ミクロもマクロも

心理カウンセラーが気ままに書き続ける当たり前

やみそうにない雨・・・

2006-05-13 23:23:38 | Weblog
 厚生労働省へ問い合わせた去年。ソ連崩壊後、やっと入手できたシベリア
抑留戦没者名簿。寒さと飢餓が死因。埋葬場所は発表されてましたけれど、
もっと詳しく知りたくて電話をかけたのでした。
そして、知りえたそれは、ゴミ同然の埋葬法という事実だったのです。アウ
シュビッツの死体の写真を思わず思い出した無残さ。それこそ墓穴を掘らされ
て、そこに捨てられたユダヤ人のように。あのような・・・可哀想に・・・。
憤懣やるかたなしであった私は、去年初めて靖国神社にお参りしたのです。
あまりにも可哀想な父を思って。
そして、・・・まだ食いつきすら出来ないロシア語は、何を隠そう父の墓参の
ため。情けないことに
「ィヤー・・私」「ダー・・はい」「スパシーバ・・ありがとう」「エット(タ)
・・これ、それ、あれ」くらいしか覚えてないけど。

そこに、今朝。45000人近くといわれる戦没者の名簿を、作成していられる
方をテレビで紹介しているのを見て、紙と鉛筆を慌てて持ってきて、聞き取り。
ホームページもあります、のアナウンスに、すぐパソコンを立ち上げました。
ありました、ありました、父の名前が。収容所も、埋葬地も、色々と。
早速、その方にメールしました。墓参に関しての情報を戴けますか?って。
外はしのつく雨。私の頬には、川が氾濫したような水が激流となって、流れ落ち
ます。止めるすべもない、溢れる涙、涙、涙なのです。

親子の対面もできなかった父娘の私達です。姉達は、父との写真もありましたが、
私は、父なし子になってしまったのです。
けれども、父がいなかったことで、私自身が傷ついたり、リスクを背負った記憶
はありませんでしたが、母の苦労は、幼くともようくわかっていました。ですか
ら、7~8才くらいから、ミニ主婦をやらされたりしましたが、それが苦痛だっ
た記憶はありません。ただ、ただ母が可哀想と思ってましたから。
父という存在を知らないのですから、懐かしいなどという感情もありません。

それが、この数年、なぜか父がやたら可哀想に思えてきてたのでした。
母を看取ったせいもあるのかも知れませんが、遺髪一つなかった戦死公報は、父の、
両親と2人の姉達にとっても現実味は薄かったと思えます。ソ連の時代は、墓参な
どできるものではなく、段々縁が薄くなっていったのはやむをえないことでした。
そのソ連がなくなり、戦没者名簿がやっと日本へ届いても、役所の戦没者に対する
扱いに憤られた1人の男性がここに、偉業を成し遂げようと、今尚名簿の作成に没
頭されていらっしゃる。ご自身も抑留されていらして、その環境も充分ご存知。
その方のご尽力で、あいまみえることが出来なかった私達父子にも、1条の光が与
えられた今朝だったのです。
墓参が実現するかどうかは、まだわかりませんが、できる事ならば、ゴミのように
埋葬された50人(父のそこでの人数)の御霊に、合掌してきたいと思っています。

敬虔なクリスチャンだったという父は、毎朝賛美歌を歌っていたそうですが、
「音痴でねぇ」って、母が言ってました。
ですから、そこで私が父に賛美歌を聞かせてあげたいって思うのです。
お父さんが抱けなかった末っ子が歌う賛美歌よ、と。

外の雨も顔を流れる雨も、なかなか止みません。そんな1日の始まりでした。