(花鳥諷詠扁額 高浜虚子筆)
我が初学より積もりし数多の雑詠を取捨整理すべく、百句を選び余を捨て一集となせり。
若書きなれば技拙なるを恥ぢず、技熟せども老心浅きを恥づ。
春秋折々にも小閑あらば御散読あらむ。
隠者の常にてこの身は文壇画壇より遠き幽境にあり、雅友諸兄には無沙汰を詫びるほか無し。
『隠者句集』
春
薄氷の光の上を歩く鳥
麗かな大きな雲の下の國
眩しくて見えぬ辺りに囀れり
狂ほしや過去の桜が散り止まぬ
日も影もうすれて花の色が勝つ
鎌倉の霞みてはまた眠る山
宗演の昔獅子吼の山笑ふ
碑に眠る詩文や百千鳥
囀りの中に古曲の伝授かな
霊峰を囲み幾つの花の郷
富士越えし雲の安らふ春の海
お茶の時菫に光足りし時
隙間から猫の手が出る遅日かな
春宵の紫紺の空へ灯る坂
花陰へ白砂の庭の照り返し
もう此処の落花掃く人還り来ず
誰も居ぬ夢の途中の花の駅
常昼の菜の花路へ終の旅
藤房が藤房を打つ飛沫かな
落椿朽ちゆく庭で詩論かな
墨の香や若葉の奥の白障子
春惜しむ舞の終りの急拍子
双牡丹ひしゃげ合ふほど寄りあひて
白牡丹息づいてゐる仄暗さ
鉈朽ちる牡丹の園の奥深く
夏
軽鴨が潜る光の輪の中へ
吹き荒ぶ古都の鬼門の青葛
青嵐去れば酒樽捨ててあり
薔薇真紅雨に四方の消える中
白花の従容と散る緑雨かな
紫陽花の古都の数多の水鏡
裏口の実梅の香り満ちる闇
荒庭の全ての花を試す蜂
重代の武士の土地大百足
空蝉を貫く朝の光かな
釣人は滝音の中虹の中
黒蝶が眠りの粉を撒きし路地
風吹けば去る白服の詩人かな
白服の老人軽し風の谷戸
浄蓮の蕾の中のうす明り
羅や怪談好きのお年頃
打水に茶屋の誘ひの灯が紅く
鮎食ふて髭の伸び来る帰り道
明け方の夢より淡く白蛾をり
音も無く遠き月下の花火かな
奈落から風吹いて来る蛍橋
沼底に大物潜む蝉時雨
夕立が打つ大仏のがらんどう
雷雲の山の麓の虹の畑
湧水に白砂辰砂の舞ふ光
秋
夕焼の下に小さく灯る島
夕焼けて古都の全ては影の中
星祭町から猫の消えてをり
月影の禊の庭のとぐろ縄
美しく秋風纏へ袖袂
天高し常滑壺の口ぽかん
星色の朝顔垣に籠る画家
髭絡み合はせ嵐の曼珠沙華
秋雨の昼を仄かに灯る寺
星涼し白砂の庭はほの明り
竹林に隠れて菊の宴かな
過ぎし日を静かに照らす秋灯かな
月光に敵ふ淡さの野辺の花
猫入れて月光の扉を閉ざしけり
光ごと月を抱きてうねる雲
時の鐘木の葉散り急く四遠まで
どの町も月の過ぎ去る途に眠る
千本の竹の打ち合ふ荒月夜
鎌倉に狸が増えて雨ばかり
草の絮昇るや暮るる日の筋を
濡れそぼつ鬼より赤き紅葉かな
雨の日も咲きて晩菊いつまでも
夜と昼のあはひに灯る霧の町
月光が鉄路を磨く旅の果
月の街人には見えぬ猫の路
冬
光塵の舞ひ降りる冬桜かな
廃園に蝶の息づく薄日かな
冬薔薇の暗香を湛へ画業かな
冬の川音無く古都に流れ入る
時雨坂下界は仄と明るみて
窓氷る世界を七の色に断ち
極月や港の端の招き猫
冬の灯や波濤の上の大伽藍
橋ひとつ谷戸を師走の世へ繋ぎ
紅を重ねて黒し寒牡丹
白鳥を追ふ白鳥の長き水脈
猟犬の黒髭も雪塗れにて
夢幻なる朽木の中の冬蛹
雪国の底ゆく蒼き流れかな
雪ばかり見るから鹿の眼は綺麗
寒濤に向かひて古都の不滅の灯
猫用の障子の穴は繕はず
玄冬や美しき歪みの虚子墨戯
磨れば減る古墨大事に冬籠り
うす紅の耳触らせぬ狡兎かな
暁闇に凍富士の根の深くあり
金色の凍烟纏ひ富士暁けり
牛頭の岩馬頭の波初明りかな
巫女舞の杜の無数の冬芽かな
散椿氷の下を流れけり
2023年6月 ©️甲士三郎