肌寒くなってくると人恋しさや孤独感は深まるが、詩や絵や思索などは元々一人でやる物であって孤独なのは当たり前だ。
また秋が深まるにつれて隠者の思索が深まるかと言うとそうでもなく、そもそも思索とは一種の娯楽なので感興に浸りながらぼーっとするだけで深まりはしない。
苦労して掘り下げたり結論を求めるのは思考であって、思索では無い気がする。
そんな孤独感を噛み締めつつ、夕三日月の路地を皓々と灯る街の方へふらついてこよう。

普通の白い薄に少し遅れて赤い薄が一斉に開き、夕闇の中で夢幻に揺れている。
薄原は冬枯の頃まで残り、色々な情景を見せてくれるので有り難い。
穂の色が季節や朝夕の光で変化するので、写真でもバリエーションが増える。
秋の夜の街に出れば、飲食店の灯りの誘惑は抗い難い。
今は疫病禍でどの店も客は少ないが、例年なら夜な夜な酒舗に通う人も多い季節だ。

昔よく行った蕎麦屋の提灯は今も変わらずゆらゆらと客を誘っているが、私は血糖値の呪いで蕎麦も半分以上残さなければならず飲食店には行けなくなった。
ここで友人達と賑やかに詩画を論じた時代を懐かしむほか無い。
結局コンビニで明日の朝食を買っただけで、敗残兵のようにとぼとぼと街から退散して来た。

谷戸の路地は静かに寂しく灯り、山辺の深い闇へと続いている。
この寂寞とした秋灯の谷戸は孤絶の神仙境よりも俗世に付かず離れずの位置で、人間(じんかん)の悲哀を忘れずに過ごすにはほど良い所だろう。
我が谷戸に帰って草庵に夢幻の灯を点け、濃い目の珈琲で寛ぐとしよう。
©️甲士三郎