又、いじめで中学生が自殺した。今度は名古屋である。昨年は滋賀県のの大津の自殺問題が大きく取り上げられたばかりのいわば近所の事件だったが、防ぎきれなかった。残念というより悔しい気持ちが一杯だ。 なぜこうも思春期の子供たちがいじめたり、されたりするのか我々の世代ではどう考えても理解できない。
私は自殺を考えたことは無いが、死んだら楽になるだろうなという事は何回も考えたことがある。学生時代には親の脛をかじっていたのでまずそんなことを考えたことは無かったが、最初の試練はやはり仕事に関してであった。約40年前に独立したての頃、M電機のNC制御装置のキーボードAssyを作って納めたところ購入品のスイッチの不具合が発生し当時1億円の損害賠償とヨーロッパへの手直しの費用などを請求され、まだ20歳代の私は不良品を出すことの恐怖を味わいました。死の淵を覗いた最初でした。死んでも解決しないと思い誠実に名古屋の客先には何度も通い、結局スイッチメーカーの不具合という結論で1年がかりで何とか解決しました。
昭和のイケイケドンドンの時代は浮かれてましたが、やがて日が暮れ始めました。すると転げるように注文が海外マーカーに流れ、おまけに短納期のあおりで在庫の山ができ、2年間の懊悩の末工場の売却と資産売却などで借入金の整理をしました。このときが2度目の死の淵でした。幸い父や家内の実家や友人たちに救われ倒産などという危機は免れましたが、絶望の時は誰に何を言われても聞く耳を持たないというのが、人間の心理で自分が楽になることしか考えられませんでした。
しかし、自分が誰かからあてにされている、愛されている、必要とされているという思いがあれば、踏みとどまれるという事も経験しました。私の場合は家族であり、友人であり、仕事仲間でした。大企業の横暴さもわかっていましたが、当時のM電機 の資材部長が手形分だけに見合う材料の引き取りに応じてくれたり、銀行の担当者が本部と掛け合って減免をしてくれたりとか、人の情けを身に沁みて感じました。
翻って中学生の死というものは、第一義的には本人ではありますが、親も先生も当然責任があります。以前書いたことですが、私は子供の頃からボーイスカウトに入っていましたが、先輩が後輩の面倒を見るのが当たり前で班長が班内の子供の面倒を補佐役の次長とみて、その班の上に上級班長という全体を見渡せるリーダーがいるわけです。又、その上に大人のリーダー、副長、隊長といういわば野外生活のプロが居て全体を把握しているのです。
以前は学校の先生が結構ボーイスカウトのリーダーに居たのですが、最近は殆ど居なくなってきているようです。前にも書いたことですが、子供の自殺は大人の責任と我々自身が自覚すべきです。確かに悪い子供も居ますが、生まれてからずっと悪い子供は居ません。その年齢になるまでの過程に問題が起きたのです。いじめるほうの子供の心のうちを解き明かすことが最優先です。うちの子供たちが通っていた御成小学校のある先生は休み毎に子供たちと鎌倉の山歩きや辻堂の海浜公園位まで出かけていました。つまり学校以外でも先生と生徒の人間関係を作っていたのです。実はこれが大切なのです。違う環境で子供が発揮する能力は学校では見えない力を出すのです。
これ以上悲しむ親を出さないために学校や地域は子供たちに温かい叱声をかけるべきです。公共の場所や自転車の乗り方、言葉遣いなど家庭と学校と地域三つ巴になって思春期の子供たちに声をかけましょう。勇気が要りますが、高齢者が遺言のつもりで働きかければ、きっといずれは理解してくれると思います。悲しい思いをしているご家族に癒しのときが早く来るように祈らずに入られません。冥福を祈ります。