山下孝夫さんの評論集より転載。
2023年11月11日。
島之内芸協の山下孝夫さんが芸術論を展開。
明瞭、明解な分析に恐れ入りました。
長文なので最後まで読了するのは困難かとも存じます。関心あるところだけでも、みなさんのお目にかかることを望んでいます。
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堀蓮慈僧侶と近藤朱鳳さんの書道・音楽イベント(11月10日開催神戸文化ホールに於いて)に行き、人類没落の理論を検討した。
まず、先進国でなく衰退国の日本の没落は避けられない、というのは蓮慈さんの古稀の年齢でさえ、日本の伝統文化をもう知らなくて、欧米文化の劣化した体質に染まっているので、それでは世界になにも示しようがない。可能性としては今海外に行っている日本人が日本の伝統の良さを、もしあるならば再発見するしかない。蓮慈さんは世界的な考えを持つ人で、たとえば「麻薬を合法化したらギャングが壊滅してトータル効果で米国民の得」と言っている。江戸時代の遊郭見逃し策はそう言う狙いだったのか。歌舞伎町はギャングの傘下だろう。
根本的には、西洋の思想と芸術と言う二枚看板が破綻していることである。西洋の思想はマルクス主義が典型だが、生産を科学的に発達させる人間に主体性を見て、地球内の物質を無限に加工して存在可能性を示す、と言う考えにあった。これは神の信仰から科学への転換であった。マルクス主義自体が衰えたのは、その主体性が労働者につかめなかったからである。むしろそれを資本主義経営者が担ってきた。だが資本主義は、通貨バラマキ国家金融政策でピンハネと浪費で儲ける地球破壊的システムになったので、もう将来が危険である。このまま行くと、生物でなくロボットの科学になる。
もう一つは、思想家が資本主義の克服に期待したことは、芸術であったが、芸術はその狭さ・細分化から、逆に大資本の餌食になっている。つまり芸術は、近代西洋が資本主義とともに生み出した、奇形児だったのだ。
蓮慈さんとイベントを見た中に、クラシック音楽があったが、その芸術は音楽をのみ聞かせるという狭さに特化している。音楽に関心がない人には、その価値はゼロである。西洋の芸術の価値は作家だけの価値を発揮するように作られ、鑑賞者は鑑賞と言う立場でしか関係していない。つまり排他的、闘争的、エゴイズム的、民族・国粋主義的である。この要素は同じく近代西洋が生み出した、スポーツと共有している。結局ウクライナやイスラエルに武器援助して「悪者」を殺させている。
日本には芸術もスポーツもなくて、それと全く似て非なる、芸能と武術が発達した。芸術とスポーツは近代西洋諸国が競争や戦争を正当化するための技術であった。芸術が結局技術であったことは、フランスの近代サロン古典派絵画が今誰も見向きもしないで、殴り書きの、ペンキを垂らした現代美術が何億円で買われていることから言えるのである。
武術にはルールなどない。武術は身体のすべての機能を発揮する術である。スポーツはたとえば100メートルをいかに速く走るかという身体のごく一部分の技の競技である。もし狭いトンネルくぐりとかいう競技があれば、小人や身体障碍の人の方が有利になる。つまりスポーツは身体弱者差別を極力競技化している。
虚構であるが座頭市は盲目の人が居合では有利と言う武術で、当初は暗い所で戦っていた。
そこで、評論家たちから古臭い、芸術性が欠しい、魂の発露がないなどさんざんに言われてきた典型的な日本の芸能を一つだけ見よう。長唄舞踊の「越後獅子」である。これは芸術では全くなく、商業娯楽である。人間国宝の芸ではない。子供が踊った方が面白い。歌も音楽もただ声と音さえよければよい。越後獅子は、その文章が数々ある越後名物(江戸時代のベストセラーに出てくる)のだじゃれのオンパレードになって立派な人文地理学になっている。そして踊り子は飢饉の貧乏村に妻を残してきた若い男の悲しい曲芸の見世物人である。
私は全部謡えるが、たった20分の中に、次々これでもかというほど、内容が変わって踊りまくる。たとえば突然江差追分風の舟歌になる。色事話になる。牡丹は持たねど越後の獅子はからは、プッチーニも採用した旋律が圧巻で楽しさが満喫でき、いかに江戸時代が世界最高に平和だったかが分かる。あんな暢気な旋律は西洋音楽に一つもない。東大の学者が論文書くため文楽の時代物が戦の悲劇だと言っているが、学者は昭和のひどい戦争を見てそう思っているだけで、江戸時代の人々は戦なんかありえない時代だったから、源平の戦を娯楽の種として面白がっているので、本質的に悲劇ではありえない。本当に悲劇だったらあそこまで途方もないへんてこな身分の低い忠臣は出てこず、もっとまともな治世者階級の話になるはずだ。賢い学者に世間の常識がないのだ。だから世界遺産にしてくれた学者の誉めるようには文楽はできない。
越後獅子にかぎらず、日本舞踊は演目ごとに違う衣装を見せる、ファッション産業であった。裸同然の薄着でしかないバレー・ダンスと違う。季節はまた満開の花見どきである。大道具も小道具も必要だ。ラストは合奏で見世物の布晒しになる。ここまで様々な「芸」を見せねば江戸の人は金を投げてくれなかったの だ。独楽と言う舞踊では、独楽回し芸人はその境遇に取り付かれて、ついに自分が独楽に変身して刃の上を渡って行くという、カフカも及ばないひらめきを示して見せる。鳥羽絵では、すりこ木に羽が生えて飛び、鼠が美しい節で切々と男に恋をうちあける。一人七役なんかざらだ。
芸能が芸術と似て非なるものである。私は、苦しいこともおけさ節で紛らすという文章や、ラストで、いざや帰らん、でようやく帰って行くところが芸術以上に涙ものだと思う。つまり、芸術は学者が頭で理解する、政府が他国に威張るための、庶民の苦労から遠いものだが、芸能は弱者が万人を喜ばせ世界に風刺と平和をもたらす芸で、この芸はあるいは朝日新聞よりずっと週刊文春がうけついでいるのでは。
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