鎌倉のボーイスカウトの事に触れる前に前回書き忘れた事があるので書き加えます。
小学校2年の時に自転車を買ってもらって嬉しくて旧市内を乗り回していた頃、由比ガ浜の通称鉄管橋を自転車に乗って渡ろうとして橋の上から滑川にまっさかさまに落ちた事がありました。今でも鉄管橋は海岸橋の北側にありますが、その橋は太い水道管の上に板が敷いてあるだけの危険な橋でしたので、踏み外せば川に当然落ちる危険な橋で自転車で、渡れるはずも無くまさにこの頃からやって見ようの性格がもたらした事故でした。その時川向こうの人が川に入って助けに来てくれました。その時助けてくれた人が当時関脇か小結の大相撲の若瀬川関で家から子供が落ちるのを見てステテコ姿で飛び込んできてくれて関取の回しで橋の上に引き上げてくれました。
後年テレビで『私の秘密』という番組に出ろ出ろと皆に言われましたが、関取が引退されたかと言う頃で実現はしませんでした。しかしそれから不思議な大相撲との縁で父が高島部屋(横綱吉葉山、大関三根山在籍)の後援会に入り以来巴潟親方が亡くなるまで長い事お付き合いが続き今でも時たま両国を尋ねることがあります。(現在でも部屋跡でチャンコ『巴潟』は営業されています)
さて鎌倉のボーイスカウトですが、これは鎌倉と言う地域特有の文化と言いましょうか新し物好きというのでしょうか、ボランティア精神の発露で出来上がった社会貢献活動の始まりでありました。
昭和31年(?)の神奈川国体の時に奉仕をするということがきっかけでカトリック雪ノ下教会の鎌倉第3隊という団に1隊、2隊が吸収される形に集約され、第2隊に入っていた私は友達とカトリック隊に移籍致しました。
ボーイスカウトは元来英国生まれで青少年育成の為のボランティア団体でアフリカのボーア戦争の英雄のベーデンパウエル卿が戦争ではなく青少年を野外活動を通じてその個性を重んじ公民教育をやろうとしてのが始まりです。
その後イギリスからアメリカやアジアなど世界に広く青少年活動として広がって行きました。
この鎌倉は多くの理解者が居られたので比較的早くからこの運動を始めておりましたし、スポンサーとなった企業や指導者が沢山輩出いたしました。特に功績のあった人を上げれば第1隊の鈴木さん、第2隊の松田さん、第3隊の谷さんそしてスポンサーになって頂いた富岡さん、稲葉さん、そしてカトリック教会の神父様達でした。
日本が復興を始める時期の鎌倉は山は深く海は青く本当の意味で山紫水明の土地でした、山に行けばキャンプは出来るし今の鎌倉霊園の朝比奈峠はまだ開通していなくて野営が出来るほど深山幽谷の素晴らしい自然が一杯でした。今回世界遺産に立候補した中の常盤亭御所跡などは素晴らしいキャンプ地でした。
カトリックのボーイスカウトは東勝寺橋の奥の腹切やぐらの手前に大きな訓練場を持っていたので、カトリック教会の力が如何に大きかったかを今にして思えば驚きでした。後年ベトナム難民が亡命してきた時に受け入れたのが隣接する『黙想の家』という教会の施設でした。いわば此処は日本で始めての難民受け入れの場所であった訳です。
成小(御成小学校の事を我々はこう呼びます)を卒業して関東学院六浦中学に入ってもボーイスカウト熱は冷めず毎日曜日に本部に行って訓練の日々を過す事になります。学校以外の良い先輩が沢山居て本当に良い勉強をさせてもらいました。中でも鬼隊長として近隣では知らない人は居ないと言う谷千春氏、その辺のヤクザもびびるほどの軍隊帰りの強面で口さえ利けないほどでした。後に銀座通り(今の御成通り)に鎌倉で唯一の運動具店を開き繁盛を極めました。この鬼隊長の下、後に栄光学園の園長になったT神父や松竹の名カメラマンK氏、ブラジルに雄飛したS氏M氏など多彩な人達が輩出しました。
我々の同期で言えば映画字幕の第1人者W氏、鬼籍に入ってしまったがプロデューサーとして電通で辣腕を振るったS氏など面白い人材が沢山居ました。今でも75歳の先輩が小町の紅灯の巷を元気に闊歩しています。
ボーイスカウトのお陰で鎌倉を隈なく歩き街中は勿論山も海も知り尽くしていくのですが、現在のようにお金を取って入る寺などは皆無でしたから自在に歩き回る事が出来ました。
今では中々入れる所が難しいところですが特に私のお勧めは覚園寺の百八やぐら、宝キョウ印塔、十二神将など又極楽寺の奥の忍性の墓や月影地蔵などはお勧めです。この辺は最新情報として別途お知らせいたします。
ボースカウト活動は年々盛大になり、我々も世界ジャンボリーに参加するほどに成長していきました。
昭和36年(1960年)夏の一ヶ月アメリカのコロラド州のコロラドスプリングスに派遣される事になります。
高校2年で当時のアメリカ大統領はアイゼンハウアーでした。
小学校2年の時に自転車を買ってもらって嬉しくて旧市内を乗り回していた頃、由比ガ浜の通称鉄管橋を自転車に乗って渡ろうとして橋の上から滑川にまっさかさまに落ちた事がありました。今でも鉄管橋は海岸橋の北側にありますが、その橋は太い水道管の上に板が敷いてあるだけの危険な橋でしたので、踏み外せば川に当然落ちる危険な橋で自転車で、渡れるはずも無くまさにこの頃からやって見ようの性格がもたらした事故でした。その時川向こうの人が川に入って助けに来てくれました。その時助けてくれた人が当時関脇か小結の大相撲の若瀬川関で家から子供が落ちるのを見てステテコ姿で飛び込んできてくれて関取の回しで橋の上に引き上げてくれました。
後年テレビで『私の秘密』という番組に出ろ出ろと皆に言われましたが、関取が引退されたかと言う頃で実現はしませんでした。しかしそれから不思議な大相撲との縁で父が高島部屋(横綱吉葉山、大関三根山在籍)の後援会に入り以来巴潟親方が亡くなるまで長い事お付き合いが続き今でも時たま両国を尋ねることがあります。(現在でも部屋跡でチャンコ『巴潟』は営業されています)
さて鎌倉のボーイスカウトですが、これは鎌倉と言う地域特有の文化と言いましょうか新し物好きというのでしょうか、ボランティア精神の発露で出来上がった社会貢献活動の始まりでありました。
昭和31年(?)の神奈川国体の時に奉仕をするということがきっかけでカトリック雪ノ下教会の鎌倉第3隊という団に1隊、2隊が吸収される形に集約され、第2隊に入っていた私は友達とカトリック隊に移籍致しました。
ボーイスカウトは元来英国生まれで青少年育成の為のボランティア団体でアフリカのボーア戦争の英雄のベーデンパウエル卿が戦争ではなく青少年を野外活動を通じてその個性を重んじ公民教育をやろうとしてのが始まりです。
その後イギリスからアメリカやアジアなど世界に広く青少年活動として広がって行きました。
この鎌倉は多くの理解者が居られたので比較的早くからこの運動を始めておりましたし、スポンサーとなった企業や指導者が沢山輩出いたしました。特に功績のあった人を上げれば第1隊の鈴木さん、第2隊の松田さん、第3隊の谷さんそしてスポンサーになって頂いた富岡さん、稲葉さん、そしてカトリック教会の神父様達でした。
日本が復興を始める時期の鎌倉は山は深く海は青く本当の意味で山紫水明の土地でした、山に行けばキャンプは出来るし今の鎌倉霊園の朝比奈峠はまだ開通していなくて野営が出来るほど深山幽谷の素晴らしい自然が一杯でした。今回世界遺産に立候補した中の常盤亭御所跡などは素晴らしいキャンプ地でした。
カトリックのボーイスカウトは東勝寺橋の奥の腹切やぐらの手前に大きな訓練場を持っていたので、カトリック教会の力が如何に大きかったかを今にして思えば驚きでした。後年ベトナム難民が亡命してきた時に受け入れたのが隣接する『黙想の家』という教会の施設でした。いわば此処は日本で始めての難民受け入れの場所であった訳です。
成小(御成小学校の事を我々はこう呼びます)を卒業して関東学院六浦中学に入ってもボーイスカウト熱は冷めず毎日曜日に本部に行って訓練の日々を過す事になります。学校以外の良い先輩が沢山居て本当に良い勉強をさせてもらいました。中でも鬼隊長として近隣では知らない人は居ないと言う谷千春氏、その辺のヤクザもびびるほどの軍隊帰りの強面で口さえ利けないほどでした。後に銀座通り(今の御成通り)に鎌倉で唯一の運動具店を開き繁盛を極めました。この鬼隊長の下、後に栄光学園の園長になったT神父や松竹の名カメラマンK氏、ブラジルに雄飛したS氏M氏など多彩な人達が輩出しました。
我々の同期で言えば映画字幕の第1人者W氏、鬼籍に入ってしまったがプロデューサーとして電通で辣腕を振るったS氏など面白い人材が沢山居ました。今でも75歳の先輩が小町の紅灯の巷を元気に闊歩しています。
ボーイスカウトのお陰で鎌倉を隈なく歩き街中は勿論山も海も知り尽くしていくのですが、現在のようにお金を取って入る寺などは皆無でしたから自在に歩き回る事が出来ました。
今では中々入れる所が難しいところですが特に私のお勧めは覚園寺の百八やぐら、宝キョウ印塔、十二神将など又極楽寺の奥の忍性の墓や月影地蔵などはお勧めです。この辺は最新情報として別途お知らせいたします。
ボースカウト活動は年々盛大になり、我々も世界ジャンボリーに参加するほどに成長していきました。
昭和36年(1960年)夏の一ヶ月アメリカのコロラド州のコロラドスプリングスに派遣される事になります。
高校2年で当時のアメリカ大統領はアイゼンハウアーでした。