周囲には様々な野草達が存在する。中には見事な花々を咲かせるものもあり、栽培花に匹敵するような花を持つものも。代表的なのがヒガンバナやシャガ、シュウカイドウ・・・・といった面々では無かろうか。こういった、いわば目立つ存在では無くとも、片隅でひっそりと花を咲かせる野草もある。農園でよく見かけるのが蓼(タデ)やオオバコ、ヒメオドリコソウ、シロツメグサ、ノギク・・・といった野草達だ。今はタデが満開というか、粒々した無数の花を咲かせている。すごく小さめで注意して見ないと見落とすような存在だが、懸命に生きてるようだ。栽培花のような艶やかさも華やかさも見当たらない。花としては影の薄い存在なのかも知れない。しかしながら不思議と惹かれるものが少なく無いのは何故だろうか。
注目を浴びることも喝采を受ける事も無いだろうに、それでも自分の世界を懸命に生きてる模様。小さな世界の王様なのかも知れない。こんな事をフト考えたのは、気になる事象が時折発生するからかも。というのは若くして人身事故の当事者となってしまう方がままあることだ。先にも中学1年の子が当事者となってしまわれた。ご本人にすれば解決不能と思える事態が存在したのかも知れないが、最悪の手段は思いとどまって欲しかった。組織社会である現世では、同調圧力の下、ある種の息苦しさを覚えるのはあり得ることだろう。困難を覚えたらドロップアウトしてしまうのも一つの手段なのかも。
方法論のひとつとして、「農業の存在」を思い浮かべられたら如何だろうか。農業には数学のように正解を求める楽しさは無いかも知れない。しかしながら選択の自由と生き様の自由とが存在するのは大きな魅力。つまりセオリーどおりでは無いのだ。1+1が3にも1にもなるような世界だろうか。農園の野草達を眺めていると、その存在の薄さと懸命さとに驚愕する事が多い。農業の世界もある意味野草達の世界と似たようなものなのかも。無論、経済的に恵まれにくいのは世の常識どおりなのだが。
「蓼食う虫も好き好き」・・・・・・・昔から言い伝えられて来た「ことわざ」だが、正にそのとおりでは無かろうか。他人様から注目されない世界であっても、自分の世界を広げていける場所がこの世にも存在する。早まっては欲しく無いなと。