大原麗子さんが亡くなった事、とても驚きました。
好きな女優さんでした。
映画等色々見た訳ではないけど、
あの容姿も雰囲気も、女性から見てもとても魅力的な人でした。
なのに寂しいその最期、哀しいです。
同年代で一人暮らしの私には、
他人事ではない最期なのかもしれないけれど。
昨日の新聞のコラム、
鷲田清一さんの「夢のもつれ」は「生きづらさについて」です。
加齢や心身の不調、失職や劣悪な就労等で
『現代社会はひとがおのれのひよわさ、もろさ、ちっぽけさ、
つまりはみずからの限界に向きあわされるような場面に満ちている。』
と言います。
そのなかで、老いについて書かれていることに、
いまそこへ足を踏み入れようとしている私は頷かされます。
いまは、マイナスのイメージの中でしか思い浮かべられなくなっている老い。
その空気の中で、こんなわたしでもまだ生きていていいのかとの思いを高齢になるにつれてため込んで行くのだと言うのです。
そして
『いのちが黄昏れて来る、しかもけっして短くはないこの時期を、こうした思いを抱えたまま生き抜くというのは、たいへんなことである。』と。
努め(勤め)とか期待(される)がなくなったとき、
『じぶんの存在がだれにとっても何の意味もないと思い知って、それでもなおじぶんの存在に意味があると言い切ることは、ひととして法外に難しいことである。』
老いばかりでなく、
『多くのひとがじぶんがここにいていい理由を問わなければならないのは、わたしたちの生きている社会が「何ができるか」「何をしたか」でひとの存在価値を測る社会だからである。「いるだけでいい」とはなかなか言いにくい社会だからである。』といいます。
『自分が「いる」に値するものであるかどうかを、ほとんどポジティブな答えがないままに恒常的にじぶんに向けるような社会は、寂しい社会である。この、じぶんの存在をすっと肯定できないという疼き、これこそが「生きづらさ」という思いの根っこにあるものではないかとおもう。』と。
鷲田清一「夢のもつれ」より 一部引用
やはりそうなのだという少しの安堵感のようなものと、
けれど、これから先、どれだけの時間を、
私はこの「疼き」を抱えたまま生きて行かなければならないのだろうかという
不安と。
悩ましいのです。
好きな女優さんでした。
映画等色々見た訳ではないけど、
あの容姿も雰囲気も、女性から見てもとても魅力的な人でした。
なのに寂しいその最期、哀しいです。
同年代で一人暮らしの私には、
他人事ではない最期なのかもしれないけれど。
昨日の新聞のコラム、
鷲田清一さんの「夢のもつれ」は「生きづらさについて」です。
加齢や心身の不調、失職や劣悪な就労等で
『現代社会はひとがおのれのひよわさ、もろさ、ちっぽけさ、
つまりはみずからの限界に向きあわされるような場面に満ちている。』
と言います。
そのなかで、老いについて書かれていることに、
いまそこへ足を踏み入れようとしている私は頷かされます。
いまは、マイナスのイメージの中でしか思い浮かべられなくなっている老い。
その空気の中で、こんなわたしでもまだ生きていていいのかとの思いを高齢になるにつれてため込んで行くのだと言うのです。
そして
『いのちが黄昏れて来る、しかもけっして短くはないこの時期を、こうした思いを抱えたまま生き抜くというのは、たいへんなことである。』と。
努め(勤め)とか期待(される)がなくなったとき、
『じぶんの存在がだれにとっても何の意味もないと思い知って、それでもなおじぶんの存在に意味があると言い切ることは、ひととして法外に難しいことである。』
老いばかりでなく、
『多くのひとがじぶんがここにいていい理由を問わなければならないのは、わたしたちの生きている社会が「何ができるか」「何をしたか」でひとの存在価値を測る社会だからである。「いるだけでいい」とはなかなか言いにくい社会だからである。』といいます。
『自分が「いる」に値するものであるかどうかを、ほとんどポジティブな答えがないままに恒常的にじぶんに向けるような社会は、寂しい社会である。この、じぶんの存在をすっと肯定できないという疼き、これこそが「生きづらさ」という思いの根っこにあるものではないかとおもう。』と。
鷲田清一「夢のもつれ」より 一部引用
やはりそうなのだという少しの安堵感のようなものと、
けれど、これから先、どれだけの時間を、
私はこの「疼き」を抱えたまま生きて行かなければならないのだろうかという
不安と。
悩ましいのです。