人はパンだけで生きるにあらず、神の言葉により生きる

イエス・キリストの福音をぜひ知って頂きたい

信仰は私たちの救い主ではない。

2012年08月26日 | お気に入りの言葉

山頂めざして カウマン夫人著より
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、
走ろうではないか。(ヘブル十二・二)
信仰は、あなた自身の信仰から目を離し、イエスを仰ぎ見る。
ある人々は、イエス・キリストを信ずる信仰ではなしに、自分自身の信仰を信ずる信仰を持とうとしている。
主観的な条件を探求し続けているのである。
彼らは、客観的なキリストを仰ぎ見なければならない。
真の信仰は、その信仰自身に対しては全く注意を払わない。
それはキリストに注意を集中する。なぜなら、信仰は私たちの救い主ではないからである。
信仰は、単に魂のとる態度にすぎないのであって、その態度を通して、イエスが救って下さるのである。
サタンは、他の方法によっては私たちを欺くことができないとき、私たちにキリストを仰ぎ見させる代わりに、
私たち自身の信仰を吟味させる。
最も堅固な心を持っている人は、その心の存在を最も意識していない人である。
また、最も強い信仰は、信仰それ自身に対して全く注意を払っていない信仰である。
あなたは、憂慮して心に注意を集中することによって、心を弱めるであろう。
そのように、絶えず信仰を見いだそうとして努めることほど、すみやかに信仰を弱めるものはないのである。
それはちょうど、子供が種を掘り起こしてその成長を調べるのに似ている。
種に害をもたらすのは好奇心である。人を救うのは、彼の信仰ではなく、キリストを信ずる彼の信仰である。
キリストを仰ぎ見ることが信仰なのである。キリスト以外のものを見つめることはーーたとえ信仰を見つめることであってもーー
魂にわざわいをもたらす。それゆえ、あなたの信仰について、思い悩んではならない。
あなたの信仰を常に精査してはならない。あなたの信仰から全く目を離し、イエスを見つめなさい。
なぜなら信仰そのものは無価値だからである。価値のあるのは、イエスを信ずる信仰だけである。
あなたが救い主イエスに常により頼んでいる状態にあるように注意しなさい。
そうすれば、あなた自身の信仰に注意を払う必要はないのである。