2011年3月11日は金曜日でした。沢山の大切な命が失われました、合掌…。
あの日を忘れないように、記憶していることを毎年書いています。
あの日、1回目の揺れが来て、自分の担当エリアに走って行った時突風が吹いて、その後また大きな揺れが来ました。それは震度5弱の生まれて初めて経験した大きな地震でした。
震源地からは数百km離れていて、北の窓から見える東北の空は真っ黒でした。
その後は対応に追われ、緊急の対策会議が余震のある中開催されたりして退勤できたのは19時頃。電話はすぐ不通になって、家族の安否を確認出来たのは夕方でした。
業務が立て込んでいた為、津波被害について把握しておらず、家に帰ってテレビを見て初めて、未曽有の事態が起きている事を知ったのです。
震度5クラスの地震が来たら職場に行かなければならなかったため、その夜は階下で服を着たまま就寝しました。夜間、何度か余震がありました。
福島原発が津波被害にあって電力の供給不足となり、計画停電を経験しました。通勤時、信号は止まり、大きな交差点以外は警察官はおらず、皆譲り合って通行しました。
テレビは地震のニュース一色となり、バラエティ番組はなくなって、CMも消えました。
ガソリンが不足して購入量に制限があったり、地震発生直後からスーパーの棚から食料や水がなくなりました。どこのスーパーに行ってもお米が買えなかったのを記憶しています。この時、備蓄の必要性を痛感しました。
原発の放射能汚染に関連して、遠く離れた当地でも、職場では毎日の放射能測定が必須でした。
桜の咲く頃が来て、自粛で地域のイベントは中止になりました。
毎日、毎日揺れるので、そのうち地震がなくても揺れているような感覚になったりしました。毎日不安な思いの中で2011年の春は過ぎて行きました。
以来、9月1日と3月11日前後は、備蓄品のチェックをするように心がけています。