油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

ちょっと、前橋まで。  (5)

2020-04-20 20:26:18 | 小説
 この頃はまだ、今ほど深刻なコロナ騒ぎ
にはいたっていない。 
 昼前とあって、某和食の店は、マスクを
つけない人たちで、混みあっていた。
 「あんた、けっこうやるじゃない。この
店、うちのほうでもよく見かけるわよ。お
いしいって評判。ねえHちゃん、良かった
わね。治療は長丁場らしいから、おなかす
くわ。うんと食べておくといいわよ」
 「うん、そうする」
 かみさんは食卓につくなり、お品書きを
手にすると、パラパラめくりだした。
 わたしはといえば、ハイウエイの運転や
この店にたどりつくまでに費やした精神的
エネルギーでへとへと。
 食欲があまりわかない。
 若い女の給仕さんが、ていねいな言葉づ
かいとともに差しだしてくれた、湯気の立
つ茶湯を、ひと口飲んでは、またひと口。
 そうっと、からからにかわいたのどに流
しこんだ。
 それから、あああっ、と言って、ところ
かまわず寝ころがりたい欲望を、かろうじ
ておさえこむ。
 わたしのそんな気配を感じたのだろう。
 かみさんが、ちらっとわがほうに視線を
向けた。
 また、何か文句のひと矢が飛んでくるか、
と、わたしは身がまえてしまった。
 ここ数年すっかり少食になり、腰まわり
のスリムになったわたしの身体がぶるっと
震える。
 「あんたどうしたの。どうかしたんでしょ
う、きっと?うんてん、大変だったでしょ。
おなか空いたでしょうしね、好きなもの食
べていいのよ。何だってね」
 わたしは彼女の言葉を、文字通り受け取
れない。
 その理由の半分は、わたしの奴隷根性の
なせるわざに違いない。
 彼女は、お品書きのかげに、わたしをぞ
くっとさせるまなざしを隠して、のたまう。
 「あら、うちのほうの店と違うわ。メニ
ューが豊富。どれにしようかな。どれもこ
れも食べたいわ」
 かみさんとわたし。いつの間に雌雄が入
れかわってしまったのだろう。
 繁盛していたjuku稼業が左前になったと
き以来からか。それともせっかく勤めだし
た会社をやめた時からか。
 わたしは天井の木目をかぞえながら、も
の思いにふける。
 「おれはなんだっていいんだ。あんまり
おなかすいてないしな。せがれとふたりで
うまいもの食べるといいよ」
 わたしは湯呑に残った、最後の一滴をす
すりながら言った。
 「そう。あんまり食欲ないんだ。何やか
やと気をつかったせいだなんてね、また他
人のせいにしたいのね、あんたは?」
 そら、来た、とわたしは思う。
 「と、とんでもない。本当なんだ。一所
懸命だったんだからさ。ここまで来るのが
なあ」
 「ほんとう?信じられないわ」
 「いやっ、ほ、ほんとのほんとう。すきっ
腹なら、よろこんで食べるさ」
 むちゃくちゃなのか、それともしっかり
考えているのか。
 年老いても、女の論理がよく読めないわ
たしである。
 結局、かみさんは、みんなと同じものを
わたしのために注文してくれた。
 少しずつだが、いろんなものが小皿に盛
られている。
 うちでもこんな料理ができれば、と思う
が、かみさんは男勝りの忙しい人。
 期待するほうが酷というものである。
 
 
 
 
 

 
コメント
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