1年じゅう、毎週のように山に登ってる馬鹿オヤジは、デジタル一眼レフの簡単撮影カメラをいつも持っているが、これの調子が悪くなっておったから、今朝は古いデジカメを取り出して、分解修理をしておった。
釣り糸を結ぶのも最近では厄介になっておって、途中でイライラ大声上げて放り出したくなるような老眼だから、度数の違う老眼鏡を3個ならべて、かけ替えながらなんとか良い感じになった。
こういう時に銀座の1階の俺の店に飛び込みでやってくる営業は、災難だろう。
息の根を止めてやるくらいに絡んで叩き出すようなことになってる。
そうやってイライラを解消して声を出して暴れておいて、老眼をかけて細々した細工を始めてる。
ところで、俺はここでナニをしてんだろう??
・・・というような疑問は、とうの昔に捨て果てておる。
後輩の50代の周旋屋連中が遊びにやってくると、黙ってそれを眺めている。
・・・器用なもんだね~
・・・・・・・・・・・
・・・そのくらいにならんきゃ~、女にはモテね~んだろうな~
・・・・・・・・・・・
・・・濡れてもいないのに無理やり入れるな!! ってさ、俺なんざ、カアチャンにいつも蹴られてるよ
・・・用も無いのなら、とっとと失せろ!!
・・・そうかそうか、ご機嫌ななめに80度だな~
そんなことを言いながら逃げ出すように出て行くと、温かいコーヒーを買って戻ってくる。
『江戸の性愛術』という本がある。
それを読めと渡してやると、黙って小一時間も読んでおって
・・・むかしは男女の性もおおらかで楽しんでたんだな~、いまは不感症の時代だな~
・・・そういう女を見抜いたら、とことん大事にして、可愛がってやることだろうよ、外見だけ、見てくれだけの薄っぺらい女は腐るほどおるが、なかなかそんな良い女は数はいなくなってるぜ
人が生きる生き方には、良い悪いだの、上だの下だのという、そんな評価は無いのが本当だろう。
その人その人の産まれ堕ちて育った環境から、その違いが出てくるだけのことで、本来はナニも規定は無い。
それが戦後の平和な時代になって、こう生きるべきだとか、こういう価値観が正しいとか、ありもしない常識や良識という善を国家が洗脳し続けたおかげで、そこで生きる国民はそれに縛られて生きる癖がついてしまってる。
出来の悪い子供に無理な躾を延々と続け、家庭内暴力、挙句に父親が殺す、こういう事件はモロに、そんなありもしない常識や良識という倫理・道徳観が原因になっている。
時代は変わってるわけだし、世界の価値観から隔離するような情報操作を続けてる国家ならば、せめて親がその呪縛から解き放たれて生きて見せる、そうでないと子や孫は、楽しく生きて行くことなど出来ないだろう。
善や悪、良いだの悪いだの、なにが正しいのかも定かではない人類の世界で、確かに持っておかなければいけないことといったら、磁力の方向くらいだろうよ。
俺がいろいろ子を育ててきて想うことは、そんなこと。
あとはいつも後悔しないようにと、どんどん楽しく生きて見せてやること。
たとえ万人に批判されようとも、四面楚歌になろうとも、自分に正直に胸を張っていること。
つまりは大人や親や爺婆こそが、まず過去に例のないくらいの生を、笑って胸を張って楽しく生きていること、これが大事。
笑いの無い人間に人は寄ってはこないし、集うとすればロクでもない連中ばかりになる。
さ、忙しい中でも、明日はどこぞの素敵な山へと向かうぜよ。
寝ないで深夜に出発するつもりだ。
スタッドレスもチェーンも、アイゼンも磨いて準備は万端。