"屋根"が星たちに語ったひとつの家族の物語。果たしてこの豊かさはいつまで続くのか? 平和はいつまで続くのか? - そして、時代を越えた本当の幸せとは?
家が朽ちるとき、屋根は不思議と最後まで残る。屋根はその下に住むものの出来事を逐一見つめ、ひそかに笑い、涙を流したりして来たに違いない。もしかしたら屋根はそうした出来事を、我々が疲れ果て眠ってしまった後で、つぶさに星たちに語ったかもしれない。屋根はその客観的俯瞰の目線で、大正から今への日本の歩みをどのように星へ伝えただろうか。戦前、物不足の中で、かつかつの暮らしを強いられた。それがあの凄まじい復興のなかで、たちまち解消し、逆に「豊か」と云う名の物の溢れる時代を招いた。需要と供給のバランスが崩れ、充実した物品を浪費せよと経済社会は声高に叫び出した。節約が善であり浪費は悪である。そういう教育を受けてきた我々は、この転向に震え立ちすくむ。時代の為に死んでいった者達、ひっそり耐えていきて来た者達。この人々の人生の物語を、屋根は星たちにどう語ったか。そのことを静かに考えてみたい。
-『屋根』」作者倉本聡氏の言葉より
「屋根」東京公演を観劇したのは6年ほど前だと思う。昨年夏、六郷巡りに富良野に行った際、富良野Groupによる『屋根』が2009年真冬の「富良野演劇工場」で上演されることを知った。私には、「森の時間」の最初の小屋の屋根を初めて自力で完成させ、雨露がしのげた時の感動がこの「屋根」のドラマと重複する。観劇だけのために冬の富良野、雪原に降り立ち、凍てつく空気と雪に包まれる。その『屋根』観劇の富良野の旅が実現した。一人でも実行するつもりでいたが、意外にもすんなりとS代が賛同してくれたので、結婚
記念日イベントしてANA特別パッケージを組んだ。
倉本氏との最初の出会いはカルガリーオリンピックがあった1988年前後のカルガリー空港。その後、数度お会いして いる。といっても、氏は私の事はもちろん認識されていない。氏の著書は殆ど拝読させて頂き、舞台も5作品は観たと思う。
離陸した羽田は曇天だったが、北海道に入ると雲が消れて地上が見えた。 洞爺湖と有珠山がくっきりと見え、開拓時代の区分けのままの碁盤の目のような大地の模様が続き、雲間に白く輝く旭川の町が見える。白いシーツのように見える地上のうねり。
富良野盆地が一望に見渡せる新富良野プリンスホテル上階の部屋にチェックイン。 小さな丘の上、十勝岳をバックに、今夜訪れる「富良野演劇工場」が見下ろせる。
ニングルの森奥にある「森の時計」 に向かう。私の「森の時間」は、この建物の雰囲気を意識しつつ展開してきた。お金をかけない主義で一人でコツコツの森の時間では、それが達成されることはない。森の時計と倉本ワールドは夢、希望の指標にさせて頂いている。ドアを開けると数組が席の空くのを待っ ていた。待つのは嫌いだが、昨年夏に来た際の長蛇を思い、待つことにした。カウンター席では、「優しい時間」のシーン通りにコーヒー ミルを使い自分で豆を挽き飲むことができる。暖炉の見える席で、お店のおじさんと歓談しながらマイルドな水とコーヒー。 暖炉の炎を見つめる。夕食前に、ニングルの森「ニングルテラス」を散策。
早めの夕食。利き酒セットで少しほろ酔い気分。「屋根」開演は7時半。劇場から車が迎えに来てくれる。 劇場入り口の出迎えは雪の熊。同乗者は関西弁のご夫婦など三組。千名ほどで満席になる小劇場。ほぼ半分の入り。間近で見る生声、息使いの迫力。最後のシーンが突然消え、漆黒の暗闇。そして闇の中から拍手の波が沸き起こり、舞台が再び照明に照らされると役柄通りの出演者、そして富良野塾の素顔の若い役者達が何度も登場する。立ち上がり拍手を続ける人、ブラボーを連呼する人、頭の上で拍手を続ける人、涙を拭う観客達。終演後、感動をこぼさぬようにゆっくりとロビーに出ると、そこに倉本氏が・・・。
感激を口に出すのが勿体無いような、どのように表現して良いのか分からないまま無言で車に揺られホテルに戻る。そして、初めてなのに、何度か繰り返しているお決まりのコースのように、凍てつく森の坂道を辿って「Soh's BAR」に向かった。愛煙家の為に倉本氏が監修した森の中のバー。「風のガーデン」 の撮影に使われていた。が、満席。待てばあきそうだが、凍てつく森を引き返し、ホテル最上階のバーに向かった。舞台の余韻に浸り、静かにグラスを傾ける。遥か暗闇の奥、ゲレンデ整備車の灯りだけが忙しそうに動く無音の世界に包まれて、至福の時が流れた。