに家で過ごし、溜まっていた家の諸事をこなしていたら、ゆったりした時間が気に入って、かち歩きに参加する気持ちが揺らぎ始めていた。予定に縛られて無理することはない、朝起きた気分で考えることにして早めに布団に横たわった。

翌朝、目覚し時計よりも早く目覚めた。天気は然程良くない。あの辛い歩きを容け入れる気持ちが盛り上がらなかったが、歩きながNec_2420 ら自分を見つめる孤独、思考が充実する7時間、ゴールした時の達成感等が徐々に蘇り、気分が昂ぶってきたので、集合場所の新宿中央公園に向かうことにした。 ゆっくり出発し、ゆったり乗り継いで向ったので、集合時間に10分程遅れてしまった。当日受付組の中でも一番最後の受付になり、歩くのもほぼ最後尾。先頭より10分ほど遅れての出発。

10kmまでは、パトカーが先導して車道歩行が許される集団歩行。時速5km程度でゆっくり歩く。前後左右を人に囲まれると歩きにくいので、車道側の外れに位置を確保する。最後尾のほうは記録狙いの人は少ないので、老若男女、若い女性、家族連れ、今日の自分にぴったりなゆったりムード。しかし、やけに目につく小学生の集団。近づくと歩幅が合わず、しかも戯れあって歩くのがいるので、歩くペースが乱されて歩きにくい。ほぼ中間点の22km地点まで4時間かかった。なかなかテンNec_2429_2パーが上がらず、足にも疲れが出てきた。山小屋の作業で痛めた腰を庇い、走りを控えていたので、歩く力が弱ったのかも知れない。歩き出した以上は春を上回るペースでゴールしたかったが、実現が 危ういスローペースと予想外の疲労感。 大股で歩き続けた為か脛の筋肉が痛い。赤信号のたびにしゃがみこみ、足の筋肉を調整する。30キロ辺りを過ぎると周囲に人が少なくなり歩きやすくなったのでペースを上げた。前後に人が居なくなり、遥か前方の後姿を追う孤独な時間。体の疲労とは裏腹に色々な思考が巡り、頭が冴えて充実した時間が始まる。「森の時間」の今後の建設、整備計画、来年のテーマ、退職時期の模索、その後の計画、最期の迎え方などについて考えを巡らす。12月に晩秋の京都に行くこと、1月に『屋根』の観劇に富良野に行くことを決めた。そんな事を考えながら、1km/10分のペースを維持し、前半のスローペースを少しだけリカバリーできた。

ゴールは既に夕闇の中にあり、ゴールの垂れ幕が照明に浮かぶ。何処でも良いから早く座りたいNec_2434_2 と思いながらゴールを目指し歩いて来た。春の大会では、ゴール後にべったり座り込んだら、しばらく立ち上がれなかった。今回は意外にも余力が残っていて、まだ歩き続けられそうな余裕。結果は、43kmを7時45分で歩き、順位は328番。春の大会とあまり変わらぬ結果だった。体力は落ちていないことを確認。ゴールのテントで甘いほうじ茶とパン・飲物を貰い、休息を取らずにそのまま河辺駅に向った。パンと飲み物はお土産にした。

帰宅後、お風呂に直行。硬直した足の筋肉、冷えた体が急速に癒された。達成感と幸福感。極楽、極楽。そして、もう一つの達成感。減量。期待通り体重が3キロ減。

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きれい

2008年10月29日 | 随想・雑文

きれい

稀にしか見れない、上空からの富士山の全身像を見ることができた。五時前に自宅を出発して乗り込んだ関空行きの一番機。まさしく「早起きは三文の得」。 綺麗ダ!、と思うとつい写真を撮りまくる。単に色彩的、フォルム的美しさに目を奪われる、あるいは貴重な瞬間を記録に残したい思いで撮りる写真が多いが、富士山の美しさは本質的であり、神々しい。

きれい

(和歌山より-携帯投稿)

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三十五年

2008年10月26日 | 随想・雑文
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黄昏

2008年10月12日 | 随想・雑文

Nec_2022

西の空に光を残して夕日が沈むと、辺りが急に闇に包まれる。「秋の夕日は釣瓶落とし。」

帳が下り始める日没後、夏の空の明るさがなくなった秋の夕方は瞬く間に闇が迫りくる。対岸に旧荒川、隅田川が分岐する岩淵水門。荒川のジョッギングコースは、土手の上も闇に包まれ、いつの間にか行き交う人の顔が判別できない。

人が足早に家路につく時間、人の顔が判別できなくなった日没直後、「誰ぞ、彼? 知り合いか?」と思わせる時間帯。その思いが「黄昏」の語源。「黄昏」は秋の日没後が似合う。

(農業公園近く荒川土手より-携帯投稿)

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夏の『旅』

2008年09月16日 | 随想・雑文

「屋久島」 6月8日-11日

やっと実現した「屋久島」。クロゼットの奥から引っ張り出したロウカットの登山靴の靴底が浜松町駅の階段で剥がれてしまった。フランスブランドで安かったので軽登山靴として買ったのだが、大事な旅の出鼻が挫かれた。サンダルに履き替え搭乗し、鹿児島市内で登山靴を買う破目に。フェリー乗り場から歩ける距離にそこそこの規模の「好日山荘」があった。屋久島登山用にガスボンベ等を買い揃える人、屋久島行き常連客が立寄るらしい。家にはしっかりした登山靴があるのだ。安物買いの銭失い。

地下のマグマがゆっくり冷えて、海に突き抜けて出来た花崗岩の島。海抜0mから洋上アルプスといわれる宮之浦岳山頂1,936mに展開する多様な気候帯と複雑な植物相。九州から北海道までの日本の自然の縮図、原点。日本全国の年間平均雨量は1,700mm。屋久島では、平地で4,000mm、山岳地帯では8,000mmのものすごい多雨と、暖流から湿った空気が急上昇して出来た霧に包まれる森は様々なコケに覆われている。樹齢数千年の森の島は「世界自然遺産」に認定された。水と変化する樹林帯とコケの森、神秘の息吹を体感してみたかった。相棒は大学生の息子。お互いのスケジュールが会うのは3泊4日が限界。Img_1273

日本のエコツーリズムの発祥の地で、ガイド認定も厳しく、知識、経験豊かな ガイドが充実 しているらしい。エコツーリズムを牽引し、エコツーリズム大賞特別賞を受賞したと聞く「YNAC」のフォーレストウォ-クの一日ガイドをお願いした。ツアーには関西からの青年と四日市Img_1296からの単独女性が同行。ガイドは屋久島に魅せられた北大-環境庁出身の市川聡さん。ガイドの内容は期待以上。素晴らしい!ペ-パ-森林インストラクターにとっては、プロガイドのコツが勉強になりました。「もののけ姫」には、屋久島の苔生した森や花崗岩の岩山のシーンが登場する。 Img_2350

屋久島にある杉が全て「ヤクスギ」ではない。ある高度以上で育つ、千年超える杉のことだけが「ヤクスギ」だ。養分の少ない花崗岩の山で育つので成長が遅い。年輪幅が非常に密で油分が強い。だから硬くて腐りにくい。江戸時代に乱獲された巨大な「ヤクスギ」の切り株が今も腐らずに土に埋Img_2155 没している。今出回っている屋久杉の仏壇・家具はそれを掘り出して加工している。「ヤクスギ」は伐採できない。埋没した切り株を掘り出すにも許可が必要。倒木したヤクスギの上に稚樹が育ち、倒木したヤクスギは根本に大きな空洞を残して朽ち果てる。稚樹は大きくなり、やがて倒木する。折れ残った株に次の世代の稚樹が育ち、それが既に数千年経過している。そんな万年単位のドラマがゆっくりと展開している屋久島の森。Img_2246

日没がきれいな「送陽邸」。桟敷から見下ろす砂浜は日本最大の海ガメの産卵地。海ガメは夜に浜に上がるが、雨だと砂が重くなるので上がらないそうだ。前夜は雨だった。この日も雨が降っていたが、明るい午後、雨が降っているのに、一匹の海ガメが上がってきて、産卵を始めた。待ちきれなくて、産卵を強行したらしい。昼間に産卵が見られるのは幸運だと言われた。砂浜の隣地に斜面に広がる「送陽邸」は、屋久島の民家を移設し、改修した手作りの宿。島の北側の小さな永田集落にひっそり佇む目立たない宿。海を見Img_2255下ろす手作りの桟敷で食事。海を独り占めの手作りの洞窟風呂。各界の知名人が密やかに繰り返し休養に来るそうで、翌日は鶴田真由美さんが宿泊されると主人から聞いた。聞くと見るとでは大違い、口コミは失望するケースが多い。生憎の土砂降りの雨だったが、静かさ、快適さ、なんとも言えぬ安心感、それImg_2278_2 と主人の人柄。焼酎を何杯もご馳走してくれたから言うのではない。この宿は生涯の五本指に入るだろう。

三泊目の「ロッジ八重岳山荘」もオーナー手作り。八重山群島とは関係ない。屋久島の高峰の数が八つあるかららしい。八ヶ岳も八峰ある。争いにならImg_1343ずに分けやすい数、沢山あるという意味の数字、縁起の良い「八」は良く使われる。宮之浦町中から少し離れた宮之浦川の脇、鬱蒼とした杉の森奥にある。森の中に点在する独立したロッジが高床の渡り廊下でリンクしている。蛍も見れる。ここもお薦め。「まんてん」の撮影隊が長期滞在していたそうだ。Nec_2635

「富良野」 7月19日-21日

Img_2593_3 「知床」に行こうと思った。「白神山地」「屋久島」。日本にある世界自然遺産は3ヵ所。急に思い立ったので、JALマイレージ利用は日程の都合で実現できなかったが、旭川-札幌往復が取れたので、いつかは行ってみたかった「倉本總の富良野」に行った。私の「森の時Img_2534 間」は『優しい時間』のコーヒーショップをイメージして展開した。倉本總氏の言葉、随筆、「富良野塾」の数々の舞台演劇は、青年期以降の私の人生に刺激を与えてくれた。

「熊野三山」 8月23日-24日Img_1454

仕事の和歌山で週末を過ごす破目になってた。迷わずS代を呼んで、世界遺産の熊野神社、那智の滝に行くことにした。南紀にはダイワロイヤルホテルが3ヵ所あるので、宿の心配はない。弘法大師がかけようとした橋と言Img_1407 われる「橋杭岩」を見下ろす、「串本ロイヤルホテル」に宿をとった。黒潮から昇る朝日が橋杭岩を照らす。熊野古道を歩く時間はなかったが、古道沿いの山道を走り、「熊野本宮大社」と自然信仰の象徴「那智の滝」で平安の信仰に触れた。司馬遼太郎氏は串本町に流れ込む古座川峡の「街道」を歩いている。こImg_1426の地が気に入り、生涯唯一の山荘を古座川町のとある里奥に構えた。南紀に行 きたかった大きな理由は、「南方熊楠」。和歌山で生まれ、失意のうちに米国に渡り、キューバ、さらに大英博物館で働いた後、南紀の山に入り「粘菌」(変形菌)の研究を続けた。生物界は、Nec_1896_2 動物界・植物界・菌界・原生生物界・細菌界の5界に分けられている。変形菌は菌類のように胞子を形成するにもかかわらず、単細胞生物であるため原生生物界に分類される。成長しているときはネバネバしているので「粘菌」といわれるそうだ。白浜の岬に熊楠記念館がある。是非行ってみたかった。文献は殆ど残っていないので、研究内容は然程評価を受けていないらしいが、昭和天皇も同じ研究をされているとかで、天皇が白浜に上陸した際に拝謁し、採集した粘菌を献上している。粘菌につImg_1472 いて殆ど知識がないが、彼の天才的、奇行、破天荒な生涯に以前から大変興味があった。家では常に裸同然。家が衣服だ。自分の家に居て裸で何故悪い。南紀の旅で、彼の人生の軌跡がだいぶ分かった。益々興味が沸いた。

 

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バベルの塔

2008年09月08日 | 随想・雑文

「アブダビへ行く道は霧で閉鎖されているので、霧が晴れるまで移動できないよ。」 確か季節は日本の冬だったかもしれない。朝はよく霧が出た。20年程前だと思う。それが記憶に残る、初めてのドバイ。Img_1402 Nec_2037

久しぶりにドバイに行った。ドバイからアブダビ方面の砂漠にアメリカサイズのハ イウェイが走り、道の両側には高層ビルが果てしなく続く。いつ完成するとも知れぬ世界一を競うノッポビル。海には人工島のレジデンスとリゾートホテル、砂漠に巨大なショッピングモールとゴルフ場。外気は38度、モールの中Img_1609は涼し過ぎるほどに冷やされ、滑る人のいない大きな人口スキー場。

米国式金融資本主義に奢り昂ぶった人々が「バベルの塔」を建てている。巨大な塔を建て、天まで達するように企てたが、神の怒りにふれ、神は世界の言葉を「ばらばら」にし傲慢な人間を戒めたと言われる。それの物語を信ずるかどうかは別として、人間はしばしば過ちを犯す。物欲、便利さ、快適さの充足果てしなく追求してきた19世紀初頭の産業革命に始まった化石燃料文明は必ず滅びると確信させてくれた。

自分の欲望・幸せだけを追求するのではなく、自然の美しさ、畏怖、そしてその恵みを知り、地球、国、地域、そして当然の如く家族をも省みなければならないことを知っている。大地に深く、しっかりと根を張った大樹は、どんな風雪にも耐える。この大地は、人間の尊厳であり、人間の幸せである。バベルの塔を築くのではなく、血と汗で若木を植え、地中深く根を張る大樹を育てたい。私の黄昏は迫る。時間はそれほど残っていない・・・。

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豊かな時間-2008年夏

2008年09月01日 | 随想・雑文

都会の小さな草地にもたくさんのいき物が生きる。日に日に虫の声が大きくなり、コンクリートのビルの空にどこから来たのか赤とんぼが舞い始めた。風は変わった。暑くなりそうな夏に期待し、暑い夏を体感することをあれこれ計画立てていたのはつい昨日のことのように、今年の夏も足早に過ぎた。

都会の人の作り出すリズムに関わりなく、季節は着実に移りゆく。多忙ではあったが、充実した夏の日々。そして新たな決意、勇気、希望、夢につながる夏。

2008年の夏は、こうして過ぎた。

『森の時間』

6月14日-15日  水を湛えた佐口の田圃。畦道にアヤメが咲き乱れる。 <ahref="http://oquique3.blog.ocn.ne.jp/photos/uncategorized/2008/09/16/img_2393.jpg">Img_2393

6月21日-22日  訪問者。飲んで語る山小屋の一夜。Img_2409

7月6日  地面を叩きつける突然の雷雨。屋根下に避難。Img_2424

7月13日  今年もたわわに実をつけたラズベリ。Img_2440

7月26日-27日 Img_2663Img_2681

8月3日

8月8日-9日  春先に霜にやられたので、収穫の種類が少ない。 連日の突然の雷雨。この日は雹が降った。

8月17日-18日 一人で夕食 アジの開きとソーセージ、それに「のらくら農場」のにんにく、ズキ-二。Img_1355

Img_1490

8月30日-31日 「のらくら農場」で『収穫祭』 「食と農について語り合う会」夜の部。20代、30代の若い農業者、農業志望者、食に従事する若者たちが語る。日本は、本来農業国なのだ。

「norakura_2008_harvest.doc」をダウンロード

『旅』

「屋久島」 6月8日-11日   

「富良野」 7月19日-21日

「熊野三山」 8月23日-24日

《仕事》 「和歌山」

6月2日 

6月30日-7月1日

7月28日-29日

8月6日

8月21日-22日

8月25日-27日

7月31日 「静岡県清水市」

6月3日-6日 「中国」

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完歩

2008年03月09日 | 随想・雑文

Img_0121

数年振りに「43Km徒歩き」を歩いた。

ここ2年、色々な出来事があった。肉親の不幸が続き、自身の身の上にも骨折や突発的な入院、覚悟の転職・・・。希望の大学へ入学し、活き活きと学生生活を送る子供達は着実に人生の時を積み上げている。楽しいと時ばかりではない。じっと耐える辛く悲し時もある。人生には、山もあれば深い谷もある。

長い距離を食べない、飲まないで歩く。飢え、渇き、疲労を体験する 「自己鍛練」。寡黙になり、自己と対峙して、自分を見つめる孤独な時間。何かが変わった、変化した自分を確認したいと思った。

Img_0091 20kmまでは甲州街道を警察車が先導する団体歩行。それ以降は歩道に上がり自由歩行。30kmまでは軽快。35kmで止めたくなる疲労感。それから5km、更に3km。何度も座り込みたいと思った。その頃になると1600人の大集団が長い線になってまばらに散らばっている。遥か前方の数名の集団に近づき、追い越す。更に遠方の人影を捉え、暫しの並走状態の後に追い越す。そんな事を何度か繰り返すうちに、私を追い抜いてゆく人は居なくなった。誰ものペースが落ちていた。信号は無理せずに必ず止まる。後ろからImg_0112 数名が信号の変わり目に走り抜ける。信号待ちの間、座りたい誘惑に負けないようにうろうろ鈍く動き回る。早く座りたい。信号待ちのまま座り込んでしまった人が居る。道端には少年が座り込んで呆然としている。となりで父親らしき人がじっと見下ろす。一人ボッチの少年が膝を抱えている。おじさんがルールを破り、少年にそっと飴をあげた。「残りは30分位だぞ。ここまで自分の力で来れたのだ。諦めるな。頑張れ!」 私もその場で大地に体を横たえて思いきり足を伸ばしたい。足を騙すように一歩一歩前へ。スキッと背筋を伸ばし、両手を前後にリズミカルに振り、前へ、前へ。先程信号を走り抜けた人たちを直に捉える。後り5km、4km、3km。だんだん1kmが長く感じる。自分との闘い。残り2kmの表示がなかなか見えない。見えた!しかし、更に2km?! もう歩けない・・・。もう少しだ・・・。

43Kmを7時間30分で完歩。順番は281 位。万歩計は43,000歩を示していた。一歩が平均1メートル。その日の朝の受付締切ぎりぎりのエントリーだったので、集団のほぼ最後の出発。以前は7時間を切った時もあったが、数年振りで運動不足の昨今としては意外な好成績。足にマメも出来ず、足にそれほど痛みはない。まだまだ行ける、元気だ! 最初に到着した人は5Img_0120 時間36分。私と同年齢。2時間も違う。 時速7.8km!?  人の歩行の速さではない。 ゴールで支給されたパンと飲み物を、地べたに座り込んで貪り、飲みつくす。出発から10時間までゴールは開いているらしい。ルート上を大会の車両や大型バスが巡回していて途中リタイヤした人を拾っている。親子、カップル、オジサン、おばさん、若者の集団、続々と帰ってくる。立とうとするが、休息をとった下半身が言う事を聞かない。立ち上がれない。やっとの思いで立上がり、43kmよれよれになった身を繕って、棒のようになった足を引き摺り家路についた。達成感と心地よい疲労。日曜日の夕刻の青梅線登り電車。茜色の西日を受けた車両に乗客は疎ら。歩きで追いつき追い越し、また追い抜かれた見覚えのある姿が疲れきって眠っている。歩き疲れた長い一日が終わる。小さな達成感だけを心に、何もかも忘れて熟睡した。

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聖橋

2008年03月04日 | 随想・雑文

聖橋
朝の通勤は、2駅手前の秋葉原で下車して歩いている。靖国神社、フィリピン大使館の下のオフィスまで20分、約4千歩。 神田川に沿って歩く。陽気と風の強弱で、川沿いの北側と南側の道を使い分けている。この裸の木にも間もなく新芽が現れ、新緑に包まれる。

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