森の時間 SINCE 2002

Le Temps Du Bois

6年間暮した町(3)

2007年05月11日 | 随想・雑文

 

TransCanada Highwayを西に向う。カルガリーからBanffまでは130km、更に60km走るとLakeLuise。LakeLuiseからJasperまでは220km。

P1030972ゆったりとした週末の午後、思い立つとBanffへ向かった。 山間のSprings HotelのデッキからP1030959  P1040015鳥の声に包ま れ、遠くBow Valleyを見下ろしながらアフタヌーンティー。季節ごとに異なる風景の中を散策し、時にはバンフの町中でお寿司を食べる。自然界のバランスが体にしみわたり、五感が蘇る。Banffはそんな至近にあって、かけがえのない場所だった。だから、このHighway Route-1をほぼ毎週のように行き来した。西に向かう と、徐々に迫り来るロッキー、その懐に入ってゆく連続風景の全てを、今も鮮明に思い起こす事ができる。 P1050572P1030942P1030948

カルガリーからロッキーを目指し、70km地点のIntersectionを南に向うとKananaskis County。P10505841988年カルガリーオリンピックのダウンヒル会場となったNakiskaスキー場がある。イタリアのトンバが活躍した冬季オリンピック。ダウンヒルコースの中程で観戦した。雪山を登って観戦する場所を陣取った。そんな上で観戦する人は殆どいない。真っ白な静寂の世界を、トンバの荒い息遣い、切り返しの雪面を切るエッジの音、ずっしりと着地する大地を打つ重みが大太鼓の連打のように山に響き渡った。手の届くような目の前を世界の一流選手が次から次と滑降した。日本のダウンヒル競技参加2人の内1人がM社スポーツ用品子会社の社員だったので、彼らの宿に日本食を差し入れたり、Banff Springs Hotelですき焼をご馳走した。彼は滑降で日本人として初めての上位に入った。

私の青春はスキーで明け暮れた。大学時代は、一応競技スキーの同好会にも属していた。カルガリーオリンピックの数年後、回転競技を観戦した同じスロープの急斜面で転倒した。競技風に頂上付近から一気に滑り降りていて、春先の午後日陰となってから発生するアイスバーンで飛ばされてしまった。そして、全身打撲で病院に運ばれた。遠くで見ていた人が助けに来てくれるのも大変な斜面に転がり込んで、しかも何本かの木に激突していたので、バラバラに散らばった。生きているのが奇跡だと言われた。同じ時刻、一台のヘリが近くの斜面で転倒した人を吊り上げていた。まだ、自分の体がどういう状態になっているのか分からず、雪に埋もれグッタリ横たわる虚ろな目が、その光景を捉え、自分も吊り上げられるのだと思った。翌日の新聞に、そのスキーで転倒した人が死亡したと書いてあった。自分は全身強打だけだったが、激突の瞬間が悪夢となり、痙攣状態で突然目覚める夜が続いた。ダウンヒルはもう怖くてできないと思った。その翌年にCanadian Ski Alliance指導員の講習を受講し試験を受けて、CSA指導員の認定を受けた。SAJと提携している協会なので、日本でもスキー指導できる。それを人生の記念にして完全にダウンヒルスキーは辞めた。その後、スキーはクロスカントリーひとすじになった。P1050589

Nakisika VillageはValleyを見下ろす小高い丘の上にあって、風光明媚で警備がしやすいということで、2002年G8サミットが開催された。VillageからはKananakis Golf Courseを眺め下ろし、裏にそびえるMt.Allan(2,816meter)の山麓や渓流に沿ってクロスカントリー・ハイキングトレイルが縦横に整備されている。都会的な風景、雑音から完全に遮断されたVillageなので、夏冬問わずに家族で泊まりに行った。Villageから更に南に向うとKananakis Lakesがある。荒々しい湖畔のキャンプ場で何度となく夜を過ごした。寒風と澄み切った夜空に満点の星。P1050621

Village下の渓流は、ハイキング・クロスカントリー時の我が家のピクニックスポット。家から手軽にいける場所なので、友人がカルガリーに来てくれた時のBBQスポットでもある。誰も居ない早春のピクニックテーブル、Mt.Allanから吹き降ろす冷たい風にひとり吹かれていると、ロッキー山麓の町、カルガリーで暮した思い出の日々が蘇った。P1050644P1050692P1050683P1050697

 

P1050842ロッキー越えのフライト。必ず窓際の席を確保する。

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6年間暮した町(2)

2007年05月10日 | 随想・雑文

P1050401 ロッキー山麓、標高千メートル、氷河湖から流れ出るボウ川河畔の丘陵に広がる町。この町で6年間暮らした。魅力ある人々にめぐり合い、子供も生まれ、優しい時空に包まれて暮したカルガリー。

大陸的な厳しい自然、夏と冬の季節の落差。寒い冬、昼はスノークリスタルが踊り、夜はオーロラが舞う。家族 が暖炉の炎に包まれる静かな時間。キャンプ・ハイキング・サイクリング・ゴルフ、アウトドアーライフ三昧の夏。冬にはクロスカントリーにダウンヒルスキー。そして雪見温泉。夏は短い、家族が夏休み入りする前の6月にビジネスゴルフが集中する。週に6-7ラウンド、夏至の頃は10時過ぎまで明るく、時には一日3ラウンド。カナディアンロッキーに点在するゴルファー憧れのゴルフ場でプレーする。午前中仕事して、ゆったりの昼食後にプレーする。ビジネスゴルフはそんなパターン。26歳の時にヒューストンで始め、北米12年間の生活でゴルフはP1050575 一生分やったような気がする。8年前のサンパウロが最後、それ以降、ゴルフは辞めている。

5月に来た時に、カナナキスに1人ドライブをした。雄大なロッキーの懐に広がるゴルフ場。ロッキP1050662_1ーで生まれたばかりの純な風の音、木々の新芽に降りそそぐ眩しい陽光。イメージ通りの第二打が岩山に吸い込まれるように打ちあがりグリーに落ちる。そしてボールはバックスピンしてホールに向って転がった。ロッキーのゴルフ場だったら、またゴルフがしたくなると思った。 P1050400

今回の旅は、一応仕事。ヒューストンのついでに足を伸ばした程度で、大きな課題はない。気楽な出張だ。土曜日の午後、カルガリーに到着するなり、南に向った。上空からカルガリーの町を見下ろしていたら、家族4人で暮した家が無性に見たくなった。P1050431P1050433P1050419

この家はTownHouse Condominiumという分譲家屋。地下一階、ステップ式3階建てで、大きな暖炉は2階まで吹き抜け。C$12万弱で買って、C$14万弱で売った。オイルブームの今はC$35万前後するそうだ。木々が少しだけ大きくなっているが、外観は15年前のまま、全く変わっていない。

車で3分程のところにある「Glenmore Landing公園」。天気の良い夏の週末は、サイクリング、散歩、ジョッギング、冬はクロスカントリースキーをした。P1050455P1050456P1050449ロッキー山麓の町、5月に入ってやっと和らいだ風に、木々の芽が目覚め始めている。

市の南に「Fish Creek Provincial Park」が東西に広がっている。P1050531 P1050525_1 P1050520 そ家から車で5分程度で、公園の西の外れに入れるので、夏は散歩、ピクニック。冬も雪の中の散歩やクロスカントリーを楽しんだ。ビーバーダム、鷲の巣も見れた。楽しみにしていたカルガリーでの週末、朝早く起きて真っ直ぐに懐かしいFish creekに向った。周囲に住宅が増えていたが、Creekに近づくと昔のままの静けさ。風に揺れる梢の音と、せせらぎの音。P1050560

Lake Luiseまで車でひとっ走りして来る予定だったが、Canadian Tireで大工道具などのウィンドウショッピングが楽しくなり、昼近くになってしまった。ロッキーに近づきたかったので、KananakisVillageに行く事にした。出発前に、通いなれたGlenmore P1050511 LandingのSafeWayで海苔巻きLunchBoxとBBQ ChickenBreastを買った。海苔巻きのごはんはボロボロ、まず-イ!P1050635

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6年間暮した町(1)

2007年05月05日 | 随想・雑文

P1050141 8年振りのヒューストン。最後に訪れたのはサンパウロ駐在時代の1999年。

コンチネンタル航空がヒューストン-サンパウロ線を開始する宣伝のため、サンパウロ在住の日本企業の幹部に、ビジネス往復とWoodLandでのゴルフの招待状を送ってきた。その招待状がエネルギー関係の仕事をしていた私に回ってきた。上等なホテルに泊まり、ゴルフ、BBQパーティー、全員に結構な賞品が行き渡った。そして、自由時間にはヒューストン駐在の同僚達とも楽しい時間を過ごした。O君の閑静な自宅でバーボン片手に談笑しながら聴いたCCRが今も耳に残る。が、その旅はサンパウロから5000マイル日本に近づき、再び地球の裏側の単身赴任の地に戻る、ワクワクできない旅だった。その年の一月に、成田-ヒューストン直行便が開設され、このヒューストン経由を入れると日本-ブラジル路線が三本になった。ヒューストン乗換えのルートが、24-26時間かかるLA、NYK経由より少しだけ短縮されたが、ヒューストン経由は利用する気にならなかった。20代後半の6年間、初めてアメリカンライフに触れた土地、私生活を蔑ろにして仕事に邁進した時代。この町には、苦い思い出が残る。

4月27日から5月10日まで、仕事の関係でヒューストンとカルガリーに行った。 「森の時間」の計画満載の連休P1050198が丸潰れ。ヒューストンでは、『Offshore Technology Conference』(4月29日~5月3日)の出展の助っ人。グループは初参加。場所も仮設テントの端。殆ど準備されないまま迎えたテキ屋の夜店のような展示。P1050200P1050243P1050284

エネルギー業界はバブル状態。数十年ぶりに当事者となって参加したOTC。新興産油国の成金とエネルギー業界で一攫千金狙う国籍知れぬ輩、エネルギーリッチの肥満Texanの徘徊にウンザリ。金の力、支配する力、エネルギー、マネーゲーム・・・。居場所をなくした私の心は冷え、人々を冷淡に見つめた。

P1050161 週末の空き時間、メキシコ湾入江の漁港「KEMAH」に行った。かつては牡蠣等新鮮な水産物を出すレストランが水際に立ち並んで、港を出入りする漁船をボーっと眺めに行った素朴な漁港だったが、今や一帯がWaterFrontのAmusement。P1050139

ほんとに久しぶり、ショッピングモールの草分け的存在、「Gallaria」にも行った。70年代はメキシコのオイルリッチで賑わい、今は中南米と中近東、西アフリカ、東欧それと中国、世界中から俄かオイルリッチが物欲を満足させんとウロウロ歩き回る。

P1050136 南西部に広がるBellaireの一帯は「New China Town」と呼ばれている。ヒューストンの華人は30万人に達しているそうだ。香港、シンガポール、中国本土の大都会並のレストラン・宴会場がひしめいている。今や米国は中国経済なしでは存続できない。中国共産党・成金は米国ライフスタイルの模倣に邁進する。西に向った遊牧狩猟畑作民族の流れと、東に向った略奪・征服の遊牧民が太平洋越に最強の再会を果たした。文化、風土、生立ちから見ても、米中の嗜好・欲望は一致する。一気に両国は熱くなっている。肉食狩猟民族同士の蜜月は、草食漁労稲作民族、日本民族の危機になる。アメリカで民主党大統領が誕生すると、中国共産党帝国の超強大国化が早まり、漢民族略奪の歴史が再開する。日本人の貞操と自然が奪われる。やはり、中国は危ない!

P1050366 「Katy Frwy」は、米国南部を東海岸から西海岸までつなぐ幹線道路。ヒューストンでは、西の郊外にあるKaty市に向う道なのでこの名前になっている。西方面は、洪水止めの貯水ダム、土剥き出しのPublicのゴルフ場だけの荒地が広がっていたが、Katy市まで繋がるようにFrwy脇の商業施設の開発が進んでいる。P1050378 今回は、かつてはアルマジロとガラガラ蛇の草原だった一帯のKaty Frwyのroad sideにできたモテルに10日滞在した。そして、もう一つの6年間、思い出豊かな町、カルガリーに向う。

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