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安政2年2月中旬・大原幽学刑事裁判

2025年01月30日 | 大原幽学の刑事裁判
安政2年2月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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(前回から今回の記事までの経緯)
昨年(嘉永7年・1854年)11月16日に、奉行所は大原幽学その他審理関係者に翌年2月15日まで帰村を認めました。
五郎兵衛は残務を処理し、11月21日に江戸を出立。同日で嘉永7年の記事は終わっています。
11月27日に改元となり、嘉永7年は安政元年となりました。安政元年は11月27日に始まり、12月30日までの1ヶ月強です。

安政元年12月28日、江戸では大火事がありました(江戸神田安政元年の大火)。大原幽学の拠点となっていた松枝町の借家は無事でしたが、幽学一門がお世話になっている公事宿の中では被災してしまった宿もあり、その影響が五郎兵衛日記にも記されます。
年が改まって安政2年(1855年)、五郎兵衛は居村(長沼村;現成田市長沼)を2月14日に出立し、同日から安政2年の記事が始まります。
(都合により今月は2月の記事となります)
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安政2年2月14日(1855年)
#五郎兵衛の日記
五つ時に長沼村を太次右衛門殿と源七殿と出発し、九つ時に大森に到着。昼食後、役所で御添翰を受け取り、八つ半頃に平右衛門殿と合流。白井まで馬で移動し、七つ半に到着。藤屋に泊まり。岡飯田村の平太郎殿と同宿した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・年末年始の帰村も終わり、江戸に向けて出立です。居村の長沼村(現成田市長沼)からは一泊二日の旅程。途中、大森(現印西市大森)に寄るのは、長沼村を領有している淀藩の御役所で御添翰という書類を受け取らなければならないからです。
・藤屋は、五郎兵衛が白井(現白井市)で泊まるときの定宿。白井宿は木下(きおろし)街道の宿場町ですが、旅籠は2軒のみ。安政期~文政期頃とされている史料には白井宿に2軒の旅籠があり、名前は藤屋と森田屋と記載されているそうです。藤屋には渡辺崋山も宿泊しています。

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〈詳訳〉
五つ時に長沼村を太次右衛門殿と源七殿と一緒に出立。大森(現印西市大森)に九つ時に到着。昼食をとった後、御役所に行き、御添翰を受領する。
八つ半頃に大森で平右衛門殿と合流し、白井まで馬で行き、七つ半到着。白井の藤屋に泊まる。岡飯田村の平太郎殿と宿で合流。


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安政2年2月15日(1855年)
#五郎兵衛の日記
六つ半時白井を出立。九つ前に行徳に到着。「泡雪」で昼食。行徳から船に乗り扇橋まで。松枝町の借家に八つ時に到着。3人(平右衛門、平太郎)で湯に入り、夕食を済ませた後、平右衛門殿と一緒に蓮屋(公事宿)の火事見舞いに行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・本日は大森宿(印西市大森)を出立。行徳に着いて「泡雪」で昼食。昨年も行徳の泡雪で昼を食べています(嘉永7年1月29日条)。行徳から江戸までは船。船が着くのは扇橋(現江東区扇橋)。ここから神田松枝町までは徒歩です。
・安政元年12月28日、江戸では神田を中心に大火に見舞われました(江戸神田安政元年の大火)。公事宿も被害を受けました。大原幽学や五郎兵衛らは昨年11月下旬に江戸を後にしているので、直接は被災していません。

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安政2年2月16日(1855年)
#五郎兵衛の日記
早朝邑楽屋(公事宿)に挨拶。その後万徳(公事宿)の仮宅を訪ね、火事見舞いに一朱渡す。万徳さんから、「当分の間、邑楽屋さんに世話になってください」との話し。
五つ時に手代の米八殿の案内で奉行所の腰掛に出頭し、着届けを提出。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学一門は、蓮屋、邑楽屋、万徳の3つの公事宿にお世話になってきました。今日の記事で万徳のみ「仮宅」とあるので、万徳の建物は12月28日の大火で焼失してしまったようです。

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〈詳訳〉
早朝に食事を済ませ、邑楽屋(公事宿)に挨拶。その後万徳(公事宿)の仮宅のある松永町を訪ね、火事見舞いとして一朱を渡す。万徳からは、「当分の間、邑楽屋さんに世話になってください」と頼まれた。
邑楽屋に立ち寄って火事見舞いをし、五つ時に手代の米八殿の案内で奉行所の腰掛に出頭した。
(本日出頭した者)
大先生(大原幽学)
良左衛門君
伊兵衛父
又左衛門殿
上記四名の差添
治郎左衛門殿

傳蔵殿
差添 久左衛門殿
差添 平太郎殿
差添 蓮屋で差添二人頼
差添 藪様御作事一人頼み


・奉行所には四ツ時に届を済ませ、その後、淀藩の御上家敷に行ったが、足達様はお留守。淀藩の御勘定所に行き、御添翰の御届けをした。
・仮宅に戻り昼食をとった後は、松永町の万徳に袴代を持参。
・石川様のところで御門番をしている惣右衛門殿を訪ねたが外出中で不在。
・池之端仲町の住吉屋でキセルを買い、両国の伊勢屋で氷砂糖を購入、横山町東寿堂で硯と筆を買い、筒井筒で茶を購入。
・帰宅すると、惣右衛門殿が待っており、2階で打合せ。
・文平方への品物については、十日市場村の親父の方では支払う意思はないが、子供らの方では何でも元値で売り払いたいと考えているため、交渉を進めている。手間をかけずに売れるだけ売り、また、信頼できる商人がいれば、その人に任せるようにしよう。
・金子張りの鍔は送るように。その他の品物も同様に対処するように。
・夜に幽学先生と良左衛門君とで内密に荒海村家の縁談について打合せ。その後、惣右衛門殿とも話しをするとのこと。借金の状況次第で解決策が必要となりました。元の状況がよくわからないままでは、無計画に管理して財産を失うようなことになってはいけないため、しっかりと打合せすることを約束した。


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安政2年2月17日(1855年)
#五郎兵衛の日記
母が大病となったので急ぎ帰村する。
五つ時出立、鎌ヶ谷で昼食をとり、木下に七つ時に到着。問屋で夕食をとって、船に乗り、四つ半時に新川に到着。九つ時に長沼村に帰宅。
母の大病の看病をし、3月17日まで長沼村に滞在した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の母親が大病となり、五郎兵衛は村に戻ることに。通常一泊二日の旅程なのですが、朝早く江戸を立ち、一日で長沼村に戻っています。九つ時到着ですから、午前0時を回っており、急ぎ帰った五郎兵衛は大変だったことでしょう。

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安政2年2月の五郎兵衛の日記は以上です。
2月18日〜3月17日の日記の記事はなく、3月18日に再開となります。
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千葉地裁が一審の大審院判決 明治28年発生の尊属故殺事件

2025年01月27日 | 大審院判決
千葉地裁が一審の大審院判決 明治28年発生の尊属故殺事件
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(はじめに)
・この判決は大審院明治28年11月14日判決(大審院刑事判決録1輯4巻78頁)の現代語訳を試みたものです。原文は現代語訳の下にあります。
・本件は故殺事件です。現行法では殺人罪のみがありますが、旧刑法では謀殺罪と故殺罪が分かれて規定されており、謀殺罪は計画的な殺人、故殺罪は非計画的な殺人です。
・本件は養子が養父を故殺した事件であり、尊属故殺事件です。旧刑法では、「子孫、その祖父母、父母を謀殺・故殺したる者は死刑に処する」と規定されており(第362条第1項)、法定刑が死刑のみとなっています。
・本件故殺事件が起きたのは、大審院の判決からは分かりませんが、第二審の東京控訴院判決
は明治28年7月31日に言渡され、大審院判決は
2同年11月14日言渡しとなっています。
・本件故殺事件は、「千葉県印旛郡和田村米戸」(現佐倉市米戸)で起きています。
・本判決は、日本研究のための歴史情報裁判例データベース(明治・大正編)に登載されています。

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故殺の件
大審院刑事判決録(刑録)1輯4巻78頁
明治28年第1024号
明治28年11月14日宣告

◎判決要旨
・酒癖の悪い者が飲酒したという事実だけでは、その者が知覚・精神を喪失していたと推定することはできない(判旨第三点)。
(参考)罪を犯す時、知覚精神の喪失により是非を弁別できない者は、その罪について処罰されない(刑法第78条)。
・証拠調査の許否は裁判官の職権に属する(判旨第四点)。

第一審 千葉地方裁判所
第二審 東京控訴院

被告人 藤崎常吉 
辯護人 齊藤孝治 磯部四郎

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(緒言)
常吉に対する故殺被告事件につき、千葉地方裁判所は罪証十分であるとし、刑法第362条第1項、第115条、第43条第2号を適用し、死刑に処すとともに、犯行に使用された鉈1丁を没収し、公訴裁判費用は被告が負担すべき旨を言い渡した。
この判決に対して、被告が控訴した。東京控訴院は、この控訴を受理して審理し、明治28年7月31日に控訴棄却の判決を言渡した。
被告が上告したので、刑事訴訟法第283条に基づき、次のように判断する。
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(弁護人斎藤孝治及び磯部四郎の上告趣意について)
弁護人斎藤孝治および磯部四郎の上告趣意:
原院(東京控訴院)は、被告が普段から酒癖が悪かったこと、犯行当時に飲酒酩酊状態にあったことを認定した上で、殺人の原因は父の言葉に対して不満を抱いたとし、被告に対して死刑を言い渡した。
このような事実認定では、刑法第362条第1項「子がその父を謀殺または故殺した場合」を適用することはできない。原判決では、被告の行為が謀殺か故殺か読み取れない。
原判決が死刑を言い渡す際に適用したの、刑法第115条第2項および第362条第1項であるが、刑法第115条第2項は「養子はその養家における実子と同様である」と規定しているに過ぎないから、養子である被告に死刑を言い渡すには刑法第114条の規定も適用する必要があるところ、これを欠いた原判決は判決の理由を具備しているとはいえない。
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〈大審院の判断〉
原判決には、被告が「(前略)一度は同室の炉のそばで寝ていたが、先ほど孫左衛門が少しく激しい言葉を言ったことを思い出して不満となり、憤懣を抑えられず、突然同人を殺害しようという考えが生じ、すぐに起き上がり」とあり、殺害の念が生じた事由は明白であり、かつ、その行為が刑法第362条の故殺であることは明瞭である。
被告と孫左衛門は養父子の関係にあり、親族の扱いは実子と同じとされる刑法第115条を適用しているから、適用法条の欠如もない。
したがって、本論旨は適法な上告理由にあたらない。

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(被告常吉の上告趣意について)
被告常吉の上告趣意:本件は刑法第78条により処罰されるべきものであるにもかかわらず、それに反した判決が言い渡されたことは不当である。
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〈大審院の判断〉
原判決は、被告が犯罪当時に知覚・精神を喪失していたことは認定していないから、被告の主張は、原審が認めなかった事実に基づいて不服を訴えているに過ぎず、適法な上告理由にあたらない。

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(弁護人両名の拡張上告趣意第一点について)
弁護人両名の拡張上告趣意第一点:原審の判決は理由を示さない不法がある。
被告常吉は普段から非常に酒を好み、酩酊すると粗暴な行為をすることは原審もこれを認定している。被告は、犯行当時は大量に酒を飲み、知覚を失っていたと弁解し、各証人も、被告が大量に酒を飲んだと証言している。被告本人の弁解どおり、飲酒によって知覚・精神を喪失し、これにより是非を弁別できない状態での行為であったならば、刑法第78条により宥恕を受けるべきである。弁護人は医師による鑑定を請求したが、原審はこれを採用しなかった。原判決が酒癖があるという事実を認めながら、知覚・精神の喪失の有無について判断を示さなかったのは、理由を示さない不法な判決である。
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〈大審院の判断〉(判旨第三点)
弁護人の主張の趣旨は明瞭ではない。判決をしなかったことと、判決に理由を付さなかったことは、別の問題である。知覚・精神の喪失の有無について判決をしなかったことを、「理由を付さない不法な判決」とするのは、訴訟法上まったく意味をなさない。
弁護人の主張は、あるいは、原審で知覚・精神の喪失が一つの争点となっていたので、それについて理由の中で示されていないことを不法だといいたいのかもしれない。しかし、原審が犯行の事実を認定し、有罪としているのであるから、知覚・精神を喪失していなかったことを示す必要はない。
弁護人の主張は、被告に酒癖があるという事実を認めた以上、知覚・精神の喪失の有無を特に示すべきだというのかもしれない。しかし、「酒癖がある者は飲酒した際に知覚や精神を喪失する」との法律上の推定はなく、酒癖のある者が飲酒して、実際に知覚・精神を喪失したか否かは専ら事実認定に属するものである。原審は、その事実がないと認めて有罪判決をなしたのであるから、特にその事実がない旨の理由を付す必要はない。また、知覚・精神を喪失したかどうかは事実認定に属するものであり、医師の鑑定に依拠するか否かは、専ら原審の職権に属する。よって、本論旨は適法な上告理由にあたらない。

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(弁護人両名の拡張上告趣意第二点について)
弁護人両名の拡張上告趣意第二点:原判決が刑事訴訟法第198条の規定に違反する不法なものであり、同法第268条に基づき破棄されるべきである。その理由は、被告人が免責のための立証を行う権利を有することは当然であるだけでなく、立法者もこの権利の行使を忘れさせないよう特に注意を払い、刑事訴訟法第198条において、担当裁判官が毎回、被告人に立証の権利があることを告知するよう命じているからである。これは、一方当事者の立証だけでは公正な審理を保つことが難しいためである。
この法の趣旨からすれば、被告人や弁護人が免責の立証をしようと申し立てた場合、裁判官にはこれを全て排斥することは許されないはずである。裁判官による排斥が許されるのであれば
、第198条の規定は無意味となってしまう。
被告人の飲酒が度を過ぎたもので、知覚・精神を喪失したか否か問題は、有罪・無罪を分ける重要な点である。弁護人は被告人と共に、被告人の心神に酒量がどのような影響を及ぼしたかを、適切な専門家に鑑定させることを申請しており、このことは原審の公判記録から明らかである。
裁判官は証拠の取捨については全権を有するが、立証を遮断する権限などは持っていない。
しかるに、原審が鑑定申請を却下したことは、刑事訴訟法第198条の規定に違反する裁判である。
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〈大審院の判断〉
証拠が必要かどうかは原審の裁判官の職権によって決定されるものであり、したがって証拠調べを許可するか否かもまたその職権に属する。本論旨はこの職権に対する不服であって、適法な上告理由とはいえない。
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(弁護人両名の拡張上告趣意第三点について)
弁護人両名の拡張上告趣意第三点:原判決は、無効かつ違法な証拠を用いて有罪とした違法な裁判であるというものである。原判決では、有罪の証拠として藤崎タケおよび藤崎ヨリの予審調書を摘示している。しかし、この調書は無効かつ違法なものであると言わざるを得ない。刑事訴訟法第20条は、官吏や公吏が作成する書類には、その所属官署の印章を使用しなければならず、これを使用できない場合には、その理由を記載する必要があると規定している。この規定に反した書類は無効となる。

予審調書には、「千葉県印旛郡和田村米戸の藤崎常吉宅において作成したため、庁印を用いず」と記載されているのに、千葉地方裁判所の署名と押印がされている。よって、この調書がどこで作成されたのかは明確ではなく、無効なものである。このような記載にもかかわらず官署の印が押してあるから違法でないとするならば、法律に「官署の印を使用できない場合云々」という規定を設ける必要はないし、出張先で作成された調書は後日、官署の印を押せばよいということになる。

調書の作成場所において所定の要式を具備しなければならないのは、調書の信用性を確実にするためであるから、官署の印を使用できない場合について特別な規定が設けられているにもかかわらず、当該調書のようなものであっては、官署で作成されたのか、出張先で作成されたのかが明確でないので、その信用性は失われ、有罪の証拠とすることはできない。要式を具備しないときは無効となるのであるから、要式が不明確となるような事項を付け加えることも無効を生じさせるものと言わざるを得ない。

もし付記された事実の通りであれば、官署の印が必要な理由はなく、また、裁判所で作成されたものであるならば、場所の付記があるべき理由もない。このように不正確な調書であるため、無効かつ違法な証拠を用いて有罪とされたことは、違法であると言わざるを得ない。
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〈大審院の判断〉
藤崎タケおよび藤崎ヨシノの調書にはその末尾に「藤崎常吉の家において作成したるをもって」とあり、調書の作成場所は明確である。この場合において所属官署の印が押されていなくても、当然ながら調書は有効であるから、たまたま官署の印が押捺されていたたとしても、そのために調書が無効とはならない。
刑事訴訟法第20条は、官署の印を使うべき場合にそれが使われないと無効になるという制裁を定めているが、有効な場合に官署の印を使ったとしても無効になるとは規定していない。予審調書に「庁印を用いず」と記載していながら、実際には庁印が押されているのは、いささか不正確であるとはいえるが、これは調書の証明力に関する問題であって、これを証拠として採用するかどうかは事実審理を行う裁判官の職権に属するものであり、調書自体の有効性には関係ない。よって、本論旨は適法な上告理由にあたらない。

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(弁護人両名の拡張上告趣意第四点について)
弁護人両名の拡張上告趣意第四点:原判決が藤崎幸太郎の証言を採用して有罪を認定したのは違法な裁判である。その理由は、原審は藤崎幸太郎の陳述を証拠として有罪を認定したが、幸太郎の配偶者であるシケは、被告常吉の実父である大野長右衛門の妹であり、さらにシケも長右衛門も、実の父親は小出五右衛門であることが別紙証明書により明らかである。したがって、証人である藤崎幸太郎は刑法第114条第5の「父母の兄弟姉妹およびその配偶者」に該当し、刑事訴訟法第123条第2に違反した不法な判決である。
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〈大審院の判断〉
弁護人は証明書を3通提出しているが、上告審は第二審の審理を経た一件記録につき事実に関する調査を行わず、新たに提出された証拠につき事実の審理を行わない(判旨第四点)。
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(結語)
以上の理由により、刑事訴訟法第285条の規定に従い、次のように判決する。

本件上告はこれを棄却する。

明治28年11月14日大審院第一刑事部公廷において、検事岩田武儀立会し宣告。
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〈原文〉
故殺ノ件
大審院刑事判決録(刑録)1輯4巻78頁
明治二十八年第一〇二四號
明治二十八年十一月十四日宣告
◎判决要旨
法律ハ酒癖者ノ飮酒シタル事實ヲ以テ知覺精神ノ喪失ヲ推測スルコトナシ(判旨第三點)
(參照)罪ヲ犯ス時知覺精神ノ喪失ニ因テ是非ヲ辨別セサル者ハ其罪ヲ論セス(刑法第七十八條)證據調ノ許否ハ裁判官ノ特權ニ屬ス(判旨第四點)

第一審 千葉地方裁判所
第二審 東京控訴院

被告人 藤崎常吉 
辯護人 齊藤孝治 磯部四郎

右常吉ニ對スル故殺被告事件ニ付明治二十八年七月三十一日東京控訴院ニ於テ千葉地方裁判所カ罪證充分ナリトシ刑法第三百六十二條第一項同第百十五條第四十三條第二號ヲ適用シ死刑ニ處シ犯罪ノ用ニ供シタル鉈壹挺ハ之ヲ沒収シ公訴裁判費用ハ被告ノ負擔タルヘキ旨言渡シタル判决ニ服セス被告ノ爲シタル控訴ヲ受理シ審理ノ末本案控訴ハ之ヲ棄却スト言渡シタル判决ニ服セス被告ヨリ上告ヲ爲シタルニ依リ刑事訴訟法第二百八十三條ノ定式ヲ履行シ審理スル左ノ如シ

辯護人齋藤孝治磯部四郎上告趣意ハ原院ハ被告ニ對シ死刑ヲ言渡シタリト雖モ其判决ヲ見ルニ被告カ平素酒癖アル事實及ヒ犯罪行爲アリタル當事ハ飮酒酩酊シ在リタル事實ヲ認メ而シテ其殺害ノ原因ハ父ノ言語ニ對シ不平心ヲ起シタリト云フニ過キサレハ其事實情况刑法第三百六十二條第一項ニ規定セル子カ其父ヲ謀殺故殺シタルモノト自ラ異ナルノミナラス被告ノ所爲ハ謀殺故殺二者孰レノ所爲ナルヤ原院判文之ヲ知ルニ由ナシ加之ナラス原判决カ死刑ノ言渡シアル法條ノ適用ヲ見ルニ刑法第百十五條第二項第三百六十二條第一項ヲ明示シタルニ過キサルニ刑法第百十五條第二項ノ規定ハ養子其養家ニ於ケル親屬ノ例ハ實子ニ同シト云フニ止マルモノナレハ養子タル被告ニ對シ死刑ヲ言渡スニハ右法條ノ外尚ホ刑法第百十四條ノ規定ヲ適用セサレハ判决ノ理由ヲ具備セルモノト云フヘカラスト云フニ在レトモ◎原判文ヲ査閲スルニ「(前畧)一旦同室ナル爐ノ傍ニテ寢臥シタルモ先キニ孫左衛門ノ言語少シク劇シカリシヲ追懷シ不平心ヲ起シ憤懣ニ堪ヘス忽然同人ヲ殺害セントノ念ヲ生シ直チニ起キ上リ云々」トアレハ其殺害ノ念ヲ起シタル事由明白ニシテ且ツ其所爲刑法第三百六十二條ニ謂フ所ノ故殺タルコトモ明瞭ナリ而シテ被告ト孫左衛門ハ養父子ノ間柄ニシテ其親屬ノ例ハ實子ニ同シトノ同法第百十五條ヲ適用スル已上ハ第三百六十二條ヲ適用スルニ於テ理由ノ闕如スル處一モ之レアルコトナシ故ニ本論旨ハ毫モ上告適法ノ理由ナシ

被告常吉上告趣意ハ本案ハ刑法第七十八條ニ依リ處斷スヘキモノナルニ之ニ反シタル判决ヲ與ヘラレタルハ不當ナリト云フニ在レトモ◎原判文ヲ見ルニ被告カ犯罪ノ當時知覺精神ヲ喪失シタリトノ事實ヲ認メアラサレハ本趣旨ハ必竟スルニ原院ノ認メサル事實ニ基キ漫ニ不服ヲ唱フルニ過キサレハ上告適法ノ理由トナラス

辯護人兩名ノ上告趣意擴張第一點ハ原院ノ判决ハ理由ヲ付セサル不法ノ判决ナリ其理由ハ本件ノ被告常吉ハ平素甚タ酒ヲ嗜ミ酩酊スルトキハ粗暴ノ行爲アリトハ原院ノ認ムル所ナリ而シテ被告本人ノ辯解ニ因レハ凶行ノ當時ハ多量ノ飮酒ヲ爲シテ知覺ナカリシト云ヒ各證人ノ申立ニ因ルニ多量ノ飮酒ヲ爲シタル申立ヲ爲シ居レリ若シモ被告本人辯解ノ如ク飮酒ノ爲メ知覺精神ヲ喪失シ因テ是非ヲ辨別セサル者ノ所爲ナルニ於テハ刑法第七十八條ノ宥恕ヲ受クヘキモノナリトス故ニ原院ニ於テハ辯護人ヨリモ醫師ノ鑑定ヲ請求シタルニ之レヲ採用セスシテ酒癖アル事實ヲ認メナカラ知覺精神喪失有無ノ判决ヲ爲サヽリシハ理由ヲ附セサル不法ノ判决ナリト云フニ在リテ◎其趣旨ノアル處甚タ明瞭ナラス判决ヲ爲サヽルト判决ニ理由ヲ附セサルトハ自ラ別問題ニ屬ス故ニ知覺精神喪失有無ノ判决ヲ爲サヽリシハ理由ヲ附セサル不法ナリト云フハ全ク訴訟法上意味ナキ文詞ナリ或ハ原院ノ審理中知覺精神喪失ノ事實有無カ一ノ爭點トナリタルニ之ニ對シ理由中判示セサルハ不法ナリト云フノ意ナラン乎原院ハ凶行ノ事實ヲ認メ有罪ノ判决ヲ爲ス已上ハ特ニ知覺精神ヲ喪失セサリシコトヲ示スノ要ナシ又或ハ酒癖アル事實ヲ認メタル已上ハ知覺精神喪失有無ノコトヲ特ニ判示スヘキモノナリトノ意ナラン乎法律ハ酒癖アル者ハ飮酒スルトキハ知覺精神ヲ喪失スルモノナリトハ一應ノ推測ヲモ爲サヽルヲ以テ酒癖アル者飮酒シタリトモ果シテ知覺精神ヲ喪失シタルヤ否ヤハ全ク事實ノ認定ニ屬ス故ニ其事實ナシト認メ有罪ノ判决ヲ爲ス已上ハ特ニ其事實ナキ旨ノ理由ヲ(判旨第三點)
附スルヲ要セス且ツ知覺精神ヲ喪失シタルヤ否ヤハ全ク事實ノ認定ニ屬スル已上ハ醫師ノ鑑定ニ依ルト否トハ全ク原院ノ職權ニ屬ス要スルニ本論旨ハ上告適法ノ理由ナシ』其第二點ハ原院判决ハ刑事訴訟法第百九十八條ノ規定ニ違背シタル不法ノモノナルヲ以テ同法第二百六十八條ニ從ヒ破毀セラルヘキモノト信ス其理由ハ被告人ニ免責ノ立證ヲ爲ス權利アルコトハ勿論ナルノミナラス立法官ハ此權利ノ施行ヲ遺忘セシメサルコトニ特ニ注意シ刑事訴訟法第百九十八條ヲ以テ當局裁判官ヨリ毎事被告人ニ立證ノ權利アルコトヲ告知スヘシト命令セリ
盖シ片訟以テ審理ノ公平ヲ保ツコト難キカ故ナラン乎是ニ由テ之ヲ觀レハ苟モ被告人若クハ其辯護人ヨリ免責ノ立證ヲ爲サント申立ツル已上ハ裁判官ハ悉ク之ヲ排斥スルノ職權ナカル可シ他ナシ若シ之ヲ排斥スルノ職權アルモノトセハ前記第百九十八條ノ規定ハ徒法ニ屬スルヲ以テナリ抑本件ノ被告人飮酒度ヲ過キテ知覺精神ヲ喪失スル者ナルヤ否ヤノ問題ハ有罪無罪ノ相岐ルヽ點ナルヲ以テ辯護人等ハ被告人ト共ニ被告人ノ心神上ニ酒量ノ及ホス可キ影響如何ヲ相當技術家ニ鑑定セシメラレンコトヲ申請シタル事實ハ原院ノ公判始末書ニ徴シテ明瞭ナリ裁判官ハ既ニ差出シタル證據ヲ取捨スルノ全權ヲ有ストハ聞知スル所ナリト雖トモ立證ノ途ヲ遮斷スル職權ヲ有セラルヽモノトハ被告人ノ曾テ信セサル所ナリ然ルニ原院ニ於テ右立證ノ申請ヲ排斥セラレタルハ刑事訴訟法第百九十八條ノ規定ニ違背シタル裁判ト信シテ疑ハサル次第ナリト云フニ在レトモ◎證據ノ必要ナルト否トハ原院ノ職權ヲ以テ定ムル處ナレハ從テ證據調ノ許否モ亦其職權ニ屬ス本論旨ハ右ノ職權ニ對スル不服ナレハ上告適法ノ理由トナラス』其第三點ハ原院判决ハ無効且違法ノ證據ヲ以テ斷罪ノ具ニ供シタル違法ノ裁判ナリ原院判决ハ有罪ノ證憑トシテ藤崎タケ藤崎ヨリノ豫審調書ヲ明示セリ然レトモ此調書ハ無効且違法ノモノト云ハサルヘカラス刑事訴訟法第二十條ノ規定ニ依レハ官吏公吏ノ作ル可キ書類ニハ其所屬官署ノ印ヲ用ユルコトヲ要シ而シテ若シ之ヲ用ユルコト能ハサル塲合ニ於テハ其事由ヲ記載スルコトヲ要シ此規定ニ反スルトキハ其書類ノ効ナキモノナリ今右調書ヲ閲スルニ「千葉縣印幡郡和田村米戸藤崎常吉宅ニ於テ作成シタルヲ以テ廳印ヲ用ヒス」トアルニ拘ハラス千葉地方裁判所ノ署名押捺シ在リ然レハ此調書ハ孰レノ處ニ於テ作成セラレタルモノナルヤ明確ナラサル無効ノモノナリ若シ右記載アルニ拘ハラス官署ノ印ヲ押捺シテ違法ニ非ストセハ法律ニ於テ「官署ノ印ヲ用ユル能ハサル云々」ノ規定ヲ設クルノ要ナク出張先作成ノ調書ハ後日ニ於テ官署ノ印ヲ押捺シテ可ナルノ結果ヲ生スルニ至ル然レトモ調書作成ノ塲所ニ於テ定式ヲ具備スルハ其調書ノ信表力ヲ確然ナラシムルニ要アルヲ以テ官署ノ印ヲ用ユル能ハサル塲合ニ對スル特別ノ規定ヲ設ケタルモノナルニ該調書ノ如クナルトキハ官署ニ於テ作成シタルモノナルヤ出張先ニ於テ作成シタルモノナルヤ正確ナラス其信表力ナキモノナレハ斷罪ノ具ニ供スヘキモノニ非ス要式ノ不足ニシテ無効ヲ生スル已上ハ其要式ヲ不明確ナラシムル事項ノ附加ハ亦無効ヲ生スルモノト謂ハサルヘカラス實ニ附記ノ事實ノ如クナレハ官署ノ印ノ存スヘキ理由ナク又裁判所ニ於テ作成セラレタルモノナレハ其塲所ノ附記アルヘキ理ナク不正確ナル調書ナルニ此無効且違法ノ證據ヲ以テ斷罪ノ具ニ供セラレタルハ違法ト云ハサルヘカラスト云フニアレトモ◎藤崎タケ藤崎ヨシノ調書ヲ閲スルニ其末尾「云々藤崎常吉宅ニ於テ作成シタルヲ以テ」トアレハ其作製ノ塲所明瞭ニシテ此ノ塲合ニ於テ所屬官署ノ印ヲ用井サルモ當然有効ナルモノナレハ偶官署ノ印ヲ押捺スルモ爲メニ其調書ノ無効トナルヘキ理由アルコトナシ刑事訴訟法第二十條ハ所屬官署ノ印ヲ用ユヘキ塲合ニ之ヲ用井サルトキニ無効ノ制裁ヲ附スルモ用井サルモ有効ナル塲合ニ之ヲ用ユルトキ無効ナリトノ規定ヲ爲シタルニアラサルコト明瞭ナリ唯「廳印ヲ用ヒス」ト記載シ而シテ廳印ヲ用井アルハ聊カ不精確ノ嫌ナキニアラスト雖トモ此全ク右調書ノ證據力ニ關スル事柄ニシテ之ヲ採ルト採ラサルトハ事實承審官ノ職權ニ屬シ調書自體ノ有効無効ニハ關係アルヘカラス故ニ本論旨ハ上告適法ノ理由トナラス』其第四點ハ原院判决カ藤崎幸太郎ノ證言ヲ採テ斷罪ノ具ニ供シタルハ違法ノ裁判ナリ其理由ハ原院ハ藤崎幸太郎ノ陳述ヲ採テ斷罪ノ證トセラレタレトモ右幸太郎ノ配偶者シケハ被告常吉カ實父大野長右衛門ノ妹ニシテシケモ長右衛門モ其實父ハ小出五右衛門ナルコトハ別紙證明書ニ明カナリ故ニ證人藤崎幸太郎ハ刑法第百十四條第五ニ所謂「父母ノ兄弟姉妹及ヒ其配偶者ニ該當スルモノニシテ刑事訴訟法第百二十三條第二ノ法律ニ違ヒタル不法ノ判决ナリト云フニ在リテ◎證明書三通呈出スルモ上告審ハ第二審ヲ經由セシ一件記録ニ就キ事實點ニ關シ調査スルコトナキニアラサルモ新タニ呈出スル證據物ニ付事實ノ審理ヲ爲スヘキモノニアラス(判旨第四點)
右ノ理由ニ依リ刑事訴訟法第二百八十五條ノ規定ニ從ヒ判决スル左ノ如シ
本件上告ハ之ヲ棄却ス
明治二十八年十一月十四日大審院第一刑事部公廷ニ於テ檢事岩田武儀立會宣告ス


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文政13年1月中旬・色川三中「家事志」

2025年01月23日 | 色川三中
文政13年1月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政13年1月11日(1830年)
・晴れたり、曇ったり。
いぬいの風(北西風)強し。
・方角の良い花蔵院を参詣。明日から東在(東ルート)の行商に行く予定ゆえの参詣であったが、家に戻ったらまた体調不良。
#色川三中 #家事志
(コメント)
体調不良の三中。ようやく外出できるようにはなりました。が、近くの花蔵院(現土浦市大手町)に参詣しただけで、また体調が悪化してしまいました。これでは行商に行くのは無理でしょう。
━━━
〈詳訳〉
・晴れたり、曇ったり。いぬいの風がはげしい。
・年越式。今年も例年のとおり、家事(私的なこと)を記していく。
・明日から東在(東ルート)の行商に行こうと、方角の良い花蔵院へ参詣をしたが、家に戻ったらまた体調不良となる。

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文政13年1月12日(1830年)晴
体調不良。行商は取り止め。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日近くの寺に参詣に出かけただけで、体調悪化してしまった三中。やはり行商に出かけるのは無理でした。無念の行商中止宣言ですが、体調が悪いのに無理をする必要はありません。


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文政13年1月13日(1830年)晴
・東在(東ルート)の行商には、叔父の利兵衛殿に行ってもらう。茂吉が同行。
・夜に弟の金次郎と与兵衛が西在(西ルート)の行商から戻ってきた。新たな得意先も獲得してきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
これまで三中が自ら行っていた東在(東ルート)の行商。今回は体調不良のため断念し、叔父さんに依頼。一方、弟の金次郎は西在(西ルート)の行商で新規顧客も獲得。若い力が着実に育っています。

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文政13年1月14日(1830年)
親類(色川庄右衛門殿)に店の対応を依頼。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川家は薬種商であり、店で薬の販売もしていますが、叔父の利兵衛が東在(東ルート)の行商に出てしまったため、親類の庄右衛門に店の対応を依頼しています。三中自身が店対応できない体調なのでしょう。

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文政13年1月15日(1830年)晴
与兵衛を東在(東ルート)の行商へ行かせる。叔父の利兵衛殿とも協力し、皆で手分けして売掛金を回収するしてほしいと話した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
東在(東ルート)の行商はかなりの件数があるのでしょう。顧客の医師の数は不明ですが、昨年7月〜8月にかけての行商は16日間を要しておりました。既に叔父利兵衛が行商中ですが(1月13日条)、与兵衛も動員し、売掛金を回収する作戦です。
━━━
〈詳訳〉
・与兵衛も東在(東ルート)の行商へ行かせる。叔父の利兵衛殿とも協力し、皆で手分けして売掛金を回収するよう指示し、玉造(現かすみがうら市玉造)へ行かせた。
・十一屋与四郎が婿を迎えた。昨夕挨拶に来たので、酒一升を贈った。
・明日は十人講の集まりがある。
・先日岩間のいせや(泊や)庄左衛門へ、礼として大平一ツを贈ったところ、今日そのお礼として豆一袋が贈られてきた。


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文政13年1月16日(1830年)晴
十人講を行う。1人あたり16文。加入者は新たに加わった者も含めて24軒。とりやの義兵衛殿に頼んで、振舞いをした。九つ過ぎに振舞い終了。栗山八兵衛殿(町年寄)が来られたので、2階を使って話し(数刻に及ぶ)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
十人講というのは、良く分からないのですが、葬儀のときに人を出してくれたり(文政10年閏6月13日条)、安く葬儀をあげたりすることができるもののようです(文政12年12月16日条)。普段は本日の記事にあるような飲み会をしているのでしょうか。

━━━
〈詳訳〉
・十人講を行う。1人あたり16文ずつ集める。加入者は新たに加わった者も含めて24軒。とりやの義兵衛殿に頼んで、振舞いをした。九つ過ぎに振舞い終了。栗山八兵衛殿(町年寄)が来られたので、2階を使って話し(数刻に及ぶ)。
・九つ半、日用庄蔵が東在(東ルート)から土浦に戻ってきた。叔父の利兵衛殿からの書状には、昨日八つ時、茂吉と一緒に玉造(現かすみがうら市玉造)のてうしや(ちょうしや)に無事到着し、与兵衛も少し遅れて同所に無事到着し、その後、日用庄蔵も鹿嶋方面から同所に戻り、皆でご馳走をいただいたことが書かれていた。今朝無事に、3人(利兵衛、茂吉、与兵衛)はさらに東の方へ向けて出立したこと等は庄蔵からも聞いて承知し、安堵した。売掛金も相応に回収できたようである。


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文政13年1月17日(1830年) 晴
大町(現土浦市大町)の荒川屋勘兵衛が、今日から普請を始めるという届があった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日はこの大町の荒川屋勘兵衛の普請届の記事だけです。これまでに荒川屋勘兵衛について言及はなく、唐突にこのような記事が出てくるとコメントの書きようがありません(笑)。毎日の日記ですから、こういうことにも出くわします。

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文政13年1月18日(1830年)晴
『大同類聚方』百巻(合巻十巻)新版が江戸から届く。飛脚、すや治右衛門。喜びで手の舞い足の踏ふむところを知らず。急いでうがいをし、手を洗って身を清め、三拝九拝して一読する。代金は金二分二朱。日本橋通二丁目の山城屋左兵衛殿にて。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・今日の記事は本が届く喜びに満ち溢れています。出版物が溢れかえっている現代では、なかなかこのような本の入手の喜びを味わうことができにくくなっているのかもしれません。
・『大同類聚方』(だいどうるいじゅほう)は、平安時代初期の大同3年(808年)に成立した日本最古の医学書。三中は2か月前に知り合いの医師にこの書物のことを尋ねているので(文政12年11月7日条)、この後大同類聚方が欲しくて仕方なくなり、江戸の本屋(日本橋通二丁目の山城屋左兵衛)で購入することを決めたのでしょう。

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〈詳訳〉
・殿様は昨年の冬から御病気が重くなられた。町方では自粛して静かに過ごしており、話し合いの上、天王様にて護摩炊きの祈願を行って、各家の亭主が参詣もした。殿様のご病気は快方に向かっておられる。いとうれし也。
・新しく出版された『大同類聚方』百巻(合巻十巻)を江戸からの飛脚、すや治右衛門が届けてくれた。喜びて手の舞い足の踏ふむを知らない。急いでうがいをし、手を洗って身を清め、三拝九拝して一通り目を通す。代金は金二分二朱。日本橋通二丁目の山城屋左兵衛殿にて。
http://codh.rois.ac.jp/edomi/shopping/entity/900
・安食(現かすみがうら市安食)の塙への借金の返済金を持っていってもらうのを高砂屋に頼む。堅魚節(かつおぶし)を5本ずつ添えて贈る。熊野節(熊野地域で製造された鰹節)は379文で手に入れました。
・下男が15日に宿へ行ったが、まだ帰ってきていない。
・大平から年始の贈り物として墨1つが届いた。
・13日から川口(現土浦市川口)前通りにてしがら直し。

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文政13年1月19日(1830年)晴
利兵衛殿が東在(東ルート)の行商から戻った。売掛先が多いからか、回収の進捗は宜しくない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
東在(東ルート)の行商に行っていた叔父の利兵衛が土浦に戻ってきました。三中が2週間かけていくのを、1週間も行かずに戻ってきておるのですから、売掛金回収の進捗が良いわけはありません。

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文政13年1月20日(1830年)
三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

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千葉地裁が一審の大審院判決 明治28年発生の窃盗未遂事件

2025年01月20日 | 大審院判決
千葉地裁が一審の大審院判決 明治28年発生の窃盗未遂事件

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(はじめに)
・この判決は大審院明治28年7月8日判決(大審院刑事判決録1輯1巻101頁)の現代語訳を試みたものです。原文は現代語訳の下にあります。
・本件は、明治28年3月30日の午後、地曳方で入浴していた被告人が、被害者の衣類を窃取しようとして未遂に終わったという事件のようです。被告人は一審千葉地裁木更津支部で重禁錮4ヶ月、監視6ヶ月の刑を言い渡されています。二審東京控訴院も一審の判決を是認した為、被告人が大審院に上告したものですが、大審院は、被告人の主張は上告理由とならないとして上告を棄却しています。
・本件窃盗未遂事件が起きたのは、明治28年3月30日ですが、第二審の東京控訴院判決は同年6月15日言渡し、大審院判決は同年7月8日です。事件発生から3カ月半も経たないうちに、最上級審である大審院の判決が出ており、現代では考えられないスピードです。
・本判決は、日本研究のための歴史情報裁判例データベース(明治・大正編)に登載されています。
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窃盜未遂の件
大審院刑事判決録(刑録)1輯1巻101頁
明治28年 第852号
明治28年7月8日 宣告
◎判決要旨
判決書に住所、身分、職業の誤記があっても、人違いとならない以上は、瑕瑾とはならない。

第一審 千葉地方裁判所木更津支部
第二審 東京控訴院

被告人 矢島陽三郎
━━━━
窃盗未遂被告事件につき、千葉地方裁判所木更津支部は被告に重禁錮4ヶ月、監視6ヶ月の刑を言い渡した。被告が控訴をし、明治28年6月15日、東京控訴院は被告の控訴を棄却した。これに対し、被告は不服を申し立て上告した。
大審院において刑事訴訟法第283条の手続に従い、次のように判断する。
━━━━
(上告趣意第一点について)
上告趣意の要旨の第一点は、次のとおりである。
本件は、明治28年3月30日の午後、地曳初五郎方で入浴していた被告が、誤って山田文之助の衣類に手を触れたため、口論となり、山田はそれを私怨として抱き、不実な告訴を行った結果、今回の事態となった。告訴が不実であるのは、事件発生が3月30日であるのに、窃盗未遂の届出は20日以上も経過した4月22日に行われたこと、さらに地曳キンの始末書と、山田文之助が第一審の法廷で述べた内容とが矛盾していることからも明らかである。

〈大審院の判断〉
しかし、これは原審(控訴院)の職権である事実認定に対して不服を訴えているに過ぎないのであり、適法な上告理由にあたらない。
━━━━
(上告趣意第二点について)
上告趣意の第二点の要旨は、次のとおりである。
第一審の判決謄本には被告の住所として「千葉県市原町五井町」と記載されているが、被告は市原町の住民ではない。そもそも千葉県に『市原町』という町は存在しない。これは事実の誤りに基づく不当な判決である。
また、被告は矢島徳三郎の次男であり、回漕業(海運業)を営んでいると第一審から述べているのに、「平民 農 矢島陽三郎」と戸主であるかのように記載されており、これも事実の誤りに基づく不法な判決である。

〈大審院の判断〉
前段については、第一審判決、ことに判決謄本対する不服であり、上告の理由にはあたらない。
後段も、原審の専権である事実認定に属する問題についての主張である。
また、判決に住所や身分、職業を記載するのは、本人確認のためである。たとえ回漕業を農業と誤記したとしても、人違いでない以上、この瑕瑾は破棄事由とするには不十分である。また、戸主か否かということも、刑法上これを区別する必要はないため、明示する必要自体ない。
━━━━
(上告趣意第三点について)
上告趣意の第三点の要旨は、次のとおりである。
原判決の証拠として列挙された中に、地曳キンの始末書というものがあるが、これがどの官庁で受理され、本案断罪証拠として使用されたのか、また参考として用いられたのか、その区分が明記されていないのであるから、証拠列記の法に反し、判決を破棄すべき理由がある不法な裁判である。

〈大審院の判断〉
刑事訴訟法において、証拠列記の法則といったものは存在しない。刑の言い渡しを行うのに、裁判所が事実認定に依拠した証拠及び徴憑を明示することが求められているだけである。よって、どの官庁で受理されたか、証拠として用いられたか、あるいは参考にされたかといった区分を示す必要はない。したがって、原判決は不法ではない。」
━━━━
(上告趣意第四点について)
上告趣意の第四点の要旨は、次のとおりである。
第一審の判決書の法律の適用を見ると、「犯行時、16歳以上20歳未満であるため、同法81条により本刑を一等減じ」とあるが、どの範囲で主文のように4か月の重禁錮に処したのか、その理由が不明である。軽減して処罰する以上は、その軽減の範囲が何か月以上何年以下であるかを明示しなければならず、これを明示しないことは理由の欠如にあたり、刑事訴訟法第269条第9号に該当の破棄理由がある。

〈大審院の判断〉
上告は第二審の判決の不法に対してできるものであり、第一審の判決に対して行うことはできない。したがって、この主張は上告の理由にあたらない。
━━━━
(弁明書第一点及び第二点について)
弁明書の第一点の要旨は、次のとおりである。
上告人が窃盗被告事件として木更津警察署に引致され、一度の訊問もなく、検事の発した拘留状により拘留され、その翌日である23日になって初めて検事の取り調べを受けた。検事が発行した勾留状には刑事訴訟法第75条に基づき勾留すると規定記載されており、検事はいかなる場合でも、被告に対して一応の訊問を行い、禁錮刑に相当すると思料した場合でなければ勾留することができない。しかし、第一審の検事は上告人に対して一度も訊問を行わず刑事訴訟法第75条を適用している。これは不法な処分であり破棄理由となる。

弁明書の第二点の要旨は、次のとおりである。
前述のように検事の拘留状によって在監となっているのに、松大路判事が同一事件について重ねて勾留状(上告第二号証)を発した。さらに在監中の者に対する勾留状は刑事訴訟法第84条に基づき、執行吏を通じて送達されるべきであるのに、巡査石川晃にそれを行わせたは不法な処分であり、これも破棄理由となる。

〈大審院の判断〉
上告とは二審の判決の不法に対してできるものであることは、前項でも述べたとおりである。検事や第一審判事による勾留状発付手続きに不適切な点があったとしても、第二審判決そのものには何ら関係がない。よって、本論旨も上告理由にはあたらない。
━━━━
〈結語〉
以上の理由に基づき、刑事訴訟法第285条に従って本件上告を棄却する。

明治28年7月8日、大審院第一刑事部公廷において、検事岩田武儀の立会いのもとで宣告。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〈原文〉
窃盜未遂ノ件
大審院刑事判決録(刑録)1輯1巻101頁
明治二十八年第八五二號
明治二十八年七月八日宣告
◎判决要旨
判决書ニ住所身分職業ノ誤記アルモ人違ニアラサル以上ハ瑕瑾トナラス

第一審 千葉地方裁判所木更津支部
第二審 東京控訴院

被告人 矢島陽三郎

右竊盜未遂被告事件ノ控訴ニ付明治二十八年六月十五日東京控訴院ニ於テ千葉地方裁判所木更津支部カ被告ヲ重禁錮四月監視六月二處スト言渡シタル判决ヲ相當トシ被告ノ控訴ヲ棄却シタル判决ニ服セス被告ハ上告ヲ爲シタリ
大審院ニ於テ刑事訴訟法第二百八十三條ノ式ヲ履行シ審判スル左ノ如シ
上告趣意ノ要旨第一ハ本件ノ事實ハ明治二十八年三月三十日午後地曳初五郎方ニ於テ入浴ノ際被告ハ誤テ山田文之助ノ衣類ニ手ヲ觸レタルヨリ爭論ヲ生シ彼レハ之ヲ私憤ニ含ミ遂ニ不實ノ告訴ヲ爲シタル結果斯クノ塲合ニ至リシナリ而シテ其不實ノ告訴ナル事ハ現ニ三月三十日ニ起リシ事ナルニ盜難未遂届ハ二十有余日ヲ經過シタル四月二十二日ヲ以テ届出テタル事及地曳キンノ始末書ト山田文之助カ第一審公廷ニ於ル陳述ト反對スル所ニヨリ知ルニ足ルヘシト云フニアリテ◎原院ノ職權ニ存スル事實認定ニ對シ不服ヲ訴フルニ過キスシテ上告適法ノ理由ナシ
同第二ノ要ハ第一審判决謄本ニ被告ノ住所ヲ千葉縣市原町五井町ト記載シアリ然ルニ被告ハ市原町ノ人ニアラサルノミナラス千葉縣ニ市原町ト稱スル町所ハ之アルコトナシ即チ事實ヲ誤リタル不當ノ判决ナリ殊ニ被告ハ矢島徳三郎ノ次男ニシテ回漕業ナリトハ一審以來申立ル所ナルニ拘ハラス平民農矢島陽三郎ト一戸主ノ如ク記載セシハ實ニ事實ヲ誤リタル不法ノ判决ナリト云フニアリテ◎其前段ハ第一審判决殊ニ謄本ニ對スル不服ナレハ固ヨリ上告ノ理由トナラス其後段モ原院ノ事實ノ判斷ニ屬スルノミナラス其住所身分職業ヲ記載スルノ要ハ其人違ナキヲ保スルカ爲メナレハ良シ回漕業ヲ農ト誤リタリトスルモ其人違ヒニアラサル以上ハ此瑕瑾ハ未タ以テ破毀ノ原由ト爲スニ足ラス又其戸主ナリヤ非戸主ナリヤ否ヤノ如キハ刑法上之ヲ區別スルノ要ナキカ故ニ其之ヲ明示スルノ要ナシトス
同第三ノ要旨ハ原判决證憑列記中地曳キンノ始末書ナルモノアルモ右ハ何レノ廳ニ於テ受理シ本案斷罪ノ證據ニ供セシヤ參考ニ供セシヤ之カ區分ノ明記ナキハ證據列記法ニ背キ破毀ノ原由アル不法ノ裁判ナリト云フニアレトモ◎刑事訴訟法中證據列記ノ法則ナルモノ存スルニアラス只刑ノ言渡ヲ爲スニ裁判所カ因リテ其事實ヲ認メタル證據及ヒ徴憑ヲ明示スルヲ以テ足レリトスルカ故ニ其何レノ廳ニ於テ受理セシヤ證據又ハ參考ニ供セシヤ否ヤ等之カ區分ヲ示スヲ要セス隨テ原判决ハ不法ニアラス
同第四ハ本案第一審ノ判决書ニ於ル法律適用ヲ閲スルニ「犯時十六歳以上二十歳未滿ナルヲ以テ同法八十一條ニ依リ本刑ニ一等ヲ減シ」トアルモ其如何ナル範圍ニ於テ主文ノ如キ四月ノ重禁錮ニ處シタルヤ其理由ヲ知ルニ由ナシ苟クモ輕減シテ處斷スルニハ其輕減シテ何月以上何年以下ノ範圍ニ於テ云云ト明示セサルハ即チ理由ノ缺點ニシテ刑事訴訟法第二百六十九條第九ニ該當スル破毀ノ原由アルモノナリト云フニアレトモ◎上告ハ第二審判决ノ不法ニ對シ之ヲ爲スコトヲ得ルモノニシテ第一審判决ニ對シ爲スコトヲ得サルカ故ニ本論旨ハ固ヨリ上告ノ理由トナラス』同辯明書第一ノ要ハ上告人ハ窃盜被告事件トシテ木更津警察署ニ引致セラレ一回ノ訊問モナク檢事ノ發シタル拘留状ニヨリ拘留セラレ而シテ其翌二十三日ニ至リ始メテ檢事ノ訊問ヲ受ケタリ其檢事ノ發シタル勾留状ニハ刑事訴訟法第七十五條ニ依リ勾留ストアリ抑モ該法條ニ依レハ檢事ハ如何ナル塲合ト雖トモ被告ニ對シ一應ノ訊問ヲ爲シ禁錮ノ刑ニ該ルヘシト思量シタル時ニアラサレハ勾留スル能ハサルハ勿論ナルヘシ然ルニ第一審檢事カ上告人ニ對シ一應ノ訊問ナクシテ刑事訴訟法第七十五條ヲ適用シタルハ不法ノ處分ニシテ破毀ノ原由アルモノナリト其第二ハ右ノ如ク檢事ノ拘留状ニ依リ在監ノ身ナルニ拘ハラス松大路判事ハ同一ノ事件ニ對シ重テ勾留状(上告第二號證)ヲ發シ殊ニ在監人ニ發スル勾留状ハ刑事訴訟法第八十四條ニ基キ必ス執達吏ヲシテ送達セシムヘキニ不法ニモ巡査石川晃ヲシテ之ヲ取扱ハシメタルハ不法ノ處分ニシテ是亦破毀ノ原由アルモノナリト云フニアレトモ◎上告ノ何タルコトハ前項ノ説明ニ依リ了解スルヲ得ヘク而シテ檢事又ハ第一審判事ノ勾留状發付手續上不適式ノコトアリトスルモ第二審判决其物ニハ何等ノ關係ヲ有セサルヲ以テ本論旨モ亦上告ノ理由トナラス
右ノ理由ナルニ付刑事訴訟法第二百八十五條ニ從ヒ本件上告ヲ棄却ス
明治二十八年七月八日大審院第一刑事部公廷ニ於テ檢事岩田武儀立會宣告ス


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渡辺暢判事〜明治・大正期の千葉ゆかりの裁判官

2025年01月15日 | 歴史を振り返る
渡辺暢判事〜明治・大正期の千葉ゆかりの裁判官

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(千葉地方裁判所所長を務めた渡辺暢判事)
渡辺暢は千葉地方裁判所にて所長を務めていた判事です。
松風散史編『千葉繁昌記』(明治28年)には、明治27年9月5日時点の千葉地方裁判所判事リストが掲載されています。
従六位 所長判事 渡辺 暢
正七位 部長判事 横田秀雄
正七位勲六等判事 宮地美成
正七位判事 坂口直
從七位判事太田拡
従七位判事 大熊米太郎
正八位判事 平野正富
正八位判事 上松操
渡辺暢は所長判事 として、千葉地裁のトップを務めていました。当時の千葉地方裁判所は新築されたばかりで、威容を誇っていたようです。
「地方裁判所は千葉町吾妻町三丁目にあり、区裁判所は同じ敷地内にあって、庁舎は互いに連絡している。昨年新築されたもので、法廷や会議室、事務室ともに立派で、関東でも一番と評されている。」(同書)。
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(初期の千葉の感化院への関与)
渡辺暢判事は、千葉での感化院(現在の児童自立支援施設)の活動に関与しています。

千葉感化院は明治19年11月28日に開所しましたが、明治24年に資金面の都合などから組織改変を行うこととなりました。運営母体は「感化院慈善会」の新会則の改正起草委員三名の一人に、渡辺暢判事が着いています(過去記事「千葉感化院」)。
因みに、他の二人は両名とも千葉の弁護士会に所属していた弁護士です(岩崎直諒、宇佐美佑申)。
「感化院慈善会」の前身である「千葉感化慈善会」の本会長には当時の千葉県知事(船越衛)が着いていますから、渡辺暢判事が感化院の活動に関与していたのも、千葉地方裁判所所長としてのものであったと思われます。
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(渡辺暢判事の経歴)
渡辺暢判事の経歴は以下のとおりです(大正4年時点の『人事興信録』データベース)。
《千葉県士族渡辺佐兵衛の長男。
安政5年(1858年)4月8日生。
明治9年(1876年)に法学徒となり、明治17年(1884年)に司法省法学校を卒業し、法律学士の称号を得て判事補となる。
翌明治18年(1885年)判事となり、従七位に叙せられる。千葉重罪裁判所勤務、同地方裁判所部長、東京控訴院判事、千葉、仙台、横浜、東京各地方裁判所長などの役職を歴任。明治41年(1908年)2月には韓国政府に招かれて大審院長となり、明治42年(1909年)11月には統監府判事に任命され、明治43年(1910年)朝鮮総督府判事。大正4(1915)年1月時点では朝鮮高等法院長を務めていた。》

『人事興信録』データベースは大正4年時点ですので、渡辺暢が朝鮮高等法院長であったことまでの記載となっていますが、ウィキペディアには、判事定年後の経歴として、「1924年(大正13年)1月2日、貴族院勅選議員に選任され、死去するまで在任した。」とあります。

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(東山千栄子の回想)
この渡辺暢判事、女優東山千栄子の父親です。東山千栄子は、『女優の運命 日経ビジネス人文庫 私の履歴書 映画・演劇1』において当時のことを回想しております。当時の裁判官の生活等が分かる貴重なものといえます。
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(東山千栄子による渡辺暢の千葉地裁所長時代)
東山千栄子は千葉で生まれ育った時のことを次のように回想しています(前掲書)。
「千葉で生まれた私は、父の転勤にしたがって、仙台、横浜と移り住みました。
千葉市で住んでいましたのは、もとは庄屋の屋敷だったという、土蔵がいくつかあ るような大きな構えで、その裏手はすぐ海岸になっていました。
土地がら、私たち兄弟の遊び仲間は、近所の漁師や農家の子供たちばかりで、私もいっしょになって、まっくろになって遊びまわりました。あのあたりの海は遠浅でしたので、貝をとって遊んだり、海にはいって泳いだり、小舟に乗ったりして遊びまし た。また、すぐ上が兄でしたから、男の子たちといっしょに竹馬に乗ったり、とんぼ釣りをしたり・・・・・・女の子のくせに、私はずいぶんおてんばでした。母にかくれて、兄たちといっしょに、駄菓子屋へ通ったことも覚えております。」

東山千栄子は1890年(明治23年)生まれです。回想では「千葉市で住んでいました」とありますが、正確にはまだ千葉「町」です(千葉市の市制施行は1921年(大正10年))。
渡辺判事一家が住んでいたのは、元庄屋の屋敷で、土蔵がいくつかあるような大きな構えをしており、その裏手はすぐ海岸になっていたところとのことです。渡辺暢は当時千葉地裁所長の職にあったことから、所長官舎だったのでしょう。具体的な場所はわかりませんが、海が近いということから、裁判所からは少し離れたところであると思われます。


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(東山千栄子による渡辺暢の仙台地裁所長時代)
渡辺暢判事は千葉地方裁判所所長から仙台地方裁判所所長に転任となります。

「学齢がきて、師範の付属小学校に入学しましたが、そこは一学期だけで父の転任のため仙台市に移りました。」(東山千栄子前掲書)
「師範の付属小学校」というのは、千葉師範学校の付属小学校のことで、現在の千葉大学教育学部附属小学校です(同校の歴史が同校ホームページに述べられています)。
明治20年代には学校は4月入学になっていたので、夏には渡辺判事は仙台地方裁判所所長に転任となったようです。

東山千栄子は仙台の冬についての思い出を語っています。渡辺暢判事もこの仙台の寒さを体験したのでしょう。
「仙台の冬は、私にとってはじめての冬らしい冬だったので、寒い記憶が残っています。雪は降り積もり、道は凍ってつるつるすべるので、通学するのにも、よほど注意して歩かないと、すてんと転んでしまうのです。そのかわりに、割った竹をげたの台 につけた代用スケートを、子供たちははきました。私も、たちまちそれで学校へ往復 し、すべったりして遊べるようになりました。
寒いものですから、学校へ持ってゆくお弁当も、お弁当箱に詰めたのではいざ食べるときには凍りついて、ふたがあかなくなったりするのです。ですから子供たちは、芯に焼いた塩ざけをいれたお握りのまわりを焼いてもらい、それを渋紙につつんで、 ふところにいれたり、背中にしょったりして雪のなかを喜んで通学したものでした。 大きな、ひとつのお握りのほかほかしたあたたかさがなつかしく思い出されます。」(東山千栄子前掲書)
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(東山千栄子による渡辺暢の横浜地裁所長時代)

渡辺暢判事の仙台地方裁判所所長在任は1年にも満たない期間であったようです。
「しかし、春を迎えるころには、また父の任地が横浜市に変わりました。私は戸部小学校に転校し、掃部山に近い伊勢町の官舎で暮らすことになりました。」
「高台になっているこの一画には、知事さんをはじめとして県庁の人たち、裁判所や警察の人たちのための官舎が二筋の通りに秩序よく整然と並んでおりました。観艦式の夜、この官舎からながめた満艦飾の港の美しい灯を忘れられません。」(東山千栄子前掲書)

横浜地裁所長に転任した渡辺暢判事一家は、「伊勢町の官舎」で暮らすことになりました。「伊勢町」は現在の横浜市西区伊勢町で、京急線戸部駅の南側の高台に広がる街です。掃部山は、「昔、明治初期の鉄道敷設に携わった鉄道技師の官舎が建てられていた他、地下から湧く水を蒸気機関車の給水に利用していたことから鉄道山と呼ばれていました。」とのことであり、「その後、横浜開港に貢献した井伊直弼の記念碑を建てる際に、井伊家の所有に」なったとあるので(横浜市ホームページ)、鉄道技師の官舎の後、井伊家が買い取るまでに裁判所の官舎などがあったものと思われます。

横浜は現代よりも異国情緒たっぷりの土地柄でした。
「横浜は、貿易港として直接外国につながっているため、そのころからずいぶんハイカラな街でした。まだ東京にはなかったアイスクリームもありましたし、チョコレー トやバナナなど、珍しいおいしいものがいろいろ売られておりました。また南京街にゆけば、中華まんじゅうもおいしゅうございました。 海岸の高台は居留地と呼ばれて、各国の領事館や貿易商の屋敷などが立ち並んでお りました。美しい洋服を着た若い夫人たちが、はでなパラソルをかざして、かわいら しい子供を連れてテニス・コートのあたりに集まったり、中国人のアマさんが、青い 目をしたお人形のような赤ちゃんを乳母車に乗せて散歩していたり、十字架の立ち並ぶ、段々になった外人墓地があったり・・・・・・異国情緒満点でした。」(東山千栄子前掲書)

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(横浜地裁所長は舞踏会にも出席)
横浜地裁所長当時、渡辺暢判事は舞踏会に招待され出席しています。横浜という土地柄なのでしょう。

「父は舞踏会に招かれ、あのかわいらしい舞踏会の手帳をよくおみやげに持って帰ってくれました。もちろん父はダンスはできなかったのでしょう、お相手のお名前など は書き込んでありませんでした。そういうのは、あちらこちらの領事館などの場合だったのでしょうが、中国人の富豪にお呼ばれしたときには、はでな色彩の、いかにも 中国風の絹に、毛筆でりっぱに書かれたメニューをいただいて来たりいたしました。」(東山千栄子前掲書)
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(まとめ)
判事の経歴や事績はともかく、どのような暮らしをしていたのかは記録に残りにくいものですが、渡辺暢判事の場合はその子東山千栄子の回想により、当時の生活を垣間見ることができました。東山千栄子は、この後他家に養子となり、渡辺家の回想は以上となります。
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安部遜 弁護士〜明治・大正期の千葉県の弁護士

2025年01月15日 | 歴史を振り返る
(はじめに)
『千葉県弁護士会史』(千葉県弁護士会編)には、明治28年時点の千葉県内の弁護士の一覧を掲載していますが、これは『千葉繁昌記』の記載を写したものに過ぎず、各弁護士がどのような人物であったのかについてら触れていません。ここでは明治・大正期の千葉期の弁護士をできるだけ紹介していきます。
今回は「安部遜」弁護士です。

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(大正十年「千葉案内」での安部遜弁護士)
安部遜弁護士は大正期には、千葉弁護士会に所属していました。
「千葉案内」(大正十年七月調査「千葉市実測図」の裏面)には、その名が見えます(もっとも、本文では「阿部遜」と誤記されています)。
「千葉案内」には、
弁護士 安部遜
事務所
千葉市裁判所裏門通り 電話三七五番
木更津町裁判所前 電話五八番
との広告も掲載されており、事務所を千葉市と木更津市に置いていたことがわかります。
この時代は、弁護士事務所は複数の事務所をもつことが禁止されておらず、安倍弁護士も二つの事務所をもっていたようです。
なお、現行の弁護士法では「弁護士は、いかなる名義をもつてしても、二箇以上の法律事務所を設けることができない」(弁護士法人では可)と規定されており、複数事務所は禁止されています。
━━━━
(安部遜弁護士の事務所の場所)
安部遜弁護士の事務所の位置は、いずれも裁判所の近くです。住所を書かなくても「千葉市裁判所裏門通り」といえば、分かるような時代だったようです。
弁護士は現代でも裁判所付近に事務所を置くことが多いですが、既に大正期にはそのような弁護士がいたことが分かります。
━━━━
(安部遜弁護士の活動時期)
安部遜弁護士は、大審院判決録中、8つの判決にその名が見えます。うち4件が民事事件、4件が刑事事件ですから、熱心に刑事事件に取り組んでいたといえるのではないでしょうか。
同判決録中でもっとも早く安倍弁護士の名が見えるのは、大審院明治29年5月25日判決(大審院刑事判決録2輯5巻79頁)です。
明治20年代後半には弁護士として活動していたことが分かります。
もっとも、明治28年発行の『千葉繁昌記』にはその名が見えません。もっとも、『千葉繁昌記』は当時の千葉町の弁護士を掲載したものなので、千葉町以外で事務所を置いていた可能性はあります。
大審院判決録で安倍弁護士の名が最後に見えるのは、大正8年6月23日判決です。
最初の方で紹介したように大正10年には千葉と木更津に事務所を置いていたことが分かっていますが、その後についてはわかりません。
なお、大正10年の千葉市の様子は「千葉案内」には次のように記載されており、千葉市の活気ある様子が伝わってきます。
「現在、戸数は6600戸余、人口は32,000人に達し、さらに毎年発展の傾向を示している。大正10年1月1日には市制が施行され、千葉町は千葉市と改称された。文化も急速に発展し、市の勢いは新しいエネルギーに満ちており、昔日の千葉よりも優れた都市となったのである。」
━━━━
(村上一博論文)
ここまで調べましたら、安部遜弁護士について村上一博先生が書いている論文があることを知りました。
村上一博「明治法律学校出身の代言人群像(その2)」(法律論叢 70 巻4号)
内容は以下のとおりです。

安部遜[福岡県士族](明治15年10月卒、免許:東京)
講法学舎を経て、明治14年創立された明治法律学校に学ぶ(第一回卒業生、『明法雑誌』1号、『駿台新報』369号)。明治15年1月に、東京において代言免許を取得。17年および20年『姓名録」では千葉始審裁判所木更津支庁所属(後者では会長)、26年『弁護士録』では千葉弁護士会に所属、35年末現在も千葉県木更津町在住の弁護士とある(『千葉県弁護士会史』には安部の名は見出されない)。死亡年月日は不明である。

明治法律学校の第一回卒業生であり、明治15年に代言免許を取得しています。代言規則が制定され、代言免許制度ができたのが明治9年ですから、比較的早い時期に免許を取得したことになります。
千葉ではなく木更津に事務所を置いていたのですね。どうりで『千葉繁昌記』に名前が見えないはずです。『千葉繁昌記』は当時の千葉町の弁護士を掲載したものなので、千葉町以外の弁護士の名前が掲載されないのは当然です。
村上先生論文では明治35年まで言及されていますが、先述したように大正10年には千葉市でも事務所を置いていたので、この間に木更津だけでなく、千葉にも事務所を置いたようです。

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千葉地裁が一審の大審院判決 明治28年発生の謀殺事件

2025年01月13日 | 大審院判決
千葉地裁が一審の大審院判決 明治28年発生の謀殺事件
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(はじめに)
・大審院明治29年5月25日判決(大審院刑事判決録2輯5巻79頁)の現代語訳を試みたものです。原文は現代語訳の下にあります。
・東京控訴院(原裁判所)では以下のとおりの判決でした。
被告吉兵衛:謀殺教唆⇒無期徒刑
被告又五郎:謀殺⇒死刑
被告源七:謀殺幇助⇒無期徒刑
被告人ら(現代では「被告人」ですが、この判決では「被告」と呼ばれています)は大審院に上告しましたが、上告は棄却。東京控訴院の判決が確定しています。
・時系列
殺人事件が起きた日:明治28年1月21日。第一審千葉地裁の判決:不明
第二審の東京控訴院判決:明治29年4月20日言渡し。
大審院判決:同年5月25日
控訴院判決から大審院判決まで1ヶ月強しか経っておらず、ものすごいスピードです。
・本判決は、日本研究のための歴史情報裁判例データベース(明治・大正編)に登載されています。
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謀殺ノ件
大審院明治29年5月25日判決・明治29年第523号
大審院刑事判決録(刑録)2輯5巻79頁
◎判決要旨
「初更」とは、十二支の戌の刻を指す。

第一審:千葉地方裁判所
第二審:東京控訴院

被告人 苅込吉兵衛 正司又五郎 正司源七 
辯護人 磯部四郎 岡崎正也 安部遜 的塲平次


右吉兵衛ほか2名の謀殺被告事件について、明治29年4月20日に東京控訴院で、千葉地方裁判所の判決に対する被告たちの控訴を審理した。控訴院は、「原裁判所は、被告吉兵衛は謀殺教唆、又五郎は謀殺、源七は謀殺幇助の罪を犯したと認め、又五郎に死刑、吉兵衛と源七には無期徒刑を言い渡したことは妥当である」とし、控訴を棄却した。
この第二審の判決を不当として、被告3名は上告した。検事はこれに答弁せず、刑事訴訟法第283条に基づいて手続きを進めた。吉兵衛及び源七の弁護士磯辺四郎、岡崎正也、安部遜並びに又五郎の弁護士的場平次の弁論が行われ、検事の応当融の意見も聴いた上で、次のように判決する。
━━━━
(被告吉兵衛上告趣意書の要旨)
被告吉兵衛上告趣意書の要旨は以下のとおりである。
原裁判所は、「被告吉兵衛が明治28年1月15日に徳太郎あてに書面を送り、道義的な責任感から石高橋家の争いを円満に調停しようとした。しかし、それがうまくいかなかったため、吉兵衛は怒り、徳太郎を殺害するしかないと思うに至った。吉兵衛は又五郎に会い、密かにその本心を打ち明け、徳太郎を殺害すれば、又五郎の借金はすべて帳消しにしてやると言って、徳太郎を殺害することを教唆した。」と判断した。
しかし、一件記録によると、被告吉兵衛が徳太郎に書面を送った後も、示談交渉は順調に進んでおり、関係者から不満が出たことはない。示談書だけでなく、訴訟取下書についても、関係者全員が署名済みであった。徳太郎に対する損害賠償も、実行されようとしていたが、関係者の一人である大野平が出すべき金額の都合がつかなかったので、翌月2日に実行が延期されただけであった。ことに原審が事実認定証拠として列挙した証拠の中には、被告が1月20日以降に又五郎と会ったということ証拠は見当たらない。これは証拠に基づかず、架空に事實を確定した不法の裁判であって、違法である。

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(被告源七の上告趣意書の要旨)
被告源七の上告趣意書の要旨は以下のとおりである。
原裁判所は、「同月21日朝、源七は徳太郎から、借主清水のために、証人中後源衛に対する貸金示談の件について話し合いをし、最終的にその結果がまとまったこと、同日昼過ぎに湊町の數馬伊勢屋こと佐藤巳之助宅で再会することを約束したことを話した。源七は又五郎に対して、同夜、徳太郎が伊勢屋から湊に向かって帰る予定であることを知らせたこと等により、又五郎が犯罪を実行しやすくした」として、源七が又五郎の犯罪行為を容易にしたと判示した。
しかし、一件記録によれば、源七は1月20日の朝に村を出て、その夜は徳太郎の家に泊まり、21日の夜まで村に戻らなかったことが明らかである。また、その間、出先で又五郎に会ったり、使いを送ったりした事実も一切ない。さらに、原裁判所が引用した証拠には、20日に村を出た後、源七が又五郎と会合したり、他の方法で情報を伝え合ったという痕跡は全くないにもかかわらず、原裁判所は源七が又五郎に情報を申告し、示し合わせたと判決しました。
これは証拠に基づかず、架空に事實を確定した不法の裁判である。
━━━━
(大審院の判断)
しかし、これらはいずれも原判決の専権である証拠の取捨・事実の認定に対して批難するものに過ぎず、適法な上告理由にあたらない。

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(被告又五郎の上告要旨第一)
被告又五郎の上告要旨の第一点は、被告又五郎には予謀の事実はなく、殺人の意思もない。被害者高橋徳太郎が湊町数馬伊勢屋から帰る途中、被告又五郎にぶつかり、さらに不正な暴行を加えたため、挑発に駆られて持っていた凶器で徳太郎を刺し、結果として死亡させたものである。以前被告が自白したのは、共同被告の濡れ衣を晴らそうとした意図によるものであり、右原院がこの自白を以て謀殺と認定したのは違法である、というものである。
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(大審院の判断)
しかし、これも事実認定の批判にすぎない。

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(被告又五郎の上告要旨の第二)
被告又五郎の上告理由の第二点は以下のとおりである。
仮に、被告又五郎が苅込吉兵衛に教唆されたとしても、被告又五郎がすぐに謀殺を決意したとは言えない。原裁判所は、「被告の父親である源七が犯罪に便宜を与えた」と論じているが、親子関係から推測するに、このような推定は不当であり、直ちに被告が謀殺の意思を持っていたと断定することはできない。被告又五郎は、突然不正な暴行を受けたので、その為急に怒りを爆発させ、持っていた刀で斬りつけ、結果として被害者を死に至らしめたものである。故殺として第194条を適用すべきであったのに、原裁判所が第292条を適用したのは法令の適用の誤りである。
━━━━
(大審院の判断)
原審が認定した事実に適用した法律は正当であり、上告の論旨は、原審が認定した事実を誤りとして論じ、法の適用に誤りがあったと主張しているに過ぎない。したがって、適法な上告理由にあたらない。
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(被告吉兵衛・源七の弁護士磯部四郎・岡崎正也の上告拡張書要旨の第一点及び第二点)
◯被告吉兵衛・源七の弁護士磯部四郎・岡崎正也の上告拡張書要旨の第一点。
本件被告人らに対する予審請求書(明治28年2月25日付)を見ると、その公訴を受けた被告人は「庄司源七ほか二名」とあるに過ぎず、上告人吉兵衛に対して公訴を提起した旨の記載はない。したがって、上告人吉兵衛に対しては適法な公訴が提起されておらず、本件公訴は成立していない。よって、原裁判所において有罪の判決が下されたのは違法である。
なお、この予審請求書の欄外に「ほか二名は庄司又五郎、苅込吉平」と記入されているが、この記入には認印がない。よって、この記入は刑事訴訟法第21条に違反しており無効である。
もっとも、本文以外の余白が刑事訴訟法第21条にいう「欄外」に該当するか否かについては議論があるが、刑事訴訟法上、書類の用紙は必ずしも罫紙に限るという規定はなく、また「欄外」とは必ずしも本文の上下に限られるものではない。

◯被告吉兵衛・源七の弁護士磯部四郎・岡崎正也の上告拡張書要旨の第二点。
上告拡張書要旨第二点は、前述したとおり、本件の正犯者である庄司又五郎に対して適法な公訴が提起されていないのであるから、正犯者に対して公訴が成立していない以上、その行為を容易にしたとされる従犯者である源七に対する原判決も、当然に破棄すべきであるというのである。

━━━━
(大審院の判断)
本件記録によると、予審判事の請求により現場に出向いたところ、警部が仮予審に取り掛かっていたので、すぐにその引き継ぎを受け、現行犯事件であることから検証調書を作成したものである。したがって、刑事訴訟法第143条の規定に従って調書をし、その上で公訴が受理されたことになる。したがって、仮に上告論旨のいうように、予審請求書に不完全な点があったとしても、本件の公訴の受理・不受理には全く影響しない。よって、第一および第二の論旨ともに、適法な上告理由にはあたらない。


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◯被告吉兵衛・源七の弁護士磯部四郎・岡崎正也の上告拡張書要旨の第三点。

原裁判所では、鑑定人である山崎周太郎の鑑定書が本件における判決の証拠として使用されているが、同鑑定書は、本件の被告人たちに対する起訴が成立する以前に作成されたものであり、かつ、刑事訴訟法第121条に基づく鑑定人と被告人との間に同法第123条に定める利害関係があるかどうかを尋問し、宣誓させる手続きが取られていなかったのであるから、違法に成立したものというべきである。
原裁判所では、同鑑定書は上記の点に関して違法でないというが、鑑定の時間を詳記しておらず、刑事訴訟法に違反しており、違法性を免れることはできない。それにもかかわらず、原裁判所がこの違法な鑑定書を本件の証拠として採用したのは違法である。
また、この鑑定書の作成以外にも、「殺人被告人氏名不詳」と記載された「予審請求書」と題する書類があり、起訴の対象となる被告人が誰であるかを明らかにしていない以上、起訴が適法に成立する理由はない。

━━━━
(大審院の判断)
・本件公訴が受理されたのには理由あり、既に述べたとおりであるから改めて説示しない。
・現行犯の場合には、書面での人物の特定は必要でないため、氏名不詳と記載することは違法ではない。
・氏名不詳者という記載であっても、宣誓が行われていれば、宣誓がない鑑定書だとはいえない。
・鑑定書の中で鑑定を行った時間を詳しく記載させるのは、主に費用の基準を定めるためである。したがって、時間が記載されていない鑑定書であっても、その効力が変わることはない。
・なお、本件の鑑定書には「明治28年1月22日午後1時40分から同日午後4時まで」と時間が明記されている。

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◯被告吉兵衛・源七の弁護士磯部四郎・岡崎正也の上告拡張書要旨の第四点。

原判決は、「源七は伊勢屋と源衛宅との間を何度も行き来し、徳太郎を初更後に帰宅させて、又五郎の犯罪を容易ならしめた」と判示しているが、「同夜9時頃、徳太郎はその場に到着したため、又五郎は持っていた刀で突然徳太郎の背後から切りつけた」とも判示している。つまり、初更(10時)後に帰宅させたはずの徳太郎を、その夜9時に襲撃したと認定しており、理由に齟齬がある。
━━━━
(大審院の判断)
初更とは十二支の「戌の時」にあたり、当時の午後8時頃に相当する。したがって、原判決文中に最初に「初更」云々と記し、その後「同夜9時頃に待ち伏せした」と判示されていても、理由に齟齬があるとは言えない。
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◯被告又五郎の弁護士的場平次の上告理由の拡張要旨

原判決は、証拠の表示の箇所で「右の事実は被告三名その他佐藤巳之輔、高梨晴治、齋藤織江、福本浅七、三枝信に対する各予審調書に基づき、証拠として十分である」と判示しているが、これらの人々が証人として引用されたのか、参考人として引用されたのか、原判決は明確にしていない。

本件は、殺人犯という最も重大な犯罪が問われており、死刑が宣告されている事件である。原裁判所が引用している証拠において、証人なのか参考人なのか一目でわからないようなことは、このような重大事件であってはならず、刑事訴訟法第203条に違反していると言わざるを得ない。仮に、佐藤巳之輔ら数名が証人として引用したのであれば、原判決は不法な証拠を採用して断罪の用に供したと言わざるを得ない。

証人は刑事訴訟法第121条に従って、氏名、年齢、職業、住所を訊問した後で、第123条に記載されているものかどうかを質問し、同条に抵触しないことを確認した上で宣誓をさせ、偽証罪の罰についても説明してから訊問しなければならない。しかしながら、本件における佐藤巳之輔らの調書を見ると、いずれもまず氏名、年齢、職業、住所を尋ねた後に「庄司源七外二名の被告事件について証人となる資格を聴了し、宣誓をさせた」とだけ書かれている。このような簡単な文言だけでは、証人としての資格の有無を確認したことは分かるが、その資格があるかどうかは明らかではない。これを明確にしないまま宣誓をさせ、訊問を行った証人は、刑事訴訟法第121条に反する違法な手続きによって尋問されたものであり、この違法な手続きによって得られた証言を証拠として採用するのは不法である。

━━━━
(大審院の判断)
◎佐藤巳之輔、高梨晴治、斎藤織江、福本浅七、三枝信が証人か参考人かという点については、それぞれの調書を見れば明らかであり、原判決の文中に証人や参考人と明記していなくても違法ではない。また、同人ら(三枝信を除く)の調書の冒頭に「庄司源七外二名の被告事件について証人となる資格を聴了し、宣誓をさせた」と記載されていることについて、上告論旨の通り、その「聴了」という言葉は簡略ではあるが、証人としての資格を訊問し、抵触しないことを認めた上で宣誓をさせたという趣旨であることが認められる。したがって、上告論旨のいう違法はない。

以上の理由により、刑事訴訟法第285条の規定に基づき、本案上告を棄却する。

明治29年5月25日、大審院第二刑事部の公廷において宣告。検事応当融立会い。


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〈原文〉
謀殺ノ件
大審院刑事判決録(刑録)2輯5巻79頁
明治二十九年第五二三號
明治二十九年五月二十五日宣告
◎判决要旨
初更トハ十二支ノ戍ノ時ヲ云フ

第一審 千葉地方裁判所
第二審 東京控訴院

被告人 苅込吉兵衛 正司又五郎 正司源七 
辯護人 磯部四郎 岡崎正也 安部遜 的塲平次

右吉兵衛外二名カ謀殺被告事件ニ付明治二十九年四月二十日東京控訴院ニ於テ千葉地方裁判所ノ判决ニ對スル被告共ヨリノ控訴ヲ審理シ原裁判所カ被告吉兵衛ハ謀殺教唆又五郎ハ謀殺源七ハ謀殺幇助ノ罪ヲ犯シタルモノト認メ又五郎ヲ死刑ニ吉兵衛源七ヲ無期徒刑ニ處ス云々ト言渡シタルハ相當ニ付本件控訴ハ之ヲ棄却スト判决シタル第二審ノ裁判ヲ不法ナリトシ被告三名ハ上告ヲ爲シ對手人原院檢事ハ之ニ答辯セス因テ刑事訴訟法第二百八十三條ノ定式ヲ履行シ被告吉兵衛源七ノ辯護士磯部四郎岡崎正也安部遜被告又五郎ノ辯護士的塲平次ノ辯論立會檢事應當融ノ意見ヲ聽キ判决スルコト左ノ如シ

被告吉兵衛上告趣意書ノ要旨原裁判所ニ於テハ「被告カ明治二十八年一月十五日書面ヲ徳太郎ニ送リ責ムルニ徳義ヲ以テシテ石高橋家ノ紛議ヲ圓滑ニ調停シ滿足ノ結果ヲ得ントシタルモ是レ亦充分ニ其効ヲ奏セサリシヲ以テ吉兵衛ハ愈々憤慨ニ堪ヘス寧ロ徳太郎ヲ殺害スルニ如カスト决意シ云々被告又五郎ニ面會シタル際私カニ其眞情ヲ吐露シ若シ徳太郎ヲ殺害シタルナレハ又五郎ノ負債ハ悉ク償却シ遣スヘシトテ徳太郎ヲ殺害センコトヲ教唆シタルヨリ云々」ト判决セラレタリ然ルニ一件記録ニ於テ被告吉兵衛カ右書面ヲ徳太郎ニ送リタル後示談ハ益々進行シツヽアリテ關係人間ニ其實行ニ對シ不滿ヲ生シタル事蹟アルコトナク示談契約書ハ勿論訴訟取下書面ニ至ルマテ各關係人間ノ連署濟ニテ現ニ徳太郎被害ノ常日總テ結了濟ニ至ル處關係人中大野平ノ出金スヘキ金額ノ一部纒ラサリシカ爲メ其實行ヲ翌月二日ニ延期シタルモノナリ殊ニ原院カ本件事實ノ證憑トシテ列擧セラレタル各證據中ニ於テ被告カ一月二十日後ニアリテ又五郎ト面會シタリトノコトハ毫モ見ルヘキ點ナシ依テ原判决ハ判文形式上ニ於テハ右證憑トシテ數點ノ書類ヲ記載セラレタレトモ其實證憑ニ基カスシテ架空ニ事實ヲ確定セラレタル不法ヲ免レスト云ヒ」
被告源七ノ上告要旨ハ原裁判所ニ於テハ「同月二十一日朝源七ハ徳太郎ヨリ借主清水タメ證人中後源衛ニ對スル貸金示談ノ件ニ付徳太郎ト談話ノ末相分ルヽニ當リ同日書過キ湊町數馬伊勢屋事佐藤巳之助方ニ於テ再會スルコトヲ約シ又一方ニ於テハ又五郎ニ同夜伊勢屋ヨリ湊ニ向テ徳太郎ノ歸ルヘキコトヲ申告ケ云々以テ又五郎ノ犯罪ヲ容易ナラシメタリ」ト判决セラレタリ然ルニ一件記録ヲ見ルニ被告源七ハ一月二十日朝居村ヲ出テ同夜ハ徳太郎方ニ同宿シ其後二十一日夜マテハ居村ニ皈リタルコトナク又出先キニ於テ又五郎ニ出會若シクハ使ノ往復ヲ爲シタルコトナキハ明カナリ殊ニ原裁判所ニ於テ本件ノ證據トシテ引用セラレタル各證據ニ於テハ一トシテ被告人カ二十日右村ヲ立出テタル後又五郎ト會合シタルコト若クハ其他ノ方法ヲ以テ申告ケ示合セタリトノコトハ見ルヘキ端緒タモナキニ拘ラス前掲ノ如ク判决セラレタルハ證憑ニ基カスシテ架空ニ事實ヲ確定セラレタル不法ノ裁判ナリト云フニアレトモ
◎右原院ノ職權ニ特任セル證憑ノ取捨事實ノ認定ニ對シ徒ラニ批難ヲ試ムルモノニ過キサルヲ以テ何レモ上告適法ノ理由ナシ

被告又五郎ノ上告要旨ノ第一點被告又五郎ノ所爲ハ豫謀ノ事實ナク又殺人ノ意思モナク被害者高橋徳太郎カ湊町數馬伊勢屋ヨリ皈途被告又五郎ニ衝突シ剩サヘ不正ノ暴行ヲ加ヘタルヲ以テ挑發ニ乘シ携ヘタル凶器ヲ以テ徳太郎ニ切付タル結果遂ニ死ニ致シタルモノニシテ曩キニ被告カ自白シタルハ共同被告ノ無實ノ寃罪ヲ購ハンカ爲メノ意思ニ外ナラス原院カ之ヲ以テ謀殺トシタルハ違法ナリト云フニアリテ
◎是亦事實認定ノ批難ニ外ナラス』

第二點假リニ原院ノ認ムル事實ノ如ク苅込吉兵衛ニ教唆サレタリトスルモ被告ハ直チニ謀殺ノ决意ヲナシタリト云フヘカラス原院ハ父源七カ非行ヲ咎メスシテ犯罪ニ便宜ヲ與ヘタリト論スルモ親子間ノ關係ヨリ想像スレハ此ノ如キ推定ハ不當ニシテ之ヲ以テ直ニ被告ニ謀殺ノ意思アリト斷定スルヲ得ス全ク被告ハ出會シ不正ノ暴行ヲ受ケタル爲メ急ニ怒ヲ發シ携ヘタル刀ヲ以テ切付ケ遂ニ死ニ至ラシメタルモノニシテ故殺ヲ以テ論シ第百九十四條ヲ適用スヘキニ原院カ第二百九十二條ヲ適用シタルハ擬律ノ錯誤ナリト云フニアレトモ
◎原院カ認メタル事實ニ對シ適用シタル法律ハ相當ニシテ上告論旨ハ要スルニ原院ノ認メタル事實ヲ然ラスト論シ以テ擬律ニ錯誤アリト云フニ外ナラサレハ上告適法ノ理由ナシ

被告吉兵衛源七ノ辯護士磯部四郎岡崎正也ノ上告擴張書要旨ノ第一點本件被告人等ニ對スル豫審請求書(明治二十八年二月二十五日付)ヲ見ルニ其公訴ヲ受ケタル被告人ハ庄司源七外二名トアルニ過キサレハ上告人吉兵衛ニ對シ果シテ公訴ヲ提起シタル旨ノ記載アルナシ依テ上告人ニ對シテハ適法ナル公訴ノ提起ナキヲ以テ本件公訴ハ不成立ナルニ原院ニ於テ有罪ノ判决ヲ言渡サレタルハ不法ナリトス但右豫審請求書ノ本文以外ノ條目即チ欄外ニ於テ「外二名ハ庄司又五郎苅込吉平」ト記入シアトモ此記入ニ對シ認印アルナシ依テ該記入ハ刑事訴訟法第二十一條ニ違背セル不法アルヲ以テ其効ナキヤ論ヲ俟タス尤右本文以外ノ餘白ハ刑事訴訟法第二十一條ノ所謂欄外ニ該ルヤ否ニ付論議ナキヲ保セサルモ刑事訴訟法書類ノ用紙ハ必スシモ罫紙ニ限ルトノ明文ナク又欄外トハ必スシモ本文面ノ上下ニ限ルヘキモノニアラサルハ是亦論ヲ竢タサル處トス』第二點前項記載ノ如ク本件正犯者タル庄司又五郎ニ對シテモ適法ノ公訴提起アルナシ而シテ正犯者ニ對シ公訴成立セサル以上ハ其所爲ヲ容易ナラシメタリトノ從犯者タル源七ニ對スル原判决モ亦當然破毀ノ原由アリト信スト云フニアレトモ◎本件記録ニ依ルニ豫審判事ノ請求ニ依リ現塲ニ出張シタル處己ニ警部ニ於テ假豫審ニ着手シ居リタルヲ以テ直ニ其引繼ヲ受ケ現行犯事件ナルニ付檢證調書ヲ作リタルモノナレハ刑事訴訟法第百四十三條ノ規定ニ依リ其調書ヲ作リタルヲ以テ公訴ヲ受理シタルモノナルコトハ勿論ナリトス故ニ假令上告論旨ノ如ク豫審請求書ニ不完全ノ點アリトスルモ本件公訴ノ受理不受理ニ毫モ影響ヲ及ホスヘキモノニアラサルヲ以テ第一第二論旨共上告適法ノ理由ナシ』第三點原裁判所ニ於テハ鑑定人山崎周太郎ノ鑑定書ヲ以テ本件斷罪ノ證據ニ供セラレタルモ右鑑定書ハ本件被告人等ニ對スル公訴ノ成立以前ノ成立ニ係ルモノニシテ且又刑事訴訟法第百二十一條ニ基キ鑑定人ト被告人トノ間ニ於テ同法第百二十三條ノ關係アルヤニ付テ訊問ヲ爲シ宣誓セシメタル手續ナキヲ以テ素ヨリ不法ノ成立ニ係ルモノトス加之該鑑定書ハ右ノ點ニ付不法ナシトスルモ鑑定ノ時間ヲ詳記セサルヲ以テ刑事訴訟法ニ違背セル不法ヲ免レサルモノトス然ルニ原裁判所カ右不法ノ鑑定書ヲ本件ノ證據ニ採用シタルハ不法ナリトス右鑑定書調製以外ニ於テ殺人被告人氏名不詳ト記載シ豫審請求書ト題スル書類アルヲ以テ或ハ被告人氏名不詳トシテ公訴事件成立シタリトノ論ナキヲ保セスト雖トモ公訴ノ目的物タル被告人ノ何人タルヤヲ詳カニセサル以上ハ其被告人ノ在否生死等ヲ知ルニ由ナキヲ以テ被告人ノ氏名ヲ詳ニセスシテ公訴ノ適法ニ成立スヘキ理由ナシト云フニアレトモ◎本論旨中本件公訴ノ受理セラレタル理由ハ前項ニ辯明セシ如クナルヲ以テ更ニ説示セス又現行犯ノ塲合ニ在テハ一定ノ人アルヲ要セサルヲ以テ氏名不詳ト記スルモ違法ニ非ス又氏名不詳者ト記シ宣誓セシメアレハ宣誓ナキ鑑定書ナリト云フヲ得ス又鑑定書中鑑定ヲ爲シタル時間ヲ詳記セシムルハ主トシテ費用額ノ標準ヲ定ムルカ爲メナリ故ニ其記載ナキ鑑定書ト雖トモ其効力ニ増減アルコトナシ况ンヤ該鑑定書ニ時間ハ明治二十八年一月二十二日午後一時四十分ヨリ同日午後四時ニ至ルト明記シアルニ於テヲヤ』第四點原判决ヲ見ルニ「源七ハ伊勢屋ト源衛宅トノ間ニ屡々往來シ徳太郎ヲ初更後歸途ニ就カシメ以テ又五郎ノ犯罪ヲ容易ナラシメタリ云々」ト示シ乍ラ「同夜九時頃徳太郎其塲ニ至リタルヲ以テ又五郎ハ右刀ヲ以テ突然徳太郎ノ背後ヨリ斬付ケ云々」トアリ即チ初更(十時)後歸途ニ就カシメ置キナカラ同夜九時頃之ヲ要撃シタリト謂フニアリテ理由ニ齟齬アル不法ノ判决ナリト云フニ在レトモ◎初更ハ十二支ノ戍ノ時ニシテ凡ソ當時ノ八時ニ當ルヲ以テ原判文中初メニ初更云々ト記シ後ニ同夜九時頃之ヲ要撃シト判示シタレハトテ理由ニ齟齬アリト云フヲ得ス
被告又五郎ノ辯護士的塲平次ノ上告擴張ノ要旨原判决ハ其採證ノ部ニ於テ「右事實ハ被告三名
其他佐藤巳之輔高梨晴治齋藤織江福本淺七三枝信ニ對スル各豫審調書云々ニ徴シ證憑十分ナリトアリテ同人等ハ證人トシテノ引用ナルヤ參考人トシテノ引用ナルヤ原判决ハ明白ナラス
抑本件ハ犯罪中最重大ナル殺人犯ニシテ死刑ノ宣告ヲ受ケ居ルモノナリ此ノ如キ重犯ヲ處斷スルニ原院カ引用スル證據ノ證人タルヤ參考人ナルヤ一目瞭然セサル如キハ刑事訴訟法第二百三條ノ背反ヲ免レス假リニ數歩ヲ讓リ佐藤巳之輔外數名ハ證人トシテノ引用ナリトセハ原判决ハ不法ノ證據ヲ採リテ斷罪ノ用ニ供シタルモノト云ハサルヘカラス抑證人ハ刑事訴訟法第百廿一條ニ從ヒ氏名年齡職業住所ヲ訊問シタル後第百廿三條ニ記載シタルモノナリヤ否ヲ問ヒタル上同條ニ抵觸セサルコトヲ明カニナシ初メテ宣誓セシメ僞證ノ罰ヲ論示シ訊問セサル可ラス然ルニ本件佐藤巳之輔等ノ調書ヲ見ルニ皆同一ニ其初メニ氏名年齡職業住所ヲ問ヒタル後「庄司源七外二名被告事件ニ付證人トナルヘキ資格ヲ聽了シ宣誓セシメタリ」トアリ此簡單ナル文詞ニテハ證人ノ資格アルヤ否ヤヲ聽キタルコトハ事實ナルモ其資格アルヤ否ハ明白ナラス之ヲ明白ニセスシテ宣誓セシメ訊問シタル證人ハ即チ刑事訴訟法第百二十一條ニ背反シタル不法ノ手續ニシテ此不法ノ手續ニ依リ訊問シタル證言ヲ證據トシテ採用シタルハ不法ナリト云フニ在レトモ◎佐藤巳之輔高梨晴治齋藤織江福本淺七三枝信ノ證人ナルヤ將タ參考人ナルヤノ點ハ各自ノ調書ニ徴スレハ明カナルニ依リ原判文ニ證人參考人ト明記セサルモ違法ニアラス又同人等(三枝信ハ除ク)調書ノ冐頭ニ庄司源七外二名被告事件ニ付證人トナルヘキ資格ヲ聽了シ宣誓セシメタリト記載シアルコトハ上告論旨ノ如クニシテ其聽了ノ二字ハ單簡ナリト雖トモ證人タルノ資格ヲ訊問シ其抵觸ナキヲ認メタル上宣誓セシメタルノ意義ナルコトハ認メ得ヘキニ依リ上告論旨ノ如キ違法アルコトナシ
以上ノ理由ナルニ依リ刑事訴訟法第二百八十五條ノ規定ニ則リ本案上告ハ之ヲ棄却ス
明治二十九年五月二十五日大審院第二刑事部公廷ニ於テ檢事應當融立會宣告ス



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文政13年1月上旬・色川三中「家事志」

2025年01月09日 | 色川三中
文政13年1月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政13年正月朔(1日)(1830年)
天気晴和、式如例年(例年のとおり式を行う)
#色川三中 #家事志
(コメント)
あけましておめでとうございます。
天気は晴れ渡り、いつもどおりの年始を迎えました。
年が明け、色川三中「家事志」の中では文政13年となり、三中も30歳(数え)。年末年始は体調を崩すことも多いのですが(一昨年は体調を崩していました)、今年はどうなりますか。


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文政13年1月2日(1830年)
三中先生本日は休筆です(明日まで)
#色川三中 #家事志
(コメント)
年が始まって2日目ですが、休筆です。新年早々体調を崩しましたかね。

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文政13年1月3日(1830年)
三中先生本日は休筆です(明日再開)
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日に引き続いての休筆です。昨年末までに町年寄を辞めたり、「ひものや」との件を解決したりといろいろとありました。もともと持病持ちで体が丈夫ではないので、年始を迎えて気が緩んだのでしょう。

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文政13年1月4日(1830年)晴
嘉兵衛は南在(南ルート)へ、茂吉は近在(近場ルート)へ売掛金の回収に出かけた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
例年、正月4日からは三中自らが行商に行くのですが、やはり体調を崩しているようです。売掛金の回収を従業員に行かせています。回収先は医者なので、営業を兼ねて三中自らが顔を出したいところですが、体調がそれを許さないのでしょう。

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文政13年1月5日(1830年)
三中先生本日は休筆です(明後日再開)
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日短い記事を書いたのですが、本日はまた休筆。こういうときはゆっくり体を休めるほかありません。
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文政13年1月6日(1830年)
三中先生本日は休筆です(明日には再開)
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日も休筆です。今年記事が書かれたのは1日と4日だけです。三中の体調が回復すると良いのですが。

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文政13年1月7日(1830年) 晴
・弟の金次郎は与兵衛を連れて、西在(西ルート)に売掛金回収に出かけた。嘉兵衛は北在(北ルート)に売掛金回収に行った。
・正月三日から持病のために例年の行商に今年は行けず。病気もようやく快方に向かってはいる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の体調は快方に向かっているものの、本調子からはほど遠く、売掛金の回収は弟と従業員に任せざるをえない状況です。

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〈詳訳〉
・弟の金次郎は与兵衛を連れて、西在(西ルート)に売掛金回収に出かけた。嘉兵衛は北在(北ルート)に売掛金回収に行った。
・正月三日から持病のためにいつもの行商に今年は行けず、例年どおりにできなかった。病気もようやく快方に向かってはいる。様々なことは略す。
・夜になって、高津の茂八の娘「いさ」が来た。茂八という男は、太兵衛の養子となった者だが、昨年中、ことわりもなく家屋敷を売り払った不埒者である。しかし、愚か者に強く言い過ぎると、代々続いてきた家を失うおそれがある(逆ギレされる)。だから言うのは止めた。
←(コメント)高津の茂八は、2年前は餅つきにきてくれて楽しい時を過ごしたのですが(文政10年12月27日条)、昨年に不埒な行為をしたため、三中の評価は厳しくなっています。


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文政13年1月8日(1830年)
三中先生本日は休筆です(明日まで)
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日は相応に長い記事を書いた三中ですが、本日はまた休筆となってしまいました。

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文政13年1月9日(1830年)
三中先生本日は休筆です(明日には再開)
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日も休筆です。今年記事が書かれたのは1日、4日、7日だけです。明日からの復活に期待したいです。

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文政13年1月10日(1830年)
・小山大町のこんにゃく屋から、質入れした田地を6両2分で請け戻した。叔父の利兵衛に対応を依頼した。
・元締めの土浦藩士大久保一郎兵衛様と藤井縫右衛門様にご挨拶をした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
こんにゃく屋さんからの借金を完済し、質地請戻しをしています。年始から弟らに売掛金回収に動いてもらった成果でしょう。こんにゃくやからは、昨年の行商中にお金を借りていたようです(文政12年1月19日条)。

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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第11回講義

2025年01月06日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第11回講義
第11回講義(明治18年5月29日)

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前回に引き続いて、告訴が必要な事件について説明していきます。

第二 幼者を略取・誘拐する罪

幼者の略取・誘拐罪は、脅迫罪と同様、被害者側からの告訴がなければ公訴を提起することができません。
略取・誘拐罪は、刑法第341条以下に規定されています。「略取」とは、有形力を使って幼者を連れ去ること、「誘拐」とは、欺罔の手段によって幼者を連れ去ることをいいます。「幼者」には、12歳以下の者と12歳以上20歳以下の者とが区別されており、また、男女も区別されています。
━━
(略取誘拐罪の性質)
幼者の略取・誘拐罪に告訴が必要な理由について検討するには、この犯罪の性質をみる必要があります。
略取や誘拐の被害者は女子が多く、男子は非常に稀です。もっとも、刑法には、単に「幼者」とだけ規定されていて、男女の別は明記されていないため、被害者が男子でも略取誘拐罪となります。
同罪の目的は、幼者を保護することにあります。幼者はまだ知識も体力も十分には備わっておらず、心身ともに未熟であるため、特に法律の保護が必要な存在とされています。世の中には悪漢や凶悪な者が多く、どのような不幸な事態に遭遇するかも予測できません。そのため、法律は幼者を保護する必要があるとしたのです。

また、幼者には必ず監督者がいます。略取や誘拐する者はの他人の監督権をも侵害することになります。
たとえば、幼い子どもが通学中に略取されたり、だまされて連れ去られたとします。この行為は、監督者である父母の権利を侵害するものです。したがって、略取・誘拐を罰する目的は、第一に幼者を保護すること、第二に幼者を監督する父母やその親族などの権利を侵害する者を罰することにあります。
━━
(略取誘拐罪が告訴を必要とする理由)
このような略取誘拐罪の性質からすると、この犯罪は他人の身体と権利を侵害するものであり、これを罰するのは国家の安全を守るためといえるでしょう。そうであれば、個人の意向によって訴えが左右されてしまうのは問題だとも思えます。被害者やその親族からの告訴があって初めて公訴を提起できると定めているのは、不思議に思われるのではないでしょうか。

略取誘拐の被害に遭うのはほとんどが女性であり、男性がその対象になることは極めて稀です。
女性に対する略取や誘拐は、多くの場合、淫事に関わることが多いので、被害者や親族の告訴を待たずに検察官が直ちに公訴を起こすと、その淫事が世間に公開され、結果として被害者の名誉を損なうおそれがあります。そこで、立法者は、被害者または親族の告訴を待つべきものとしたのです。
━━
(他国の立法例)
ドイツ刑法においても、略取誘拐の罪については被害者または親族の告訴を必要とするものとされていますが、被害者が女性の場合に限られており、男性の場合は告訴は不要です。
フランス刑法では、略取誘拐を受けた女性がその略取者と婚姻した場合、その婚姻を取り消さない限り、略取の罪を訴えることはできないと規定しています。
ローマ法では、略取誘拐をもって強姦の罪があるとみなしています。

このように、略取誘拐は多くの場合女性に関わるものであり、その女性を保護する精神から刑法に制裁を設けているものが多いのです。

日本の刑法も同じ考えです。もっとも、刑法の条文には「幼者」とのみ記され、性別の区別はしていないので、日本では、被害者が男性であれ女性であれ告訴を要することになります。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第三章 猥褻および姦淫の罪
(猥褻および姦淫の罪が告訴を必要とする理由)
猥褻および姦淫の罪は被害者の名誉を傷つけるため、犯罪にあったことを隠して公に訴えようとしないことが多いのです。検察官が摘発できるとすると、人を保護するための法律がかえって人の名誉を損なうおそれがあります。そのため、被害者の告訴を待つべきものと規定されたのです。
━━
(すべての姦罪に告訴を要することは妥当か)
本邦の刑法ではすべての姦罪に告訴を要するのですが、問題もあります。
たとえば、強姦罪は、名誉を損なうというよりは、身体に対する犯罪と考えるべきです。それにもかかわらず、告訴がなければ罪に問えないとするならば、警察官の目の前で強姦罪を目撃しても不問に付さざるを得ないことになってしまいます。このようなことでは、女性が安心して暮らせないでしょう。強姦罪には告訴は不要ではないでしょうか。
すべての姦罪に告訴を要すると規定しているのは、現実に適していないように私は考えます。
━━
(強盗強姦罪に告訴は必要か)
刑法第381条には「強盗、婦女を強姦したる者は、無期徒刑に処す」と規定していますが、告訴がなくても、検察官は強姦罪を起訴することができるでしょうか。
私がかつて検事をしておりましたときに、このようなケースに少なからず遭遇しました。

一般的にいって、法律で例外事項を規定する場合は、例外事項は明記しているものに限り、例外を拡大適用しないのが原則です。
刑法第381条には、第350条を適用すべきとは規定されておらず、明文がない以上、第381条の場合に第350条を適用することはできない、つまり、告訴がなくてもその罪を問うことができると考えるべきです。
強姦は社会の風紀を乱し、秩序を乱すものであり、重刑に処すべきです。脅迫して財物を奪い、それでもなお満足せずに欲望をむき出しにするという大悪を犯しているのですから、これを不問に付すとすれば、かなりの弊害を生みます。
このように、条文と道理の両面からから、強盗強姦罪に、告訴は不要と考えるべきです。

しかし、単に強盗罪のみを取り調べ、強姦罪についてはまったく取り調べを行わずに裁判所へ送致しているのが現状です。この点については、諸君に大いに注意を促したいと思うところです。

━━
(強姦致死傷罪について)
強姦致死傷罪についても同様の問題があります。
刑法第351条には、「前数条に記載された罪を犯し、よって人を死傷に致したる者は、殴打創傷の各本条に照らし、重きに従って処断す」とあり、その但書には「強姦によって廃篤疾に致したる者は有期徒刑に処し、死に致したる者は無期徒刑に処す」と規定されています。

強姦罪のみであれば告訴が必要ですが、もしその行為によって人を死傷させたときには、告訴は不要です。道理上もそのように考えられますし、第351条の「前数条に記載された罪を犯し、よって人を死傷に致したる」という規定が、第350条よりも後に規定されていることからも明らかです。このように考えなければ、強姦によって死亡させた場合でも第351条により殴打や創傷(傷害)に規定されている重懲役刑の刑が上限ということになってしまいます。
第351条但書には「死に致したる者は無期徒刑に処す」と規定しており、同じ罪に対して、告訴がない場合には重懲役、告訴がある場合には無期徒刑というのは不均衡です。
強姦致死傷罪は一罪であり、分離すべきものではありません。刑法第351条を第350条の後に置いたのは、第351条の場合には告訴を必要としないことを明示するためです。

━━
(姦通罪での告訴の効力及びその趣旨)
次に、姦通罪についてです。
刑法第353条第2項但書には「本夫、先に姦通を従容したる者は、告訴の効なし」と規定されています。
世間には利を計る等の事情から、妻に他人と密かに関係を持たせるような夫が少なからず存在します。この場合、夫はすでに自らの権利を放棄していますから、姦罪での告訴を認めるべきではありません。この訴えを許すとすると、社会の風紀を乱し、弊害を招くでしょう。
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(姦通を従容した場合の効力)
ところで、「先に姦通を従容したる者は、告訴の効なし」と規定されているのは、従容した姦通に限られるのか、それとも妻が犯す姦罪全体に適用されるものなのかという問題があります。言い換えれば、一度姦通を従容した場合、他の姦夫に対する姦罪についても告訴の権利を失うべきか否かですが、同条は従容した特定の姦夫にのみ適用されるべきものであり、他の姦夫に関する事件には適用されるべきではないと考えるべきです。
同条を他の姦夫に対する事件にも適用すると、数年前に姦通を従容したという理由で、数年後の姦罪も訴えることができなくなってしまいます。このような結果は、夫の権利を著しく害することになりますので、同条が本来予定するものとは考えられません。

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(離婚した場合の告訴の権利の有無)
婚姻を解消した後に、夫婦であった時の姦罪を訴えることができるでしょうか。

このような問題が生じるのは、我が国の婚姻法が不完全であるからだと思われます。現行の婚姻法は非常に簡素で、町村の役所に入籍の届けを出すだけで婚姻が成立し、離婚も同様です。

離婚後の告訴が無効だとする論者は、「法律には『本夫』とあるが、すでに離婚した者はもはや本夫ではなく他人である。したがって、他人となった者には訴える権利はない」と主張しています。

しかし、私はこの考えには賛成できません。この論者の主張は、法文の解釈を誤っています。一度離婚したとしても、前夫や前妻であったという身分が消滅するわけではありません。甲男が乙女が私通し、その後乙女が丙男の妻となったとしましょう。この場合、丙が婚姻前の姦罪を訴えることができるかといえば、反対論者でさえこれを訴える権利はないと言わざるを得ないはずです。丙が訴える権利を持たないのは、姦通当時に夫婦関係がなかったためです。

これに対して、姦通を訴える場合は、告訴時点で本夫の身分を持っていないとしても、姦通が結婚していた時に行われたものであるならば、訴える権利を行使することに何の支障もありません。

姦罪は単に一個人に対する罪ではなく、社会の秩序や風紀を害する最も甚だしいものです。姦罪は社会の秩序や風紀を維持するために設けられているものであるため、結婚時に行われた姦罪は、告訴時点で本夫の身分ではないとしても、告訴可能と考えるべきです。
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第四 誹毀罪

この犯罪は一個人の名誉を害するものであるため、それを訴えるか否かは被害者の自由に任されます。検察官が被害者の意に反してこれを公訴すると、国民の権利を保護すべき法律がかえって害を与える結果を招くことになりかねません。したがって、被害者の告訴を待ってその罪を処罰するものと定めたのです。
このような扱いはヨーロッパでは一般的です。
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第五 牛馬等の家畜を殺す罪

この犯罪が告訴を必要とするのは、他に深い理由があるわけではなく、単に被害者がこれを訴えなければ社会に害がないものと見なされるにすぎません。被害者が告訴をした場合には、ある程度の公益に害があると推定するのです。

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第六 罵詈・嘲弄の罪
この犯罪が告訴を必要とする理由は、誹毀罪における理由と同じです。
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(刑法以外の法律における告訴)
刑法以外の他の法律でも、告訴を要するものがあります。新聞条令、商標条令、専売条令など等です。これらの犯罪は、概して公益を害するよりも、むしろ一個人の権利を害するものです。そのため、告訴がなければ、法律上被害者がいないものとみなされます。これが、告訴を待ってその罪を論じるべきものと定めた理由です。

以上で、告訴を待って受理すべき事件についての説明を終わります。次回からは、告訴以外の公訴の停止について説明します。
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文政12年12月下旬・色川三中「家事志」

2025年01月02日 | 色川三中
文政12年12月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政12年12月21日(1829年)晴
土浦藩の御奉行様お二人に町年寄退任のご挨拶。
上物
上菓子 一折ずつ。代銀三匁程
東崎の名主、町年寄へも挨拶。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の町年寄の退任は12月4日に正式に認められていますが、今日は奉行への挨拶。円満な退任であることが対外的にも示されたことになります。三中も大きな課題を乗り越えることができ、ホッとしたことでしょう。

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〈詳訳〉
・伊勢屋の礼廻り。林兵衛、いせや佐兵衛、当家からは利兵衛殿、別家駿河屋からは清兵衛の合計四人で行う。
・従業員の利助は病気から回復し、ようやく復帰。
・今年は八月から病気で引籠もらざるをえなかった。先日ようやく町年寄の役目を解かれたので、親類の色川庄右衛門が御礼廻りをしていたが、今般両御奉行所様へ御礼をせよとの仰せがあったので、今日挨拶に伺った。
上物
上菓子 一折ずつ。代銀三匁程
・東崎の名主、町年寄へも挨拶をした。


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文政12年12月22日(1829年)
本日は休筆です
#色川三中 #家事志

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文政12年12月23日(1829年)曇
土浦藩から、明後日(25日)までに御用調達金の半金を拠出するようにとの仰せがあった。半金では苦しいので、願いを出し、三分の一(一両)の支払いとしていただいた。
金十八両 横田権右衛門
同金四両也 色川桂助(三中)
このうち金一両を25日までに支払う。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦藩の御用調達金というのは、御船講のことで、色川家は4両支払わなければなりません(12月8日条)。明後日までに半金(2両)支払うようにとの藩からのお達しですが、手元不如意な三中は今回は1両の支払いでまけてもらうことにしました。年末を迎えて資金繰りは苦しいようです。
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〈詳訳〉
・明後日(25日)までに藩への御用調達金を仰付けられた者は、要請のあった金額の半金を支払うようにとの仰せがあったが、願いを出し三分の一ずつ支払いをするようにしていただいた。
金十八両 横田権右衛門
同金四両也 色川桂助(三中)
このうち金一両を25日までに支払う。
・与兵衛が小白村から帰ってきた。病人は死去したとのこと。

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文政12年12月24日(1829年)晴
内田六蔵方へ書状を送った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
内田六蔵はひものや側の代理人(11月24日条)ですが、その件でしょうか。それとも別件でしょうか。今日の日記の短さでは判然としません(明日以降の記事でも関連記事がなく、結局分からないままです)。

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文政12年12月25日(1829年)雨
三中先生、本日休筆です。
#色川三中 #家事志

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文政12年12月26日(1829年)晴
体調不良で寝込む。明後日28日は餅つきの予定。
#色川三中 #家事志
(コメント)
最近の記事は短く、休筆も多いなと思ったら、体調不良です。明後日28日の餅つきのことを考えてしまっていますが、そのようなことは誰か他の者にまかせてゆっくりお休みください。

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文政12年12月27日(1829年) 晴
五頭玄中医師へ明日お会いすることができることになった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
五頭玄中医師は土浦藩の藩医です。
今日の記事も短すぎ、どのような意図での会うのかはよくわかりません。

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文政12年12月28日(1829年)
三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

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文政12年12月29日(1829年)晴
・五頭玄仲医師が贈り物を持参されてお礼に来た。酒一升贈る。
・中高津の喜兵衛に暇を出した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
五頭玄中医師との面会は昨日だったはずで(12月27日条)、その記事はありません。今日の記事は五頭玄仲医師がお礼に来たとのことなので、面会は昨日無事行われたようです。


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文政12年12月大晦日(30日)(1829年)曇
〈公儀からのお触れ〉
キリシタン宗門は以前から禁止されているにもかかわらず、上方で異法を行う者が罰せられた。今後も調査を怠らず、怪しい者は早急に報告すること。その功績に応じて褒美を与える。見聞しながら隠した者には罰を与える。
#色川三中 #家事志
(コメント)
キリシタンに関するお触れを日記に記載しています。「水野出羽守」は水野忠成(みずのただあきら)のこと。当時の老中。文政といえば幕末も近いのですが、公儀のキリシタンへの警戒心は強固であったことが、よくわかります。
「上方で異法を行う者が罰せられた」とありますが、この事件を担当したのは大塩平八郎です。
参考文献
京坂キリシタン一件と大塩平八郎 史料と考察 宮崎 ふみ子/編
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〈詳訳〉
・定番半兵衛が貸していた金二分をもってきたので、すぐに手紙を添へて他所へ返金した。
・水野出羽守殿からの書付の写し
切支丹宗門は、以前から御制禁となっているが、今度上方ではそのような宗門に入って異法を行う者がおり、厳しく罰せられた。今後もキリシタンに対する調査を油断なく行うべきこと。怪しい者がいれば、早急に報告すること。その功績に応じて褒美を与え、その者からの報復がないようにする。見聞しながら隠し、他から発覚した場合は、その者も罰を受ける。この趣旨を各人に伝えること。
十二月
以上のとおり、公儀から仰せがあったので町方に触れるものである。

以上のとおり町御奉行所から仰せ渡しがあっとので、町方にて触れるものである。役元

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