ブログを久しぶりに開いたら、下書きのままが一つ残っていた。感動の余韻で記したのだろう。
— MoriQuique (@Morikiku) 2019年1月10日 - 12:59
折角だから、投稿しておいた。5年日記を書くようになって、ブログから遠ざかっている。時々ブログも活用してみ... goo.gl/mkgTJm
「ウイーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団」の『ニューイヤー・コンサート2018』を娘と鑑賞した。
年越しの「東急Silvester Concert」や、ウイーン楽友協会黄金ホールの「ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団」のニューイヤーコンサート。正月はウインナワルツが満載です。ヨハンシュトラウスファンにとっては嬉しい季節。私のお気に入りは「南国のバラ」。中学生の時にワルツを知って、ロマンチストだった私はこのウインナワルツが好きになった。以来、ヨハンシュトラウスのワルツや喜歌劇は常に身の回りにあって、なんとなく自分の原点を見直したくなった時にはヨハン・シュトラウスを聴いていた。
7-8年前にウイーン経由でキエフやブカレストに行く仕事があって、何度か街を散策したことがあった。学生時代にユーレイルパスで通過した街。あの頃は建物や銅像にペンキが塗りたくられていて、憧れのウイーンは汚れたヨーロッパの町だったが、すっかり汚れは落とされていて、重厚な建物と深い街路樹に西洋の歴史を感じた。
ウイーンで時間があったら、バイオリンを弾く黄金のヨハンシュトラウス像に朝に夜に会い行き、周囲の木々の中を散策した。ウインナワルツは、私が物心ついたころの原点で流れていたメロディ。ウイーンの森のなかで、自分の歩んだ人生の一コマ一コマが走馬灯のように巡り去った。
最近、レコードプレイヤーを新調し大型ステレオスピーカーを復活させ、実家に埋もれていたレコードを数十年ぶりに聴いている。お気に入りだったアーサー・フィドラー指揮ボストン交響楽団によるBoston Popsシリーズにもウインナワルツ盤がある。聴きこんでいたその盤にかなり傷や汚れがある。ピッとかパチッとかジッとか時折弾ける雑音が懐かしい情感を引き出してくれる。大きな木製スピーカーでから流れるレコード音は電子的なCD音とは違う柔らかくて、深くて、優しい音だ。
ヨハン・シュトラウス管弦楽団は1844年結成され、シュトラウス一族が継承してきたウイーン・フィルを凌ぐ伝統の名門。コンサートは前後半で90分。それにアンコールが4曲。コミカルな指揮者や楽団員のコントもあって、一時も退屈することのないプログラム。来日オーケストラコンサートは始めてという娘も、思いの他楽しかったと満足げ。来年も来日してくれたら、聴きに行きたい。新春に相応しい佳き一日だった。
独り立ちして暮らす子供らがアラスカや横浜から家族を連れてやってくる。年一度の家族の時間、年末年始。手分けして買物に行き、ご馳走を調理をして、一同がテーブルについて賑やかな晩餐が始まる。久しぶりに会した子供らの見慣れた振舞いで、夫婦2人生活で持て余していた家の空間が家族の温もりで満たされる。家族皆が無事に一年乗り切れた安堵と家族と過ごす幸福感に包まれる大晦日。
かつて我が家にあったこの家族の時空がずっと続けばと思うが、子供らには自分で選んで歩き始めた夫々の道があり、この家の温もりには留まらず、自分の人生と家族を自力で守らねばならないのだから、数日後にはまた飛び立って行く。その時は一抹の寂しさをこらえ、泰然と見送る。そして、閑寂とした家で夫婦2人の一年がまた始まる。
セミリタイヤして17年目。それまでは、商社仕事が絶対的中心に生活が回っていて、懐の深い仕事に遣り甲斐を感じ、楽しみながらも人生をただ流していた気がする。その後も宮使いらしきを12年程は努めたが、魅力はさほど感じない遣り甲斐にはならない軽い拘束の仕事を選び、好奇心と個人的達成感を満足させることに時間をかけるようにしていた。ここ5年は、ITの恩恵をフル活用し在宅や出先どこからでも対応できる仕事にしていたので、気分もほぼ完全リタイヤになれて、一層増えた自由時間に好奇心をフル回転させている。
「森の時間」の建物群の建設はひと段落したので、これからはゆっくり時間をかけて敷地の7割ほどを占める未使用の斜面が活用できるように整地しようと思う。山小屋の野山遊びはスローダウンさせて、暫し中断していたスケッチと、全く縁遠かった事を始めようと思いAlto Saxophoneを始めた。往年の趣味であったスケッチは、線描きスケッチを自分のスタイルにしてみようと思い、4月から関本紀美子先生の「カラフルスケッチ」の手法を学んでいる。本来の透明絵具の水彩スタイルが好きだが、挑戦なので納得行くまでこのスタイルでスケッチ続けるつもりだ。
冒頭の人物スケッチは、F4サイズの初めての肖像画。40年近くお世話になった神楽坂「舟藏」のマスター。元プロボクサーの強健な人物だったが、闘病の末力尽きて亡くなられた。本当にお世話になった。人生の浮き沈みで叱られ、励まされ、何度男泣きしたことだろう。私の人生の応援団長でした。マスターの息子さんが新橋で「舟藏」を継ぐというので、マスターお気に入りの写真を肖像画にして寄贈した。素人の初めての肖像画で人前に晒せる出来ではないが、大変喜んでいただけたし、マスターを偲び気持を込めて描いたので、その想いが映されていればと思う。
カルガリーで暮らした6年間、夏になるとBC州南部からBigSkyモンタナ州やオレゴン州までロッキー山中をChevy-Astroでキャンプしながらドライブ旅をしていた。愛車は、オートキャンプ用に奮発したStarCraft仕様のConversion Vanで、サスペンションを取り替えて乗り心地良く改造していた。
ある夏、BC州に点在する日系人収容所があった場所を廻るルートでオートキャンプに出かけた。山間の針葉樹の森に包まれたニューデンバーという小さな集落に辿り着き、その町に吸い込まれるように散策したことがあった。幾重にも連なるロッキーの奥深い谷間に小さなログキャビンが整然と並び、沢山の日本人が暮らした痕跡と日本の田舎町がモダンに再現されたような家並みに驚き、感動した。山々と高い木々に囲まれているので日照時間は短く、暖房の乏しい当時の冬の生活は厳しかっただろう辺地。この町は近くに炭鉱があった頃は栄えていて、日本からのカナダ移住者の最初の定住地でもあったらしい。
戦時下、Vancouverで財産を没収された日系人は、廃村になっていたその町に強制疎開・収容された。丸太の廃屋を改修して暮らし、戦後も元の住居には戻らずにこの町で暮らし続けた方々が多く居られた。日本的家屋に改修された小さな丸太小屋と日本的な前庭が整然と並んだ風景、日本的な墓石で埋まる墓地には花が手向けられていて、日本的な生活感がまだ活きていた。
町のちっぽけなグロサリーで出会った日系のお爺さんと言葉を交わした。日本人と話して懐かしく、楽しそうだった。整然と並ぶ家々の大部分は既に長い間空き家になり、再び廃屋になって森に還りつつあった。朽ちて行く過程にある集落の静寂の中に、一軒の家の煙突から真っ直ぐ上る一本の白煙が見え、人が生活している温もりが伝わってきた。木々に覆われ、自然に溶け込みそうなその家の窓にはテーブルランプの明かりが見えた。住人は、ただその日を待っているかのように毎日同じことを規則正しく、静かに繰り返す日系のお年寄りだろうと想った。
今日は台風一過。太平洋高気圧が内陸の川越まで湿った熱気を送り込み、寒暖計は早朝から30℃を越えた酷暑の日。あの頃キャンプに連れ回った息子から、仕事の一環でBC州の鉱山や炭鉱に研修旅行に行くと行程表を送って来た。ドライブした懐かしい地名が記載されている。思わず当時のアルバムを探し出し、今日は記憶を呼び起こし思い出に耽った。こんな暑い日は室内で想いに耽るのが良い。
ブログの存在を忘れかけていた。
二度目のHouston長期滞在を一週間程経過した頃、異国の地でJapan-TVから流れてきた赤い鳥メンバーによる「遠い世界に」に感動したのだろう、その思いの投稿が最後になっていた。何に感動したのか記憶も覚束なく薄れている。
投稿記事の保存コーナーには、2月21日の倉本聰氏の「明日、悲別にて。」を観劇した後の感動の余韻が書きかけで残っていた。
寒い冬の最中のあの頃から、半年が経過している。
「森の時間のつぶやき」で写真付Twitterを、記録用にuploadしているが、写真を付けると文字数が更に制限されて、書きたい欲望は満たされない。
2月20日に帰国してからは、家族の一大事もあって、あっちこっちと奔走していた。 40年来お世話になった「Mチャン」との悲しい死別があった。今の自分を形成してくれた新人時代からの職場の先輩の闘病生活、その気力・生き様に心打たれ感動するも、世の不条理に納得できない思いをすっきりさせたくて、43Kmかち歩きに飛び入り参加。久々の自分試しに忘我状態になって現実を暫し忘れた。
そういえば、産土神ではないが、人生の変化があるときに参拝していた高麗神社にも、縋る思いで久しぶりに訪れたこともあった。
気になる「森の時間」の2013年初登場は、ひな祭り3月3日になった。 木に覆われる回廊は雪深く、冬に閉ざされていて、森の時間には徒歩で入った。しかし、春の陽射しを受けている小屋の周辺は雪解けの大地が顔を出し、土のエネルギーを感じさせていた。
熱帯夜が続くこの時期に、雪景色を投稿するのは、ブログのリアルタイム性に反するが、サボった夏休みの日記を提出せねばならない思いになってしまったので、ご容赦を。
と言った風に、半年を振り返りながら、いくつかの出来事をブログに投稿しておこうと思う。
と、突然に思い立ったのは何故だろうか。
TV-Japanから流れ出た懐かしのメロディと心に沁みる歌詞に、時が止まった。
遠い世界を旅し、長いみちのりを歩んできた今、次の世代に旅に出て欲しいと思う。
そして、日本の国土の良さ、美しさを認識し、それを守リ抜く思いが培われることを願う。
遠い世界に 旅に出ようか
それとも 赤い風船に乗って
雲の上を 歩いてみようか
太陽の光で 虹を作った
お空の風を もらってかえって
暗い霧を 吹きとばしたい
僕らの住んでる この町にも
明るい太陽 顔を見せても
心の中は いつも悲しい
力をあわせて 生きる事さえ
いまではみんな 忘れてしまった
だけど僕たち 若者がいる
雲にかくれた 小さな星は
これが日本だ 私の国だ
若い力を 体に感じて
みんなで歩こう 長い道だが
一つの道を 力のかぎり
明日の世界を 探しに行こう
今年のお正月は久しぶりに家族が揃ったので、九十九里の初日の出を拝むつもりだった。
が、年末寒波がいっそう厳しくなるという天気予報。かつて暗い海岸で日の出を待ち震え、風邪をひいた思い出が蘇えり、寒い海岸に向かう勇気が萎え、大晦日から年明けは暖かい部屋から一歩も出ずにぬくぬくとTV三昧を決め込んだ。
でも、どうしても初日の出が見たくなり、一人早起きして元旦の薄暗い夜明け前の町を新荒川大橋に向かった。
今年はやっと何かが変わる。社会の動きにも、前向きな、明るい希望の灯が見え出した気がする。
雲間から顔を出した初日の出。皆の健康、無事を祈り、足踏みしている私の夢の前進を祈願した。
一昨年の年末に母が他界した。昨年の正月は孝行尽くしきれなかった母との最期の時間を悔やんで沈んでいた。
今年の年末年始の出来事は、Nさんの手術。正月明けにお見舞いに行く事ができて、大手術後とは思えぬ、今まで通りの気丈な姿と会え、心底ホッとした。
病棟の大窓からスカイツリータワー。不忍池越しの下町の正月晴れの空に凛として聳えていた。
無理されず、元気に復活されることを心よりお祈りしています。
そして、松の内が明けて、慌ただしくHoustonに旅立ってきた。
昨年10月初めから11月中旬まで滞在し、2ヶ月後に再びこの地に舞い戻った。宿泊部屋は偶然にも前回とまったく同じ333号室。馴染んだはずの家具、キッチン、ふかふかのカーペットの大きな空間。だが安堵感はない。
Houstonは私の商社人生の基礎が培われた最初の駐在地。
ここで、Nさんご夫妻に何から何までお世話になり、Nさんからスケールの大きな仕事を学んだ。
30年から35年前の記憶も薄れる遠い時代の出来事だが、私の人生2番目の挫折、苦い思い出のある海外生活の地でもある。その同じ地に、斯くも長期間滞在し、当時とほぼ同じ仕事環境を創造し、人を巻き込んでいる。
自分でも思いがけない展開、奇妙なわが身の人生に考えが錯綜する。
人は他人から与えられることよりも、与えることはもっと喜びであるという思いで、わが身に鞭を打ってある仕事をこなしている。
過去3年近くの私の努力はそれなりの成果はあったと思うが、その集団が成熟しない故か、構築できた仕事が衰退し始めているのが残念に思う。
間違いなく短くなっている私の残りの時間。やり直しがきかないのだから目の前の与えられた使命には真剣に立ち向かうことにしている。思いの違いに若い集団との乖離があるのだろうか、いい加減な対応に苛立つことが多くなってきた。かつては仕事の「暴れん坊」と言われていた自分が、妙に優しく接している。遠い将来まで面倒見れない若者らに、嫌な思いはさせたくないし、自分も今更そんなことで不快になりたくない。
3年間、真摯に『与えて』きたと思うので、自分には悔いはない。悔やまぬ内が潮時かもしれない。
これからひと月程のHouston生活。時間を持て余しそうなので、Blogを再稼働させてみようと思う。
10月と11月は北米に長期間出張していた。
気が楽な仕事の出張ではあったが、35年程前の血気盛んな時代、楽しくも激務だったHouston時代の思い出を回顧する旅になった。
マイナス15℃のCalgary雪景色、Coloradoの夕陽、Wyomingの北風が吹き抜ける大平原、南Californiaの碧空、Galvestonのメキシコ湾海風、Chicagoの夜景、そして少しだけ秋が感じられたHouston。
7週間程の北米の旅は、気まぐれに『森の時間のつぶやき』に写真を残した。
帰国して二日後の週末、木々の秋色がまだ残っている事を期待して「森の時間」に行った。
すでに葉の薄めの落葉樹は落葉していたが、遠くのカラマツ林、ミズナラ、ブルーベリーが今年最後の秋色で迎えてくれた。
大陸とは違う混ざり合った日本固有の秋色だと思う。目に馴染む。
少し絵が描きたくなって、数年ぶりにスケッチブックを開いてみると、昨年秋に描かれた雑なスケッチがあった。
出張中の週末、一人でカナナスキスのホテルに泊まった翌朝の散策途中に描いていた。
稚拙でも、自分で描いた絵を見ると思い出が拡がる。その時の風の香り、音、体感した温度。その前後の出来事が昨日のことのように思い出す。
絵のギャラリー、一部をアップロードした。
時の流れに身を委ね、流されてきた。
年が明け、早々に、春の海と富士山を見たくて三浦半島を歩いた。
フィリッピンのClark市に行き、常夏を味わう。かつて米軍クラーク基地があったので、退役軍人らしき現地化した沢山の米人に遭遇する。
2月にはベラルーシに飛び、マイナス20度の凍てつく陸路200Kmを走りGlobinという町に入る。ウクライナのチェルノブイリに近い放射能汚染の放棄地が散在する地域。
3月に入ると、HoustonからCalgary、お決まりコースの今年初出張。
その間、千葉の成東を歩き、佐倉の古い街並みを散策し、
城山、高尾山にハイキングしたり、初来日した35年来のHoutonの友人と京都観光。外人を京都観光に連れまわるのは、何十年振りだろう。外人と同行する通訳ということで、京都御所に入れた。始めての御所。皇室の重みと歴史を感じる。
2012年の年明け3か月は、何も考えることなく自分を急き立てるように慌ただしく日月を消化した。
今年の「森の時間」の春は遅く、4月後半まで眠っていたので、野外活動の出足は例年より遅れた。連休過ぎてやっと色づいた佐口湖の堤桜。
張り合いが一つ消えてしまったのか、私の気持ちも「森の時間」から遠ざかっていたかもしれない。
今年の春は、関東地方の見頃な桜情報に気分が落ち着かず、知人に誘われるままに、東京下町や景信山、高尾山一丁平で、残りの人生で数える程になった日本の春景色を満喫した。
私のアウトドア‐ライフに影響を受けたらしい北京在住の中国籍朝鮮族の友人から、
北京郊外の低山ハイキングに以前より誘われていたので、連休前に思い切って行ってきた。2泊3日の予定だったが、月曜日に仕事を兼ねることになり、天津まで足を延ばし4泊5日の遊びと仕事の旅になってしまった。
「森の時間」の活動は連休から本格し、連休以降5月の森の時間滞在日数は11日間。
その間に、息子Hが寮生活送りながら働く新居浜に行き、一度訪問したかった宇和島城、山に阻まれた黒潮の特有な文化圏を形成している(と私は思う)高知に足を延ばし、岩崎家から高知朝市を漫ろ歩く。
5月最終週はソウルに飛び、プサン近くの町まで日帰り往復、24時間韓国滞在し、そのまま羽田経由の深夜便でSingaporeに飛んだ。そこからフェリーでBatam島へ移動。一泊して2日目の深夜便で成田に帰国。結構キツイ1週間だった。裏Batamともいうべきところに位置する点在する島々を眺める穏やかな海にせり出した集落に行き、昔ながらの静かな水上生活Kelongの上で肌にしっとりと馴染むSea Breezeに吹かれた。
6月に入ると、定番コースのCalgary-Houston、今年2度目、12日間の旅。表向きは仕事、それなりの初成果もあるが、慣れたルートに、慣れ親しんだ人々、何とか乗り切った。
気分は半働半休。重い雪でハンドルが取られそうになったBanffの初夏の雪に驚く。世界各地が予想外の気候に振り回されている。
17日に帰国し、それからほぼ1週間が経過した。
先週の2度の森の時間の作業と、新鮮な野菜で快食快便。なかなか抜けきらなかったJetlagから解放され、今やっと無事に帰国した気分になっている。
あまり考えずに流れに身を任せた半年。取敢えずはこれで良かったのだろうと思う。
まだ時間はある。 これから、立て直せば良いのだ。
その日の朝、奇妙な夢を見た。
海岸を走る一本の道。切り立った崖の下の岩礁に荒波が砕け散っている。
大きな鳥になった私は、夕暮れ色の濃くなり始めた日没直後の海岸線の上空をユッタリと舞っている。
突然、眼下の道の右半分が陥落し、通りかかった青い車が吸い込まれるようにダイビングして崖を墜落した。ぐしゃぐしゃになった車は半分波に洗われながら、ボンネットから白い煙を出している。
夕闇迫る時間帯、はるか遠く後続車のヘッドランプが向かって来るのが見える。ヘッドランプの数は三つ。三台が陥落箇所に接近していた。
「止まれ!止まれ!道路が消えている。落ちる、危ない!」 と叫んだが、人の声が出せない。
制止されなかった3台の車は、適度な間隔でジャンプして、すっかり暗くなった海岸の落ちて行った。大鳥は一部始終を冷静に眺めていた。
車内灯が衝撃で点灯したらしい車の運転席の窓から、背広、ネクタイ姿の男性が半身投げ出されているのがはっきり見える。まだ生きているかも知れない。
前夜、気晴らしだか、憂さ晴らしだか、きっかけは思い出さないが久しぶりに少し深酒をした。在宅でそのような状態になるのは稀だ。然程遅くない帰宅だったが、床に就いたのは夜半過ぎ1時を回っていた。
翌朝、少し重い頭を起こし、時計を見たら9時半になっている。8時間も寝ている。頭がすっきりしない。さらにウトウトしていたら、更に奇妙なシーンを見た。
闇の中で、何だかわからぬ生き物、魑魅魍魎にもみくちゃにされているのか、深い森の奥で、世界中の森の妖精が体にへばりついているような。息遣いや蠢く様子は感じるが、その生き物達が何なのか分からないまま、永い事揉まれていた。
その時、遠くで携帯が鳴った。
母が弱っているので、病院に急いで来て欲しい、との電話だ。
2週間前にも同様の電話があって、急いで駆けつけたが、到着した頃には、容態は安定していて、呼びつけた病院の若い医者が気まずそうにしていた事があった。
今回もそうだろうか。 しかし、昨日の容態から、その時の覚悟をした自分を思い出した。
私は父親譲りの酒飲みだから、父が亡くなってからは、お酒を飲む私を母は目を細めて見ていた。 昨夜は何をして良いか分からず、母が喜ぶかもしれないと思って、痛飲してしまったみたいだった。
母は、いつもの病室には居なかった。
看護士さんが私に気づいて、廊下の奥の個室に案内してくれた。廊下で容態を尋ねると、一言ぽつりと、だいぶ弱っているようですと答えた。
ドアーを開くと、小さな部屋に横たわる母の白い顔がすぐそこにあった。
脈拍、鼓動などの計器類の数字が止まっている。顔に触れると体温のぬくもりが感じられない。
後ろに控える看護士さんに、計器が止まっていますし、顔が冷たいですが・・・。 一体、何時からこんな状態に・・・。
看護士さんは、慌てたように、先生を呼びますと、飛び出ていった。
母は誰にも看取られることなく、逝ってしまった・・・。
その日から、2日が経過した。 切ない思いを言い表すことができない。
精一杯やったつもりでも、見とれなかったことに唯悔いるばかり。
私の空は黒い雲に覆われている。どこに居ても、重い大荷物を背負い、鉛の靴を履いている。明るい事、前向きな事、ワクワクする事が何も考えられない。
「いまは」を彷徨う母が突然、両手を空に上げた。そっと手を握ると、薄っすらと目を開けた。どんな夢を見ていたのだろう。今日の母は、酸素マスクに覆われた顔が苦しそうに歪んでいる。「すぐそばに居るから、大丈夫だよ。ゆっくりお休み。何か言いたいことあるのかい?」 微かに首を横に振る。入れ歯をとった乾いた口を歪めて何か話そうとしている。「ねな」と微かに聞こえた。 「何って言ったの?」 思いっきり口を開き絞り出すような声で、「おまえも、ねな。」 分かった「お前も寝な。」と言っていた。しばらくすると、「ちゃんと、カギ、締めて行ってね。」 私が実家から帰る際のいつもの聞き慣れた挨拶。だからはっきり聞き取れた。母は自宅に横たわっていると思っている。今日の会話はこれだけだった。眉間に皺を寄せ、口を歪めて苦しそうに息をする母の姿を見つめ続けるのは辛い。が、命ある限り見守ってあげたい。今は、他の事は何も考えない。ただ母に集中すればよい。
昨日はもう少し話ができた。目もパッチリ開いていた。研修で英国に行っている息子が、自分はもうお婆さんと話ができないのかと、悲嘆の電話をかけてきた。お婆さんに見せて、元気になって貰ってと、自分の元気な写真を送ってきたので、少し元気そうだった昨日の母に見せた。母は暫く両目を大きく開けてじーっと凝視していた。そして、写真の息子の満面の笑みに誘われるように微笑んだ。数か月振りに見た、以前同様の母の微笑。その笑顔が私を育ててくれた。私も思いっきり微笑んで母を見た。母が私を見た。笑顔は消えていたが、私の笑顔を受け止めてずっと見つめ返していた。気持ちが通じたと思い、すごく嬉しかった。それ以降、微笑顔はなかった。最後の微笑になってしまうのだろうか。もう一度見たい、母の微笑。
母と過ごせる時が、刻々となくなってゆく。
寡黙で我慢強く頑強だった父。入退院を繰り返し、寂しさを漂わせ始めた父を、母はどのように、どれくらい思っていたのだろう。父が逝ってから5年半。身の回りの事も出来なくなっていた母から、父の話、思い出を聞くことはなかった。父と暮らした家を「主婦」として守り続け、人の世話にはなるまい、子供に迷惑かけてはいけない、その一念で、動けなくなるまで頑張る母の姿に、私は胸が痛かった。それが母の信念、希望だと思ったので、二人だけの時は痛がりながらも動こうとする母を、私は制止はしなかった。
11月始めの或日の夜半、母が病院に運ばれた。
母ともう少し話がしたい。もっと知りたい事があるような気がする。知らないほうが良いのだろうか、知るべきでないのか。
冬至が近い日没時。病院に向かう近道、晩秋の夕闇に直立するさえざえとした雑木林が闇に沈み込もうとしている。西空からとどく、かすかな茜色をとどめて、木々は静かに立っている。母の横たわる病棟と、雑木林のシルエットが足元の闇で繋がろうとしている。色々なことが頭の中を巡る。自分は「覚悟」ができているかと思いながら、辛い現実に向かって闇に溶けた重い足を引きずった。葉を落とした雑木林の冷気が身に凍みる。マフラーを巻きなおし、ジャケットの襟を立てた。
葉っぱを全て脱ぎ捨てて骨格だけになりつつある冬の落葉樹。骨と皮だけの母の手を握り、ゆっくりと話しかける。苦しそうに口で息をして、虚ろな目で空を見ている。「来たよ。」肩を軽く揺すると、時間をかけてこちらに顔を向けた。認識できたのか、軽く首をふる。そして、絞り出すような声で、「あたたかい手、だねえ・・・。」 「いま、なんじ?」。「5時だよ。外はもう暗いよ。」 母が軽く頷き、目をつぶる。
何も聞かなくてよい、何も語る事はない、ただ手を握り続ける。母の手が暖かくなってきた。それだけで良いのだと思った。
何かスッキリしない年が終わった。
良い人生を送っているとか、満ち足りて幸せそうで羨ましいとか言われることがある。自分がそのように見えるとすれば、それは社会で生きていること、社会や知人・友人たちによって生かされていることを認識し、自ずと反応する社会性を装った振る舞いでしかない。つまり、真実の自分ではない、もう一人の気取った自分が社会に顔晒している。
大樹の陰に身を置く自分に飽き、世界を経験させてくれた会社人生に満喫して、敢えて自らを風雨に晒し、火中の栗を拾う人生に踏み込んだ。馴染みのなかった奥深い真の社会の出来事を、肯定的に、未来志向的に捉え、新たな様々な領域の人々との出会いを楽しみ、人生の体験を深めて10年が経過した。しかし、昨年の自分の選択と行動は、脱出しようとしていた、見た目だけの豊かさと便利で快適な都会生活の流れに身を任せる自分に戻してしまった気がする。熱くなった日本の自然、国土、家族、両親への思いが、急速に冷えてしまった。
満ち足りているはずなのに漠然とした不安、スッキリとしない何かが足りない感覚は、以前の自分に常に付きまとっていた。このモヤモヤの原因は分かっている。2011年は自分にとっても新たなDecadeの初年度。自然に目覚め、自然と共生することを模索した初心を思い起こし、日本の社会的存在であり、歴史的存在であって自然的存在であるという認識を価値観の中心に据えて、見つめ直さねばならない気がする。その手段が「森の時間」。
「森の時間」の場所: Googleで住所検索すると萩原ファミリーの「のらくら農場」に当たる。「森の時間」は住所登録がされていない山林地目、佐口湖の反対側の森の中にある。
ブログ再開宣言してからふた月が経過した。アップロードしたのは二度だけ。東欧とウクライナの旅の途中。旅と言っても引退後の自由気ままではない。マイペースに近い自由さはあるが、商社勤務時代の経験が繰り返される仕事、つまり貿易取引の開拓だったり、契約交渉だったりの一応は業務出張。だから、商談後も会食したり、ホテルの部屋に戻っても翌日の準備・対策を考案したり、関係者と連絡とってブレインストーミングしたりと意外に忙しい。自分の仕事の領域を広げてしまい、常に何らかの仕事のフォローをしている状態にあるので、無垢な自分に戻れるゆったりとした時間がなかなか持てない。その上に、初めてのウクライナでは野菜中心のローカル食に感動し、ウォッカと自家製ジュースとイクラの虜になってしまい、旅先ブログを連日アップロードするという覚悟は、ウォッカの勢いの前で萎え果てた。ならば、3月から始めたtwitterにでも、呟きを入れるかと思ったものの、それも億劫になっていた。
9月に初ウクライナとクロアチアに続き、10月になって再度東欧に飛んだ。今回はルーマニアで商談し、ポーランドにも行って、そのまま西回りでカナダでひと仕事して、先週の日曜日に帰国した。ポーランドのポズナンからフランクフルト乗り換えでカルガリーに飛ぶ際に預けたトランクが行方不明になるという災難にも遭遇し、落胆した。数日分の最少身の回り品や衣類をカルガリーのBAYという老舗デパートに買いに行った。「Furuikeya Kawazu Tobikomu Mizunooto」 日本の俳句は人類の文化だと、私を日本人だと知って、抱きつかんばかりに親近感を持って接してくれたウクライナから移住した妙齢の女性に日本の元気をもらった。この二度の東欧行状中に思ったことの数々は、薄れぬうちに書き留めたいと思っている。
10月の最終週末。台風が本土を直撃するとの予報だった。台風が来なければ友人と過ごす予定だったが、見送った。自分の好ましくなく流れる日々を仕切りなおすために、独りでも「森の時間」に行きたいと思った。
明け方の雨に閉じ込められた小屋で強く打ち付ける雨音。床カーペットで温かい布団に横たわり黙考する。何時間もそうしていた。
生育する野菜を愛でながら、雨上がりの「森の時間」を散策する。
久しぶりの誰にも邪魔されぬ時の流れに、塞いでいた心が開放された気がした。