葉山の海と森

葉山町の自然と日々の暮らしのスケッチ

震災、原発二次被害

2011-04-29 16:37:15 | Weblog
震災や津波などから四十九日が過ぎ、段々落ち着いてきましたが、未だ避難所生活を強いられている人達が10万人を超えると言う、原発と言い後どれだけ時間が掛かるか政府や東電にはしっかり対策を立てて欲しいのだが、ここに来て新たな問題が聞こえてきた事を報告いたします。

古くからの郡山の友人が(今は仕事の関係で鎌倉に住んでいるのだが)震災後原発立地の大熊町から友人に頼まれて郡山の自宅を1週間の約束で避難所として貸したそうだ。知りあいでもあり当時は何が何でも協力をと言う事でその友人に鍵を預けたらしい。そうこうしているうちに時間が経ち近所の人からの連絡でお宅に知らない人達が7~8人くらい出たり入ったりしていると連絡があったそうです。調べてみたらその大熊町の友人の近所の人達が2家族くっついてきていて、福島では郡山は都会なので是非連れてってくれと言う事でやむなく同道したとの事。

此処まではお互い様と言うことだったのが、本来の友人がその後家族のいる所に移り、見も知らない人たち2家族が居座ったそうです。その間地震で倒れたサイドボードや家具類、今年改造をするために整理をしていた電化製品など散らかしたままで生活し、地震で割れたガラスや壊れたものなどは庭に放り出したまま、石油ストーブの石油は使いきり、洗濯機は勝手に使い洗濯物を庭に干してまるで自分の家のように使っていたとの事です。

親戚がその現状を見て如何に避難者とはいえ、郡山には行政が用意した場所もあり、個人の家をまして顔も見たことのない人の家を借りて、約一ヶ月居座ったようです。その間生活用品は使い放題、電気は勿論布団や毛布など片付けもせず出て行ったようです。家の前にはタバコの吸殻やゴミが散らかり掃除した後など何もなく、一応電気代など払いますと言ったと言う事ですが、住所不定の家族は探しようも無いとこの際大熊町の町長に手紙を出そうと思っているそうです。

このように何か大事が起きるとこれが葵の紋のように何をやっても周りが認めてくれるという甘えが出て、親切が仇となるようなことが恐らくあちこちで起きているのではないかと思われます。報道では美談ばかり報じられますが、自然災害に打ちのめされ、その上、人からも厭な仕打ちをされたら、まして大事な自宅をそんな風に扱われたら怒るのは当然と思います。
芭蕉が奥の細道の中で言っているように『一夜仮寝の宿とても、立つとき感謝の念抱き』といっているように旅たつときには、今まで以上にきれいにするのが当たり前なのだが、、、、
ボーイスカウトは野営地に別れをする時に『残すものは何もなし、只この地に感謝のみ残すべし』といって、感謝の黙祷をして帰ってくる。この精神は困難時にも通じるのではないだろうか?

親切を裏切る事のないように各地の受難者の方たちにも是非考えていただきたいものです。政府も東電も現場で頑張っている人達も夫々の矜持を持って戦っている事だと思いますが、葵のご紋だから何をやっても良いということではないので、誇りある受難者であり、誇りある救助者になって欲しいものだと思います。









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トップの責任

2011-04-24 18:29:06 | Weblog
東日本大震災から45日経っても未だ避難されている方々や行方不明の方々、身元不明の方々など爪あとは残ったままという悲しい現実が続いている。防ぎきれない自然災害は諦めがつくにしてもその後の対応による人災は悔やむに悔やみきれない、残念な事態が起きている。

特に原発の問題は想定外の地震と大津波による不可抗力と言う言い訳でその後の対応が後手後手に回り、未だ混沌として解決には相当の時間と人と費用がかかる事が判明してきた。今の日本はパニックになろうが成るまいが正確な情報を政府が国民に知らせる事が国益と考える政治家が居ない事が人災の端緒であったのである。

放射能汚染という目に見えない敵を相手に戦うのだから、相当の覚悟をして掛からないといけないのに菅首相はじめ東電の経営陣の顔ぶれを見てもどう見ても現場を知らない人達が、右往左往しているだけで苦労している現場責任者の肉声などは全く聞こえてこない。その証拠に事故当時の原子力保安院の最初の記者会見に出た技術系の審議官は本音を喋るからと言う事から、次から外されて他の人に変ったように聞く。つまり技術系の彼はレベルが7と言う事が恐らく分かっていたのだと思う。万一本当のことを言われると政府としてはまずいという事で外されたらしい。

菅さんは一度もサラリーマンや会社での社会経験がなく市民運動から政治家に成り、以後ずっと議員として国から給料を貰い今日に至ったと聞く。人の気持ちや動かすノウハウを持っているはずなのに永田町に居るとそのセンサーが壊れて勘違いを起こすのかもしれない。民主党に期待していただけに落胆も大きいのは当たり前の事だ。
片や東電の会長、社長なども数万人の社員の中から熾烈な出世競争をして、その地位まで上り詰めたのだろうと想像する。避難所を回るにしても周りを取り囲むように護衛や秘書などが取り囲み、さながら大名行列のような有様だ。不断なら奥の院に居て下々の顔など見ないし、まして膝をついて頭を下げるなど思いもよらなかったろう。
恐らく現場原発の所長と言うのは取締役なのだろうが、何故現場責任者として表に出てこないのだろうか?保安院の時と同じように本当のことを言われるのが怖かったのだろうか。経営陣の自己保身としか思えない。
マスコミに教えて欲しいのは現場で働く人達の割合だ。東電社員、メーカー、協力会社(一次、二次、三次下請けなど)どんな割合で居るかで力関係が分かるからだ。

共通して言えるのは現場を知らないトップが指揮を取る事の危うさだ。これに何時まで付き合わされるのかと思うと何時までも胸のつかえが降りない。現場を一番分かっているのは係長、課長、部長クラスの人達だ。何処の会社でもこれらの中間管理職が会社を動かしていると言うのが日本の企業形態だ。トイレの神様が居るくらいだから、原発の神様だって居るのだろうから、もう神頼みしかないのではないだろうか?是非現場で指揮を取っている所長や部課長連中の生の声を聞きたい。

この事故が起きた時に思い出したのは50年前の60年代に見た映画だ。『渚にて』という題で核戦争で北半球が全滅し、残ったオーストラリアが徐々に放射能に侵され、政府が各家族に薬を渡して死を促し、メルボルンの町に人っ子一人居なくなると言う、今の福島とダブるような映画だった。グレゴリーペック演ずる潜水艦の艦長がエバガードナー扮する妻?(恋人?)に見送られ出撃するのを渚で見送るシーンを最後に映画は終わる。
まさに福島の人達にとって帰る当てのない流浪の民で、この責任は東電だけでなく、政府と過去の政権も含めて真剣に取り組んでもらいたい。

折りしも、この小さな町で今日町議会選挙が行われた。定数14名のところ立候補が22名と言う大激戦の選挙が行われ今夜にも大勢が分かります。今変えなければという機運があってこそ、これだけの乱立と言える立候補があった訳で如何にトップの資質により、町が変るかその証明をしてもらいたいものです。
新しい考え方や資本主義に変る何かを模索していく平成23年度でありたいと願うものです。






















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艱難は希望を生み出す。

2011-04-03 16:47:39 | Weblog
この3週間報道により被害の実態が分かるにつれ、如何に今度の震災が最大限の過酷な被害を東日本にもたらしたかという事が分かってきました。自然災害は防ぎようも無いと諦めることなく復興への道筋が少しずつでも動き出した事は暗闇から光を見たように感じます。

世界で賞賛されるように被災者達がパニックにならず整然と炊き出しの列に並んでいる様子などは感動ものでしたが、むしろこれが日本標準だと言う事が世界の人々に分かってもらえたら、何か起きた時はこうするんだと手本になった気がして一寸は誇らしく感じたものです。しかし現実は厳しく何かをやりたい、手伝いたいと思っても動く事すら出来ない自分に腹立たしく思う事があっても、今は落ち着いてから息の長い支援をする事が最も良い方法だと考えています。その間じっくりと何が出来るかという事を自分に問うて見たいと思っています。

ことわざに『若い時の苦労は買ってでもしろ』とか山中鹿之助ではないが『天よ我に七難八苦を与え給え』とか余裕のある時には何でも言えるが、あの惨状を見た時は天を恨んだ人ばかりで、何故東日本のこの町がという思いと、何故こんなに大きな津波がという思いを抱き、嘆き悲しみ涙も出ない茫然自失の状態だったと思います。
とにかく政府は国民の生命の安全、財産の保全、生活への保証を早急に政策として打ち出し、此処を目指すんだと言う花火を打ち上げないと本当に日本沈没になってしまうと思います。

私も今回は何をすれば良いか勉強させて頂きました。個人で出来る事はまず被災地に知りあいが居るかと言う事の確認、そして何が必要かという確認、何時動けるかという確認、これをやってみました。
気仙沼に一人、石巻に一人居ました。気仙沼には息子の友達の実家があり毎年秋刀魚や魚介類を送ってくれる親しい友人でした。両親や家族と連絡がつかないと12日に連絡があり、13日に本人が来て現地に救援品を積んで行くというので、ガソリンの補給用のタンクを積んで出発しました。13時間掛かって気仙沼に着き幸い家族も無事で事なきを得ましたが、ガソリンを持たせたのは正解でした。
石巻は一週間後電話が通じ、自宅の隣が避難所になっているというので様子を聞いたら、雪が降っているし寒くてお年寄りや乳幼児は震えているという事でとっさに思いついたのは会社の営業在庫に在った個人用の赤外線ヒーターでした。会社で調べたら40台丁度あるので至急梱包をして石巻に送りましたが、現地からは感謝の声を頂きました。やはり助けられる方も助ける方も確実な情報を持って動く大切さを学びました。

これから息の長い復興支援が始まります。政治家や役人だけでなく国民全体が力をあわせ明治維新や原爆被害、そして戦後復興という世界でも例のない事をやってきた民族ですから頑張って次世代の子供たちに誇れる国づくりをやりましょう。2000年前に書かれた新約聖書にこう言う言葉があります。

『艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出す。練達は希望を生み出し、そして希望は失望に終わる事はない』

どうか、この困難を乗り切って希望へと歩き出しましょう。



















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