ほぼ一月ぶりに和歌山に行った。4月からは事業所所長兼務がなくなり管掌だけになったことと、資金繰り悪化の折、不要不急の出張は自粛するということで、毎週の和歌山通いはなくなった。それで少し楽になり、毎週の「森の時間」通いが出来るようになった。
私が職場・会社を変えても常に呼べば応える距離の存在で、ある分野では私の知恵袋的存在になって頂いたNさんが、何度も宣言していた退職を本当に実現されることになり、何度も足を運んでいただいた和歌山でお祝いをすることになった。久しぶりの和歌山出張で、事業所関係者とは打ち合わせ、情報摺り合わせなど仕事のアジェンダは多々あるが、これが私の心内の出張目的。万難を排して駆けつけた。
場所は、 シャッター通りと化した「ぶらくり通り」の裏筋、狭い銀座通りにある「いろは劇場」。ネオン、外部色彩はまるで「XXXX劇場」。店に入るまではまさしくそのもの。和歌山の新鮮な魚とすべてのお酒が常備されていると自身持つ主人の店。私の和歌山の行きつけ。この店を推薦し、会を開催してもらった。N氏には大変お世話になった。蒲田、座間、ヒューストン、カルガリー、シンガポール、ベンガジ、トリポリ、エドモントン、洲本、そして和歌山。「困った時のNさん頼み。」 相談を持ちかけると、どんなことでも快く、しかも期待以上に応えて下さった。私が今もこうしてこの業界に残り、食みを得ていられるのはNさんの存在、強い励ましを受けてきた。私の退く時期も見えてきたような気がする。いくら厭になっても、大きな困難があろうとも、途中で投げ出すのは私の信条に反するので、今の翻弄状態は見捨てるわけには行かないだろう。「辞めたらぶっ殺して、家に火をつける」と言うKさんの期待にも応えてから身を処さねば。だから、まだ消えるわけには行かないだろう。もう一肌脱いであげますかな、・・・。
二泊三日で北京、青県に出張した。一泊二日で用は足せたのだが、二泊三日にすればJAL航空運賃が10万円安いとかで、貴重な土曜日が一日潰れた。エコノミーでも日本の航空会社の食事は安心できる。三宅裕二が監督した新作映画「結婚しようよ」を鑑賞しながらゆったりと食事する。素朴なシーンに一人涙。涙腺が弱くなってきた。
JGCメンバーひとり一人にチーフアテンダントが挨拶をする。まだやっている。その後もしきりに声をかけてくれる。悪い気はしない。
M物産の方2名を青県にある工場にお連れし、現地側と市況の意見交換するのが目的。気楽な出張。一行は一泊で帰国したので、翌日の夕食はひとり。早々と風呂に入りルームサービス。ちょっと注文しすぎた。出されたものは平らげる性質なので完食。中国に来れば外でワイワイがやがやが多い。珍しく一人静かな夕食。一人が良い。でも、つい食べ過ぎてしまう。
![Img_3602 Img_3602](http://oquique3.blog.ocn.ne.jp/morinojikankara/images/2009/05/29/img_3602.jpg)
帰り便の機内食。赤ワインを多めに飲んでしまい映画鑑賞中に眠りに落ちる。何を観ていたのか思い出せない・・・。
「森の時間」のある地に初めて足を踏み入れた7年前、なだらかにうねる馬の背状の土地は草 原の一部のようにほぼ全面が草に覆われて、森の土が削り取られた平坦な部分は草の疎らな剥き出しの赤土だった。林分の遷移で言えば、「二次遷移」の「林分成立段階」。土地を手に入れた開発業者は、3-4百坪10区画ほどに分けて別荘地として分譲しようとしたらしい。西側の半分は土地投機目的の東京在住者に売って、
売れなかった残り半分を開発しようとした業者の名義になっていた。登記簿にはバブル時代に2億円弱の担保設定された記録がある。その後、田中長野知事時代に大規模開発は厳しく規制され、町でも厳しい環境条例を制定したこと、農業用水ため池の隣地にあるため地元の強い懸念があった等で開発は実現されなかったらしい。
周囲の深い樹林はカラマツを中心とするアカマツ、コナラ、クリ等の二次林。近代史において日本の森は二度壊滅的に伐採された。一度目は明治維新。江戸時代まで、「木一本、首一つ」と言われ各藩によって守られた樹林が、無秩序状態の明治新政府時代に薪炭用に大量に伐採され、里近くは禿山になった。その後再生が図られ森林は回復したが、第二次世界大戦後の物資不足時代に再び過剰に伐採され、経済復興、高度成長期、輸入木材が解禁され、さらに燃料革命によって薪炭・木炭生産が衰退する1970年頃までは集中的森林伐採が続いた。日本林業の全盛期ではあったといえる。辺りのカラマツ林は、70年代以降に集中的に植林されたと思うので、樹齢は凡そ30歳前後だろう。 太いのは50-60歳。近くに間伐した森がある。太い切り株の年輪を数えたことがあった。私の歳と同じだった。一緒に薪拾いをしていた息子が、同じ年月を生きた貴重な木なのだから切り株でも大切にしたらと言った。人の手が入った二次林は生態学
的には本当の自然ではない。二次林の近くには必ず人が住んだことがあり、原野や原生林を切り開いて作った田畑がある。人の活動は、暗い原生林を明るい雑木林にして、色々な生き物の生活の場を作り出してきた。深い森から明るい場所へと移行する環境に、それぞれの明るさを好むさまざまな植物と動物の生息場所・空間が形成される。人は生きるために自然に手を加え変えてきた。しかし、自然は人に干渉されなくなると押し返してくる。人と自然が凌ぎ合い、生物種の移行帯である人の手の入った里は「エコトーン」なのだ。
5時過ぎになると鳥が囀り始める。寝ていられない程うるさい色々な鳴き声。強制的な目覚まし、起床ラッパのように眠い眼をこすりながら起きざるを得ない。この日は、さらに騒がしい朝だった。この季節の日曜日、佐口湖の土手が地元の消防団によって「野焼き」される。朝早くから軽トラがたくさん終結し、大声と枯れ草の燃える音が賑やかに聞こえる。時には10メートル程も炎が舞い上がり、枯れ草を焼く音が爆竹のように響き渡る。野焼きによって人為的攪乱が与えられた枯れた草叢に、明るい場所を好む色々な草花が蘇る。埋土種子、風散布種子、地下茎、根萌芽から芽が出て、花を咲かせる。
井戸掘りの業者を探した。月曜日に現場に来て打ち合わせることになったので、予定外に土曜・日曜連泊した。里奥にある「森の時間」はエコトーン。私のロジックと先住の生物達のロジックがぶつかり合う。
冬枯れに包まれている一角に小さな変化。枯れた草、枯葉の間から柔らかそうな薄緑に輝く芽があちこちに顔を出し始めている。人里離れた静かな里奥。穏やかな日。優しいと言う表現は人間について形容する言葉で、自然が優しいというのは正しい表現ではないかもしれない。だけど、生命の復活、春の兆しが見え始めたこんな時、自然の優しさをふと思う。自然は何も言わずとも、能動的に働きかけずとも、受けてである人間はそれ自体に「優しさ」を感じる。
「春の喜び」、「夏が終わる悲しみ」や暴風雨になると「自然が怒っている」という言う。自然にある一番深い感情は、優しく育む喜び、「春の喜び」だろう。人の感情は自然の変化を感じる感性から生まれたのだと思う。「天地有情」という言葉はそういうことなのだろう。感性を有する人間にとって自然の変化はとても大切だ。他の生物は人間と同じような感情はあるのだろうか。
春の山菜が採れるかもしれないという言葉に釣られてS代が同行した。藪に入ってフキノトウを無心に採る。S代が変わった。自然の優しさが満ちていると思った。 人の優しい部分と自然の優しさが通じ合っている。優しさに満ちた空間。 S代が籠一杯にフキノトウを摘んだ。