油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

ちょっと、前橋まで。  (6)

2020-04-30 19:24:01 | 旅行
 約束の時刻が、やってきた。
 わたしは治療院の十メートルくらい手前で
車をとめ、かみさんとせがれを下ろした。
 (もう少しで、自由が手に入るぞ)
 わたしは妙に浮足立った気分になった。
 「じゃあね。あんた、上手に時間をつぶし
ていらっしゃい。だいたい一時間半かかると
思ってて。だいたいだから、ひょっとすると
オーバーするかも」
 前を向いて歩きだしたかみさんが、ふいに
立ちどまり、ふり返った。
 「ええっ、そんなに?」
 わたしの顔色が変わったのに気づくと、彼
女はじろりとわたしを見つめ、
 「なんでそんな情けない顔をするの。お小
遣いあるんでしょ?確か、二三日前にあげた
わよね。それをつかってもいいわよ」
 「ああ。だけどな。この辺りには、大きな
本屋がなさそうだし・・・」
 「ばか言ってる。あんた、今、どこにいる
と思ってるの?もっとほかにあるでしょ。暇
をつぶすところが。おとなでしょ。しっかり
しなさいよ」
 「ああ、そうだね・・・」
 かみさんには、常に圧倒されそうになる。
 ここまで、わたしはまじめ一本で来た。
 なんとか家族を養ってこられたのは、その
勤勉さのおかげだ。
 だが、今や古希を迎えた。
 稼ぎたくても、仕事がない。
 (いったい今まで、わたしは何のために必
死になって働いてきたのだろう)
 ある種のむなしさがわたしをとらえる。
 わたしはまるでぱんぱんにふくれあがった
一個の風船のよう。
 針でつつかれると最後だ。
 しゅうっと音たてて、気力がなえていく。
 自分をなんとか立て直そうと、わたしの両
手は、急いで、ずぼんのポケットをまさぐり
だす。
 小銭入れも、札入れも見つかった。
 だが、札入れには、一枚のお札も入ってい
ないのを思い出した。
 かみさんからもらったお札をすべて、自宅
のどこかに置き忘れてきた。
 それらをあちらに置いたり、こちらに置い
たりと・・・、とうとう、しまった場所がわ
からなくなっていた。
 (きっとぼけが始まったんだ)
 わたしは暗澹たる思いにとらわれた。
 お札がまったくないと、正直に、かみさん
に言えばいいだが、そんなことはできるはず
もなかった。
 誰かさんが、仁王様のごとき憤怒の形相で、
わたしをののしること請け合いだ。
 (だったら、お金に頼らなけりゃいいんだ。
そう、歩けばいいんだ、歩けば)
 利根川の土手沿いを、わたしは下流に向かっ
てさっそうと歩きだした。
 口笛をふく。
 「うえをむういて、ああるこおおお」
 九ちゃんの曲だった。
 荒縄でがんじがらめに縛られたようなわた
しの心が、ついに解き放たれた。
 事故なしに不慣れな土地まで運転して来ら
れたことが無性にうれしかった。
 それでも、こころの奥底から、ひとつの泡
が、未練をともない、ぷかりと浮かび上がる。
 お金に不自由しなくなったら、昔ながらの
喫茶店に立ち寄り、こころいやされるBGMに
耳を傾けよう。
 うまいコーヒーをすすろう。
 最近、めったに吸わなくなったセブンスタ
ーを吸おう。
 若いころからの他愛もない夢が、ふいにわ
たしの決意をぐらつかせた。
 ヤッホー。
 わたしは利根川の向こう岸に向かい、大声
をあげた。  
 ただ、思いっきり、ぼんやりする。
 どんなことにも、まったく気を遣わない。
 こんな時は、暖かい風が吹けば、なおさら
お膳立てがそろう。
 だが、現実は厳しかった。
 利根の川底から、崖をつたって吹き上げて
きた一陣の風がわたしを驚かせた。
 
 
 
 
 
 
コメント
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