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安部遜 弁護士〜明治・大正期の千葉県の弁護士

2025年01月15日 | 歴史を振り返る
(はじめに)
『千葉県弁護士会史』(千葉県弁護士会編)には、明治28年時点の千葉県内の弁護士の一覧を掲載していますが、これは『千葉繁昌記』の記載を写したものに過ぎず、各弁護士がどのような人物であったのかについてら触れていません。ここでは明治・大正期の千葉期の弁護士をできるだけ紹介していきます。
今回は「安部遜」弁護士です。

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(大正十年「千葉案内」での安部遜弁護士)
安部遜弁護士は大正期には、千葉弁護士会に所属していました。
「千葉案内」(大正十年七月調査「千葉市実測図」の裏面)には、その名が見えます(もっとも、本文では「阿部遜」と誤記されています)。
「千葉案内」には、
弁護士 安部遜
事務所
千葉市裁判所裏門通り 電話三七五番
木更津町裁判所前 電話五八番
との広告も掲載されており、事務所を千葉市と木更津市に置いていたことがわかります。
この時代は、弁護士事務所は複数の事務所をもつことが禁止されておらず、安倍弁護士も二つの事務所をもっていたようです。
なお、現行の弁護士法では「弁護士は、いかなる名義をもつてしても、二箇以上の法律事務所を設けることができない」(弁護士法人では可)と規定されており、複数事務所は禁止されています。
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(安部遜弁護士の事務所の場所)
安部遜弁護士の事務所の位置は、いずれも裁判所の近くです。住所を書かなくても「千葉市裁判所裏門通り」といえば、分かるような時代だったようです。
弁護士は現代でも裁判所付近に事務所を置くことが多いですが、既に大正期にはそのような弁護士がいたことが分かります。
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(安部遜弁護士の活動時期)
安部遜弁護士は、大審院判決録中、8つの判決にその名が見えます。うち4件が民事事件、4件が刑事事件ですから、熱心に刑事事件に取り組んでいたといえるのではないでしょうか。
同判決録中でもっとも早く安倍弁護士の名が見えるのは、大審院明治29年5月25日判決(大審院刑事判決録2輯5巻79頁)です。
明治20年代後半には弁護士として活動していたことが分かります。
もっとも、明治28年発行の『千葉繁昌記』にはその名が見えません。もっとも、『千葉繁昌記』は当時の千葉町の弁護士を掲載したものなので、千葉町以外で事務所を置いていた可能性はあります。
大審院判決録で安倍弁護士の名が最後に見えるのは、大正8年6月23日判決です。
最初の方で紹介したように大正10年には千葉と木更津に事務所を置いていたことが分かっていますが、その後についてはわかりません。
なお、大正10年の千葉市の様子は「千葉案内」には次のように記載されており、千葉市の活気ある様子が伝わってきます。
「現在、戸数は6600戸余、人口は32,000人に達し、さらに毎年発展の傾向を示している。大正10年1月1日には市制が施行され、千葉町は千葉市と改称された。文化も急速に発展し、市の勢いは新しいエネルギーに満ちており、昔日の千葉よりも優れた都市となったのである。」
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(村上一博論文)
ここまで調べましたら、安部遜弁護士について村上一博先生が書いている論文があることを知りました。
村上一博「明治法律学校出身の代言人群像(その2)」(法律論叢 70 巻4号)
内容は以下のとおりです。

安部遜[福岡県士族](明治15年10月卒、免許:東京)
講法学舎を経て、明治14年創立された明治法律学校に学ぶ(第一回卒業生、『明法雑誌』1号、『駿台新報』369号)。明治15年1月に、東京において代言免許を取得。17年および20年『姓名録」では千葉始審裁判所木更津支庁所属(後者では会長)、26年『弁護士録』では千葉弁護士会に所属、35年末現在も千葉県木更津町在住の弁護士とある(『千葉県弁護士会史』には安部の名は見出されない)。死亡年月日は不明である。

明治法律学校の第一回卒業生であり、明治15年に代言免許を取得しています。代言規則が制定され、代言免許制度ができたのが明治9年ですから、比較的早い時期に免許を取得したことになります。
千葉ではなく木更津に事務所を置いていたのですね。どうりで『千葉繁昌記』に名前が見えないはずです。『千葉繁昌記』は当時の千葉町の弁護士を掲載したものなので、千葉町以外の弁護士の名前が掲載されないのは当然です。
村上先生論文では明治35年まで言及されていますが、先述したように大正10年には千葉市でも事務所を置いていたので、この間に木更津だけでなく、千葉にも事務所を置いたようです。

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