あなたがたのうちに働きかけるのは神である。ピリピ2:13
私が手袋を持っているとします。手袋は、それ自体では何もできません。
しかし、私の手がその中に入ると、いろいろなことをすることができます。
そうです。働くのは手袋ではなく、手袋の中の私の手です。
私たちは手袋です。手は、私たちの内におられる聖霊なる神です。
聖霊が仕事をなさるのです。私たちのすることは、指が全部入るように、手を入れるところを作ればいいのです。
恵み深い御霊よ、私と共にいてください。私自身が、恵み深い者となるように、
御言葉をもって助け、癒してください。私の生涯を通して、あなたがあがめられますように。
大胆で柔和な働きをもって、キリスト・私の救い主が語り出されますように。
ありがとうございます、主よ。私はただの手袋です。聖霊なる神さまこそ、手袋の中の手です。
コーリー・テン・ブーム著 「日ごと新たに」より
あなたがたは、「もし主のみこころであれば・・・・・・」と言うべきである 。ヤコブ四・15英訳
主よ、あなたを尋ね求める者をあなたは捨てられたことがない。詩篇九・10
「祈ること・・それは願うこと。しかしそれは、神が私たちに願っておられることを願うことです。もしそれが、心の底から願う強い願いでないなら、その祈りは偽りの祈りということになります。」フェネロン
チャールズ・E・カウマン夫人著 「荒野の泉」より
御父よ、わたしたちが、恵まれた家庭の中で安穏無事であるときに、
生活の群れに結び合わされている他の人々のことを忘れることのないようにしてください。
広く人々のことを思いめぐらし、その人々のために祈り、その人たちのために語り、
また働くことができるようにさせてください。
そして、わたしたちの力の及ぶかぎり、あなたがわたしに託してくださったものを、その人たちと分かち合うことができるように導いてください。
主イエス・キリストによって祈ります。アァメン(ギルバート・シモンズ)
ドバースタイン編 山内六郎訳 「絶えず祈れ」より
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、 一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。ヨハネによる福音書一二章二四節
一粒の麦は土の中に自分を埋めて(死んで)、新たな生命を生み出します。多くの実りを生み出すために一粒が死ぬのです。
自己を隠すことで多くを生かします。
自分をかくすことができないことによって人間は不毛なのです。
小島誠志・渡辺総一著 「喜びも、悲しみも」より
わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる 幼子のようにします。詩篇一三一篇二節
幼子は母の胸に抱かれることにより、生きるために必要な基本的なものを受けとります。
命が受容されているという安らぎを。
神に抱かれているという満たされた認識からだけ、人の魂は息づくのです。
小島誠志・渡辺総一著 「喜びも、悲しみも」より
『われらは火の中、水の中を通った。しかしあなたはわれらを広い所に導き出された。』詩六十六ノ十二
これは逆説ではあるが、人は戦いを通してのみ安息にいたるのである。
この戦いから生まれる平和は、暴風に先立つ死んだ静けさのようなものではない。これは暴風の後に来る、澄み渡った静穏である。
悲しんだことのない人は、よしんば強く、平安の中にあっても、必ずしも恵まれた人とは言えない。
このような人は、その性質を試験されたこともなく、どんな小さい動揺にも耐えることができない。
一度も暴風にあったことのない船員は最も安全な船員ではない。彼は天気のよい場合には役に立つが、暴風が起こったとき、
大波と戦いぬいた、航海に充分経験のある人の代わりにはなれない。しかし、経験のある人は、船の力とその弱点とを知り、
船具の強さと錨の先が海底をしっかりと押さえることが出来ることを知っている。
最初の不幸が押し寄せるとき、何とすべてのことが崩れ去ることよ。
わたしたちの執着し、からみつく希望は断ち切られ、あたかも暴風のためにぶどうだなからむしりとられたぶどふづるのように、
わたしたちの心は打ち倒される。しかしこの動揺が過ぎ去って、わたしたちが上を見あげて、「これは主である」と言い、
信仰がその打ちひしがれた希望をもう一度主に挙げて、神のみ足にこれを結びつける。こうしてその終わりは確信と、安全と、平安とである。
レテー・B・カウマン 荒野の泉より
御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与えください。詩篇八六篇一一節
ひとすじの心とは神に向かう心です。試練の時も悩みの日も神に向かうのです。
誘惑にさらされた時も罪に落ちた日も逃げないで神に向かうのです。
厚い雲のはざまから、光はやがて射し初めます。苦難のヨブは嘆きましたが、神に向かって嘆きました。
怒りましたが神に向かって怒りました。涙は神の前で流しました。
気が付くと神の大きな手の中に、彼はいました。
小島誠志・渡辺総一著 「喜びも、悲しみも」より
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その 人は 豊かに実を結ぶ。ヨハネによる福音書一五章五節
双方向からのつながり、ということがいわれています。
キリストの手がさしのばされ、わたしたちをとらえます。
わたしたちの手がのばされ、キリストの手をにぎります。
そのように双方が結びつくことによって枝は実をみのらせるのです。
人間の実力や良い性格が実をみのらせるのではありません。
どんな人間でも、キリストという木につながって豊かに実を結ぶことができます。
小島誠志・渡辺総一著 「喜びも、悲しみも」より
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って くださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。 マタイによる福音書六章三〇節
明日は炉に投げ込まれる野の花も、今日ただいまは美しく咲いてます。
「生きる」ということは与えられている今日の命を存分に生きることであります。
明日のことを思い悩んで生かされている今日をしおれてしまってはならなのです。
まして、わたしたちの命は「明日は炉に投げ込まれる」ものではありません。
永遠に向かって、神のみ手にみちびかれている命であります。
小島誠志・渡辺総一著 「喜びも、悲しみも」より
たらいに水をくんで 弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。ヨハネによる福音書一三章五節
イエスは弟子たちの足もとにひざまずきます。
かれらの足を洗うために。そうしなければ足の汚れをぬぐうことができないからです。
その人の前にひざを屈しなければ人の汚れをぬぐうことはできません。
自分も汚れる覚悟なしに、人を変えることはできません。
小島誠志・渡辺総一著 「喜びも、悲しみも」より
ある人に百匹の羊 があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、
九十九匹を山に残しておいて、その迷い出 ている羊を捜しに出かけないであろうか。マタイによる福音書一八章一二節(口語訳)
神はひとりを追い求められます。
神はひとりと出会うことを求められます。数で処理されません。
ひとりひとりの存在をかけがえないものとして受け入れてゆくこと、それが弟子たちの使命です。
全人類の救いというような抽象的なことではなく、目の前にいるひとりの魂を愛し、
追い求めてゆくことの中に弟子たちの使命があります。
小島誠志・渡辺総一著 「喜びも、悲しみも」より
神よ、あなたは、争い、疑い、かつ怒りっぽいわたしたちの心がどんなに災いなるものであるかを、よくご存じであります。
どうか、わたしたちに臨んで、わたしたちを助けてください。そして、わたしたちの家庭に平和をさずけてください。
祈ることの少ないのをおゆるしください。愛の欠乏をゆるしてください。自分の権利ばかりがんこに主張するわがままをゆるしてください。
あなたのお与えになる平和を抜きにして、わたしたちの心には平和のないことを、わたしたちにわからせてください。
神よ、どうぞ、あなたの和らぐ心をまずわたしたちに授けてください。そして、それによって、相互に和らぐことができますように。
主イエス・キリストによって祈ります。アァメン
ドバースタイン編 山内六郎訳 「絶えず祈れ」より
すべての良きものを造り出される全能の神よ、この家族と一族の者にあわれみを垂れてください。そして、その全部の者を祝福してください。あらゆる危険と困難から救い、かつ守ってください。わたしたちの魂とからだに必要ないっさいをお恵みください。そしてわたしたちを、天のみ国まで安らかにともなってくださるようにお願いいたします。主イエス・キリストによってお祈りいたします。アァメン
ドバースタイン編 山内六郎訳 「絶えず祈れ」より