「あんた、まったくもう、一体どこへ行っ
てたのよおう。何度も電話したのにでなかっ
たじゃないの」
種吉が帰宅してすぐに汗を流そうと、浴室
の更衣室にとびこんだ。
そこに、いきなりの種吉のかみさんの罵声
である。
種吉は返す言葉につまった。
「あれれ、何があったっけ?」
「あったなんてもんじゃないでしょ。あん
たったらもう……」
話のなかみが判らない。
主語がなく、だらだらと述部ばかりの話が
つづいて、種吉はいささかうんざりする。
プラス思考って、常日ごろ、話している人
にしては、いいところもあるのに、種吉の欠
点ばかりひろう。
「ちょっとわるいけど、シャワーを浴びて
からにしてくれる?頼むよ。とっても外は暑
かったんだもの」
種吉がやんわり言い、身に付けているもの
を脱ぐと浴室に入った。
二つ折りのドアをグッと内側に引き寄せる。
(いくらかみさんでも、こうすれば、もは
や入っては来れぬぞ)
叫んではいても、彼女の話から、近所のど
なたかが亡くなったらしいことは理解できる。
興奮しているのか、彼女は簡単には引き下
がらず、更衣室にとどまる。
よほど急なことだったのだろう。
かみさんがあのようにふるまうのは、めず
らしい。
「おら、おら、はだかんぼうじゃきに。そ
こまでするこたあ、ねえだろ。ああかっこわ
るかんべなあ」
種吉が水道の栓をひねると、いくつもの細
かな穴から、勢いよく水が飛び出してきた。お
盆に食べたそうめんを、種吉は思い出した。
かみさんの声が、シャワーの音で、かき消
されてしまえばいいなと思う。
「年取ってるくせに、いまさら、若い気を
だして、あんたって、人は……」
「ええっ?」
彼女の話がまったく別の方向へと、向かっ
てしまいそうだ。
ああもういやだし、と、種吉は空いている
左手で、左の耳をふさいだ。
(おらのカラオケ道楽のことを批判してい
るのだろうが、入院して治るかどうかわから
ない病と闘っていることを思えば、これくら
いは許されてもよかろう。五十くらいの時に
一度、検査入院の経験があるだけだぜ)
「下手でもなんでも、じぶんが楽しく歌っ
ていたりすると、聞いている人は、何か感じ
て拍手してくださる。歌うことじゃ決してわ
るいことじゃないよ」
種吉は、更衣室にいすわるかみさんに向かっ
てつぶやくように言う。
「ええ?いま、なにか言った?」
かみさんの顔が、スリガラスに、大写しに
なる。
「いんやいんや、なんでもございません。と
にかく落ち着いてください。よおく話をうか
がいますので」
「うん、わかった。あのね、となりのYさ
んの旦那さんが、急に亡くなってしまわれた
んだって……。班長のTさんから電話連絡が
あったのよ。先日、救急車でK病院に運ばれ
てたんだって、知らなかったわ。あんたに連
絡しようと何度もラインメール入れたり、コ
ールしたりしたのに、ぜんぜん応えてくれな
かったんだもの」
おしまいのほうが涙声になる。
「わかった。わかったから、もうちょっと
待っててくれる、すぐに出るから」
「五時には、班の人みなで、仁義にいくこ
とになってるの。あんたはむりでしょ?わた
しが行くから」
「お願いします」
冷たい水を、からだ全体に、浴びているに
もかかわらず、なぜか種吉の胸の内にあつい
思いがわいてくる。
(このお盆、Yさんの奥様の新盆だったな。
そういえば、彼の家のどこにも、Yさんの姿
がなかった……)
先だって、ごみ出しに行く道すがら、種吉
がYさんにお悔やみを申し述べたばかり。
その時のYさんの悲し気な顔が、種吉の脳
裏にあざやかに浮かんだ。
種吉は浴室から出ると、急いで身支度をと
とのえた。
折からの激しい夕立である。
雷鳴が山あいにとどろく。
(どなたか人生五十年、下天のうちになん
とかって言ってたよな、むかしむかし。それ
くらいは医療の発達がなくても、人の身体は
もつようにつくられてるってことか。なるほ
ど。それ以上長く生きられるかどうかってこ
とになると、神さまだけが知っておられるわ
けだ。やはり、一寸先は闇ってことか)
ズボンの足もとが濡れるのが気になる。
種吉は前かがみの姿勢になると、ズボンの
すそを、大きく二つ折りにしてから、大きめ
の黒傘をひらいた。
てたのよおう。何度も電話したのにでなかっ
たじゃないの」
種吉が帰宅してすぐに汗を流そうと、浴室
の更衣室にとびこんだ。
そこに、いきなりの種吉のかみさんの罵声
である。
種吉は返す言葉につまった。
「あれれ、何があったっけ?」
「あったなんてもんじゃないでしょ。あん
たったらもう……」
話のなかみが判らない。
主語がなく、だらだらと述部ばかりの話が
つづいて、種吉はいささかうんざりする。
プラス思考って、常日ごろ、話している人
にしては、いいところもあるのに、種吉の欠
点ばかりひろう。
「ちょっとわるいけど、シャワーを浴びて
からにしてくれる?頼むよ。とっても外は暑
かったんだもの」
種吉がやんわり言い、身に付けているもの
を脱ぐと浴室に入った。
二つ折りのドアをグッと内側に引き寄せる。
(いくらかみさんでも、こうすれば、もは
や入っては来れぬぞ)
叫んではいても、彼女の話から、近所のど
なたかが亡くなったらしいことは理解できる。
興奮しているのか、彼女は簡単には引き下
がらず、更衣室にとどまる。
よほど急なことだったのだろう。
かみさんがあのようにふるまうのは、めず
らしい。
「おら、おら、はだかんぼうじゃきに。そ
こまでするこたあ、ねえだろ。ああかっこわ
るかんべなあ」
種吉が水道の栓をひねると、いくつもの細
かな穴から、勢いよく水が飛び出してきた。お
盆に食べたそうめんを、種吉は思い出した。
かみさんの声が、シャワーの音で、かき消
されてしまえばいいなと思う。
「年取ってるくせに、いまさら、若い気を
だして、あんたって、人は……」
「ええっ?」
彼女の話がまったく別の方向へと、向かっ
てしまいそうだ。
ああもういやだし、と、種吉は空いている
左手で、左の耳をふさいだ。
(おらのカラオケ道楽のことを批判してい
るのだろうが、入院して治るかどうかわから
ない病と闘っていることを思えば、これくら
いは許されてもよかろう。五十くらいの時に
一度、検査入院の経験があるだけだぜ)
「下手でもなんでも、じぶんが楽しく歌っ
ていたりすると、聞いている人は、何か感じ
て拍手してくださる。歌うことじゃ決してわ
るいことじゃないよ」
種吉は、更衣室にいすわるかみさんに向かっ
てつぶやくように言う。
「ええ?いま、なにか言った?」
かみさんの顔が、スリガラスに、大写しに
なる。
「いんやいんや、なんでもございません。と
にかく落ち着いてください。よおく話をうか
がいますので」
「うん、わかった。あのね、となりのYさ
んの旦那さんが、急に亡くなってしまわれた
んだって……。班長のTさんから電話連絡が
あったのよ。先日、救急車でK病院に運ばれ
てたんだって、知らなかったわ。あんたに連
絡しようと何度もラインメール入れたり、コ
ールしたりしたのに、ぜんぜん応えてくれな
かったんだもの」
おしまいのほうが涙声になる。
「わかった。わかったから、もうちょっと
待っててくれる、すぐに出るから」
「五時には、班の人みなで、仁義にいくこ
とになってるの。あんたはむりでしょ?わた
しが行くから」
「お願いします」
冷たい水を、からだ全体に、浴びているに
もかかわらず、なぜか種吉の胸の内にあつい
思いがわいてくる。
(このお盆、Yさんの奥様の新盆だったな。
そういえば、彼の家のどこにも、Yさんの姿
がなかった……)
先だって、ごみ出しに行く道すがら、種吉
がYさんにお悔やみを申し述べたばかり。
その時のYさんの悲し気な顔が、種吉の脳
裏にあざやかに浮かんだ。
種吉は浴室から出ると、急いで身支度をと
とのえた。
折からの激しい夕立である。
雷鳴が山あいにとどろく。
(どなたか人生五十年、下天のうちになん
とかって言ってたよな、むかしむかし。それ
くらいは医療の発達がなくても、人の身体は
もつようにつくられてるってことか。なるほ
ど。それ以上長く生きられるかどうかってこ
とになると、神さまだけが知っておられるわ
けだ。やはり、一寸先は闇ってことか)
ズボンの足もとが濡れるのが気になる。
種吉は前かがみの姿勢になると、ズボンの
すそを、大きく二つ折りにしてから、大きめ
の黒傘をひらいた。