厚生労働省へ問い合わせた去年。ソ連崩壊後、やっと入手できたシベリア
抑留戦没者名簿。寒さと飢餓が死因。埋葬場所は発表されてましたけれど、
もっと詳しく知りたくて電話をかけたのでした。
そして、知りえたそれは、ゴミ同然の埋葬法という事実だったのです。アウ
シュビッツの死体の写真を思わず思い出した無残さ。それこそ墓穴を掘らされ
て、そこに捨てられたユダヤ人のように。あのような・・・可哀想に・・・。
憤懣やるかたなしであった私は、去年初めて靖国神社にお参りしたのです。
あまりにも可哀想な父を思って。
そして、・・・まだ食いつきすら出来ないロシア語は、何を隠そう父の墓参の
ため。情けないことに
「ィヤー・・私」「ダー・・はい」「スパシーバ・・ありがとう」「エット(タ)
・・これ、それ、あれ」くらいしか覚えてないけど。
そこに、今朝。45000人近くといわれる戦没者の名簿を、作成していられる
方をテレビで紹介しているのを見て、紙と鉛筆を慌てて持ってきて、聞き取り。
ホームページもあります、のアナウンスに、すぐパソコンを立ち上げました。
ありました、ありました、父の名前が。収容所も、埋葬地も、色々と。
早速、その方にメールしました。墓参に関しての情報を戴けますか?って。
外はしのつく雨。私の頬には、川が氾濫したような水が激流となって、流れ落ち
ます。止めるすべもない、溢れる涙、涙、涙なのです。
親子の対面もできなかった父娘の私達です。姉達は、父との写真もありましたが、
私は、父なし子になってしまったのです。
けれども、父がいなかったことで、私自身が傷ついたり、リスクを背負った記憶
はありませんでしたが、母の苦労は、幼くともようくわかっていました。ですか
ら、7~8才くらいから、ミニ主婦をやらされたりしましたが、それが苦痛だっ
た記憶はありません。ただ、ただ母が可哀想と思ってましたから。
父という存在を知らないのですから、懐かしいなどという感情もありません。
それが、この数年、なぜか父がやたら可哀想に思えてきてたのでした。
母を看取ったせいもあるのかも知れませんが、遺髪一つなかった戦死公報は、父の、
両親と2人の姉達にとっても現実味は薄かったと思えます。ソ連の時代は、墓参な
どできるものではなく、段々縁が薄くなっていったのはやむをえないことでした。
そのソ連がなくなり、戦没者名簿がやっと日本へ届いても、役所の戦没者に対する
扱いに憤られた1人の男性がここに、偉業を成し遂げようと、今尚名簿の作成に没
頭されていらっしゃる。ご自身も抑留されていらして、その環境も充分ご存知。
その方のご尽力で、あいまみえることが出来なかった私達父子にも、1条の光が与
えられた今朝だったのです。
墓参が実現するかどうかは、まだわかりませんが、できる事ならば、ゴミのように
埋葬された50人(父のそこでの人数)の御霊に、合掌してきたいと思っています。
敬虔なクリスチャンだったという父は、毎朝賛美歌を歌っていたそうですが、
「音痴でねぇ」って、母が言ってました。
ですから、そこで私が父に賛美歌を聞かせてあげたいって思うのです。
お父さんが抱けなかった末っ子が歌う賛美歌よ、と。
外の雨も顔を流れる雨も、なかなか止みません。そんな1日の始まりでした。
抑留戦没者名簿。寒さと飢餓が死因。埋葬場所は発表されてましたけれど、
もっと詳しく知りたくて電話をかけたのでした。
そして、知りえたそれは、ゴミ同然の埋葬法という事実だったのです。アウ
シュビッツの死体の写真を思わず思い出した無残さ。それこそ墓穴を掘らされ
て、そこに捨てられたユダヤ人のように。あのような・・・可哀想に・・・。
憤懣やるかたなしであった私は、去年初めて靖国神社にお参りしたのです。
あまりにも可哀想な父を思って。
そして、・・・まだ食いつきすら出来ないロシア語は、何を隠そう父の墓参の
ため。情けないことに
「ィヤー・・私」「ダー・・はい」「スパシーバ・・ありがとう」「エット(タ)
・・これ、それ、あれ」くらいしか覚えてないけど。
そこに、今朝。45000人近くといわれる戦没者の名簿を、作成していられる
方をテレビで紹介しているのを見て、紙と鉛筆を慌てて持ってきて、聞き取り。
ホームページもあります、のアナウンスに、すぐパソコンを立ち上げました。
ありました、ありました、父の名前が。収容所も、埋葬地も、色々と。
早速、その方にメールしました。墓参に関しての情報を戴けますか?って。
外はしのつく雨。私の頬には、川が氾濫したような水が激流となって、流れ落ち
ます。止めるすべもない、溢れる涙、涙、涙なのです。
親子の対面もできなかった父娘の私達です。姉達は、父との写真もありましたが、
私は、父なし子になってしまったのです。
けれども、父がいなかったことで、私自身が傷ついたり、リスクを背負った記憶
はありませんでしたが、母の苦労は、幼くともようくわかっていました。ですか
ら、7~8才くらいから、ミニ主婦をやらされたりしましたが、それが苦痛だっ
た記憶はありません。ただ、ただ母が可哀想と思ってましたから。
父という存在を知らないのですから、懐かしいなどという感情もありません。
それが、この数年、なぜか父がやたら可哀想に思えてきてたのでした。
母を看取ったせいもあるのかも知れませんが、遺髪一つなかった戦死公報は、父の、
両親と2人の姉達にとっても現実味は薄かったと思えます。ソ連の時代は、墓参な
どできるものではなく、段々縁が薄くなっていったのはやむをえないことでした。
そのソ連がなくなり、戦没者名簿がやっと日本へ届いても、役所の戦没者に対する
扱いに憤られた1人の男性がここに、偉業を成し遂げようと、今尚名簿の作成に没
頭されていらっしゃる。ご自身も抑留されていらして、その環境も充分ご存知。
その方のご尽力で、あいまみえることが出来なかった私達父子にも、1条の光が与
えられた今朝だったのです。
墓参が実現するかどうかは、まだわかりませんが、できる事ならば、ゴミのように
埋葬された50人(父のそこでの人数)の御霊に、合掌してきたいと思っています。
敬虔なクリスチャンだったという父は、毎朝賛美歌を歌っていたそうですが、
「音痴でねぇ」って、母が言ってました。
ですから、そこで私が父に賛美歌を聞かせてあげたいって思うのです。
お父さんが抱けなかった末っ子が歌う賛美歌よ、と。
外の雨も顔を流れる雨も、なかなか止みません。そんな1日の始まりでした。