今日は成人式。
昨日と打って変わって冷たい北風が吹いている。
今年も昨年に引き続いて、交通安全協会の一員として、歩道の確保中心の場外整理を担当。
とにかく寒かった。
成人式も現職時代から見てきた。
様々な変化がある。
外にいて、中の様子はほとんど分からないが、ホールの様子を見に入ってみた。
丁度、議長の挨拶が終わるところであった。殆ど満席で、拍手もしていた。問題なく進行するであろうという感じだった。
荒れる成人式が話題になるが、一時ほどではないのだろうか。
マスコミの報道もあまりないような気がする、もっとも、近頃忙しくて、TVのニュースもあまり見ていないので、
気になって、ネットで見るとやはり皆無ではないようである。
若者文化のワンパターン化は成人式にも表れている。
荒れる成人式の主人公のいでたちは、どこでも、金髪にだらしない羽織袴姿でガニ股に歩いて、手に一升瓶を持っている。
立川でも、ホールに入らず、外で騒いでいる連中も全く同じ姿である。
羽織袴には一升瓶しか絵にはならないためか、昨年はワインもあったが、今年は一升瓶だけ。
普段は、多分、日本酒は飲んでいないのだろうか、ラッパ飲みを試みるが、一回だけ、酔っぱらうまではいかない。
今年はどういう成り行きからか、パトカーが来て、バス停付近に止めていた車を排除した。
今年は、運転手付のレンタカーのリムジンを持ち込んだグループもあった。
私も、市民中心の実行委員会が企画、運営するようになってから2回目の実行委員長を務めた。
今年もその流れの上で行われたような気がする。
イベントとしてはそれなりの成功であり、新成人の人生における思い出の1ページを飾ったのも事実であろう。
しかし、もう一つ成人式には納得できない処を感じる。
もともと私は行政が行う成人式の廃止論者である。
戦後、日本の民主化を推し進める施策が様々行われた。
成人式もその一環だと、私は思う。
成人の一番大きな意義は参政権、つまり、投票権が20歳から与えられるという点にあると思う。
民主主義を確立する第一の要諦が選挙である。従って、戦後、日本の民主主義を確立するために、時の政府は、新たに選挙権を獲得した新成人を祝い、有権者としての自覚を促す意味での式典を行政が主催することを推進したのではないかと考える。
従って、議論はあるが、既に民主主義は日本に定着した、それを推し進めるために企画された成人式はその使命をずっと昔に終えている。
参政権が18歳になったら成人式はどうなるのであろうか。
成人式に親が来る、ヤンキーみたいな格好の新成人も結構指示に従う。
むしろ親たちの方が始末に悪い。歩行者の邪魔になるようなところでカメラを構える、敷地の中には入らない。
女性の振袖、男性の羽織袴、親の付き添い、何か七五三を連想させる。
七五三にはそれなりの意味がある。
三歳は三つ子の魂百までも、と言われるように己の人格形成の始まる年である、五歳の意味は分からないが、七歳は小学校入学に象徴されるように勉学のスタートである。
人生における20歳の意味はなんだあろうか。
祝辞で自己責任をよく言う。
かような祝辞は無責任で、場当たり的なものである。小学生は小学生なりに、中学生は中学生なりに責任がある。その責任は当事者がとらなければならない。その責任をとれないところに様々な社会問題が発生している。
20歳の意味を問い直さなければならない。
人生はグラデーションのように変化する、20歳という区切りがあまり意味がない。還暦や古希の様な感じで人生のそれなりの区切りでのお祝いならそれはそれでよいかもしれない。
しかし、それは私的なお祝いで、公がやるものではない。
七五三の感覚で、親離れせずにお祝いするのか、真の自立を願い覚悟のお祝いとするかはそれぞれ自由であるが。