両手両足にテーピング。両手が殆ど使えず、右足には全く力が入らない。ひとたび横たわると起き上がるのが大変だったが、一週間もすると右足を引き摺りながら、杖を頼りに動けるようになった。
そうなるとじっとしていられない性分が目覚める。週末以外の日、家族は学校や親の介護で皆不在で、監視はいない。駅前の図書館や、新聞を買いに外に出かけ始める。新聞に「明治神宮野球大会」の大学優勝戦にW大学が出るという記事を見つけた。仕事を休んだ普段日に野球見物。こんなことは生涯二度とできまい。何としても行きたくなった。もう少し回復したら杖を頼りに仕事にも行かねばならないので、階段だらけの駅の移動に慣れておく必要もあった。それで、思い切って電車に乗って東京に出かける事にした。
生憎の曇天、雨が降り出しそうだったが、完全防寒のいでたちで使いすてカイロをポケットに入れて出かけた。右足を引き摺り、杖に頼っていると腰の左側が痛くなり、長くは歩けない。休み休みゆっくりと歩く。階段は手摺に頼り、上りも下りも一歩ずつ。人々に追い抜かれる。気にせずにゆっくりと歩を進めていると、町や駅の光景、人々の動きが良く見える。今まで目が留まらなかった物が目に入る。異国の地を初め て歩く時のように、一つ一つの光景が新鮮に見える。信濃町からはタクシーに乗りバックネット裏の入口前につけてもらった。何とか時間までに球場にたどり着い た。入場券を手にして中に入って愕然とした。球場は階段だらけなのだ! しかも階段の一段一段がやけに高い。バックネット裏の席にたどり着くまでが一番しんどかった。ハンディキャップのある人も観戦できるはずだから、どこかにエレベーターとかがあるに違いないが、見渡す範囲にはなかった。高校の決勝戦が長引き、大学の部の試合開始が遅れていたので、試合には間に合った。試合が始まって暫くすると雨がぱらつき出した。皆、屋根のあるバックネット裏の三階に移動を始めたが、
杖に頼っている者にはとてもそんな高くまでは行けない。移動せずにぱらつく雨の中で暫しじっとしていると雨は小降りに。が、また降りだし、今度は本格的に降り始め辺りが濡れて光りだした。W大学の打線も湿っていて殆ど打てない。応援も盛り上がりきれず、寂しい試合だったので、早々と球場を去ることにした。
帰りがけに「神宮外苑いちょう祭り」を、ゆっくりと通り抜けた。イチョウはまだ青々している。雨が降り始めた普段の日。たくさん出店が出ていたが、誰も歩いていない。傘は持ってこなかった。雨をしのぐように木陰から木陰に移動。木陰で枯葉を踏み、どんぐりを拾う。杖を頼りにゆっくりと神宮の森を抜けた。
この日の体験で、杖で歩く人、体が不自由な人、がんばって歩いている老人、そんな人達にもっと優しくなれると思った。