廣誠院の拝観を終え徒歩で向かったのが国定史跡「頼山陽書斎、山紫水明処」です。
頼山陽は日本外史、日本政記、通議の著者として、また多くの漢文により明治維新の原動力となりました。32才で広島より京都に出て、6回程の転居の後、42才で、この三本木の地に水西荘を構えて49才の時、文政11年(1828)その敷地内に全く独自の好みで、この山紫水明処を書斎として建てました。
東側の縁の欄干は、耐久性のある栗の木で、反対の西側の出窓の格子は天然の南天の木が使われています。
また、夏の暑い京都を考えて、東西南北に窓や格子、戸があり四方から風を取り込む工夫がされています。また、冬の対策として戸は全て二重戸になっています。
天井は葦を並べた四注天井で、美しく、軽量感を演出しています。
また、障子のガラスは当時、日本にはガラスを作る技術はなく、輸入品で大変高価な物でした。
昭和の初めまで鴨川に面した欄干の下は、約5m幅の清流が流れていましたが、昭和9年の室戸台風以来、水害対策として暗渠となり、風趣の面から残念な事になってしまいました。
最後に山紫水明と言う言葉は、午後4時頃になると山は紫に、水は一層明かに見えることから、その時分を云ったものでしたが、頼山陽がこの書斎に、この名を付けてから、一般的に風光明媚の代名詞として使われるようになりました。
頼山陽は日本外史、日本政記、通議の著者として、また多くの漢文により明治維新の原動力となりました。32才で広島より京都に出て、6回程の転居の後、42才で、この三本木の地に水西荘を構えて49才の時、文政11年(1828)その敷地内に全く独自の好みで、この山紫水明処を書斎として建てました。
東側の縁の欄干は、耐久性のある栗の木で、反対の西側の出窓の格子は天然の南天の木が使われています。
また、夏の暑い京都を考えて、東西南北に窓や格子、戸があり四方から風を取り込む工夫がされています。また、冬の対策として戸は全て二重戸になっています。
天井は葦を並べた四注天井で、美しく、軽量感を演出しています。
また、障子のガラスは当時、日本にはガラスを作る技術はなく、輸入品で大変高価な物でした。
昭和の初めまで鴨川に面した欄干の下は、約5m幅の清流が流れていましたが、昭和9年の室戸台風以来、水害対策として暗渠となり、風趣の面から残念な事になってしまいました。
最後に山紫水明と言う言葉は、午後4時頃になると山は紫に、水は一層明かに見えることから、その時分を云ったものでしたが、頼山陽がこの書斎に、この名を付けてから、一般的に風光明媚の代名詞として使われるようになりました。
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