久しぶりの更新です。暮れに孫の誕生やら何かと忙しく立春を過ぎてやっと更新です。世の中、目が回るくらいの回転の速さで進んでいるので、何から書こうかと思っていて、少し立ち止まる意味で鎌倉懐古14と致しました。世界も日本も殺伐としてきているので思い立って『鎌倉観音霊場三十三カ所巡り朱印の旅』を暮れに思い立ち、計画を立て歩き始めました。条件は仕事のない日の良い天気の日に歩く、基本は鎌倉までの交通機関は電車バスはOKで、駅からは基本全部歩く。月に1度は必ず歩くようにする。以上の条件で歩き始めた。そして子供の頃からある古い店舗を訪ね、その歴史を聞いて歩くことを決めた。
第一番杉本観音から始まって歩き始めたが、順番が道路沿いのようにきちんとなっていないので、とんでもなく離れていたり、行った道を又戻ったりの難行であったが、必ず順番に歩こうと思っていたので、覚悟を決め順序どおりに歩き始めた。子供の頃のような荒れ寺でなくなった杉本観音は今は改修の工事をやっていたが、さすが行基菩薩の開山とあって風格と雰囲気は随一であった。
第2番は雪ノ下の宝戒寺であるが、その道筋には何代も続く続く老舗がある大蔵ストリートなのだ。分かれ道の魚屋魚三、昭和4年からやっている3代目(ここは天日干しの開きが美味いので有名だが)、いつ来ても活気がある店だ。少し先に行くと大丸肉屋、これも三代目昭和7年、その並びは江戸末期嘉永年間創業の五代目山田酒店がある。ここのご主人は日本酒にこだわり、多くの地方の酒を吟味して店に並べているので、その薀蓄も楽しく説明してくださる。私も暮れには宮城の『浦霞』を買い込んだ。余談だがこの店の前には以前、先代の松本幸四郎宅があり、今で言うカフェレストラン(LEI)をやっていて、当時市川染五郎(現松本幸四郎)とカウンターでよく会ったものだった。大学前の和菓子や旭屋本店は明治36年創業の五代目で豆大福の老舗であった。
ここの地域は源頼朝が大蔵幕府を開いた土地で古くから鎌倉でも開けた土地柄であったようだ。八幡宮にも近く朝比奈越えで要衝の地でもあったので今のように立て込んでいなかったのが、幕府の政所としては最適であったのではとおもわれる。頼朝の墓が大蔵の北側にあるのもその地域を見て守っていたいと言う思いだったのかもしれない。ここ大蔵にはご存知、師範学校があった。つまり横浜国大の教員養成学校である。鎌倉の子供たちは師範学校の付属小学校に入り、中学を卒業して湘南高校に入り、そして東大へというのが一番の出世コースとして親からは尻を叩かれていたのだった。何しろ入学の選考はこよりのくじ引きだから、籤運の強い子供だけが受かったようなもので、私などは一発で不合格であった。負け惜しみだが、おかげで『名門御成小学校』に入ることが出来た。私の兄と姉は付属に入り、兄は中学を出て湘南に入ったがそれ程出世はしなかった。
第2番の宝戒寺は北条家の菩提寺としてその菩提を弔っているが、最近では萩の寺としてのほうが有名できれいに整備されている境内は気持ちの良い空間になっていた。どこの寺でも最近は入山料を取るようになっていて子供の頃のように脇から入ること出来なくなっているのが一寸寂しいが、観光都市としては仕方のないことだろう。ここでは女性の坊さん?が朱印書いてくださった。杉本観音と言いここでも中々の達筆であった。待つ間の本堂で足を伸ばして仏さんとの対話も面白かった。ただ、北条さんも裏山での自刃は苦しかったろうな、と思ったりして子供の頃の腹切りやぐらを思い出していた。
辻説法通りから第3番安養院までは次号に続く
子供の頃、家族で何度となく通ったレストランLEIの素敵さ(建物、味ともに)が忘れられず、どなたかLEIについて書かれたり写真を載せたりされていないかと検索していたところ、こちらの記事に出会いました。
あのような素敵な雰囲気のお店が今も残っていれば良いのにと思うばかりです。