若山牧水は若い頃に鎌倉の少し先の三浦にしばらく住んでいたので、私には鎌倉文士らにも似た親近感がある。
彼の旅の歌には古の歌人に通じる旅情があり、現代の観光グルメ旅行では味わえない寂寥感が漂っている。
家の事情でもう長い事旅に出られぬ隠者は、旅(と酒)の歌人だった若山牧水の歌には深く憧憬の念を抱く。
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(直筆歌軸 若山牧水)
「かたはらに秋くさの花かたるらく ほろびしものはなつかしきかな」
同じ桔梗竜胆を見るにも近所の花屋で見るのと、旅の畦道で見るのでは観応力に大差が出る。
昔信濃路の野辺でスケッチした桔梗と女郎花を思い出させてくれる歌だ。
牧水の書は現代人にも読み易く今でも人気があり、短冊はともかく直筆の軸はなかなか入手困難となってしまった。
牧水の短歌で隠者が特に気に入っているのは夏から秋の旅吟だ。
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(短冊3種 若山牧水 黒織部徳利杯 江戸時代)
俳句や短歌の軸短冊を集めていて気付くのは、夏に飾れる涼しげな作が少ない事だ。
飾るにはあまり暗く悲しい作品は適さず、また書も上手くは無くともある程度の品格は欲しい。
その点で牧水の短冊には水辺の涼しい歌が結構あって嬉しい。
歌は向かって左から
「石こゆる水のまろみをながめつつ 心かなしもあきの渓間に」
「幾山河こえさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞけふも旅ゆく」
「うばたまの夜の川瀬のかち渡り 足に觸りしはなにの魚ぞも」
歌集の中では「渓谷集」が題からして涼しげで良い。
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(渓谷集 初版 若山牧水)
牧水が題名の秩父の渓谷に行ったのは秋だが、近年は8〜9月の暦の上では秋と言えどもまだまだ暑く、深山幽谷の涼感はこの時期読むには有難い。
彼の他の歌集も隠者が昔の取材旅行で歩いたような景があちこち出て来て、短歌としては大した作で無くとも共感できる歌が多い。
脇に積んである他の歌集は、別離、朝の歌、くろ土、山桜の歌、黒松、全て初版。
9月に入って山国はもう秋の風情だろう。
北への旅には最も良いこの時期を、まだまだ蒸し暑い鎌倉を出られぬ我が身を嘆きつつ、過去の旅のスケッチや写真の掘り起こしでもしよう。
©️甲士三郎