南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

安政2年2月中旬・大原幽学刑事裁判

2025年01月30日 | 大原幽学の刑事裁判
安政2年2月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(前回から今回の記事までの経緯)
昨年(嘉永7年・1854年)11月16日に、奉行所は大原幽学その他審理関係者に翌年2月15日まで帰村を認めました。
五郎兵衛は残務を処理し、11月21日に江戸を出立。同日で嘉永7年の記事は終わっています。
11月27日に改元となり、嘉永7年は安政元年となりました。安政元年は11月27日に始まり、12月30日までの1ヶ月強です。

安政元年12月28日、江戸では大火事がありました(江戸神田安政元年の大火)。大原幽学の拠点となっていた松枝町の借家は無事でしたが、幽学一門がお世話になっている公事宿の中では被災してしまった宿もあり、その影響が五郎兵衛日記にも記されます。
年が改まって安政2年(1855年)、五郎兵衛は居村(長沼村;現成田市長沼)を2月14日に出立し、同日から安政2年の記事が始まります。
(都合により今月は2月の記事となります)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政2年2月14日(1855年)
#五郎兵衛の日記
五つ時に長沼村を太次右衛門殿と源七殿と出発し、九つ時に大森に到着。昼食後、役所で御添翰を受け取り、八つ半頃に平右衛門殿と合流。白井まで馬で移動し、七つ半に到着。藤屋に泊まり。岡飯田村の平太郎殿と同宿した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・年末年始の帰村も終わり、江戸に向けて出立です。居村の長沼村(現成田市長沼)からは一泊二日の旅程。途中、大森(現印西市大森)に寄るのは、長沼村を領有している淀藩の御役所で御添翰という書類を受け取らなければならないからです。
・藤屋は、五郎兵衛が白井(現白井市)で泊まるときの定宿。白井宿は木下(きおろし)街道の宿場町ですが、旅籠は2軒のみ。安政期~文政期頃とされている史料には白井宿に2軒の旅籠があり、名前は藤屋と森田屋と記載されているそうです。藤屋には渡辺崋山も宿泊しています。

---
〈詳訳〉
五つ時に長沼村を太次右衛門殿と源七殿と一緒に出立。大森(現印西市大森)に九つ時に到着。昼食をとった後、御役所に行き、御添翰を受領する。
八つ半頃に大森で平右衛門殿と合流し、白井まで馬で行き、七つ半到着。白井の藤屋に泊まる。岡飯田村の平太郎殿と宿で合流。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政2年2月15日(1855年)
#五郎兵衛の日記
六つ半時白井を出立。九つ前に行徳に到着。「泡雪」で昼食。行徳から船に乗り扇橋まで。松枝町の借家に八つ時に到着。3人(平右衛門、平太郎)で湯に入り、夕食を済ませた後、平右衛門殿と一緒に蓮屋(公事宿)の火事見舞いに行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・本日は大森宿(印西市大森)を出立。行徳に着いて「泡雪」で昼食。昨年も行徳の泡雪で昼を食べています(嘉永7年1月29日条)。行徳から江戸までは船。船が着くのは扇橋(現江東区扇橋)。ここから神田松枝町までは徒歩です。
・安政元年12月28日、江戸では神田を中心に大火に見舞われました(江戸神田安政元年の大火)。公事宿も被害を受けました。大原幽学や五郎兵衛らは昨年11月下旬に江戸を後にしているので、直接は被災していません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政2年2月16日(1855年)
#五郎兵衛の日記
早朝邑楽屋(公事宿)に挨拶。その後万徳(公事宿)の仮宅を訪ね、火事見舞いに一朱渡す。万徳さんから、「当分の間、邑楽屋さんに世話になってください」との話し。
五つ時に手代の米八殿の案内で奉行所の腰掛に出頭し、着届けを提出。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学一門は、蓮屋、邑楽屋、万徳の3つの公事宿にお世話になってきました。今日の記事で万徳のみ「仮宅」とあるので、万徳の建物は12月28日の大火で焼失してしまったようです。

---
〈詳訳〉
早朝に食事を済ませ、邑楽屋(公事宿)に挨拶。その後万徳(公事宿)の仮宅のある松永町を訪ね、火事見舞いとして一朱を渡す。万徳からは、「当分の間、邑楽屋さんに世話になってください」と頼まれた。
邑楽屋に立ち寄って火事見舞いをし、五つ時に手代の米八殿の案内で奉行所の腰掛に出頭した。
(本日出頭した者)
大先生(大原幽学)
良左衛門君
伊兵衛父
又左衛門殿
上記四名の差添
治郎左衛門殿

傳蔵殿
差添 久左衛門殿
差添 平太郎殿
差添 蓮屋で差添二人頼
差添 藪様御作事一人頼み


・奉行所には四ツ時に届を済ませ、その後、淀藩の御上家敷に行ったが、足達様はお留守。淀藩の御勘定所に行き、御添翰の御届けをした。
・仮宅に戻り昼食をとった後は、松永町の万徳に袴代を持参。
・石川様のところで御門番をしている惣右衛門殿を訪ねたが外出中で不在。
・池之端仲町の住吉屋でキセルを買い、両国の伊勢屋で氷砂糖を購入、横山町東寿堂で硯と筆を買い、筒井筒で茶を購入。
・帰宅すると、惣右衛門殿が待っており、2階で打合せ。
・文平方への品物については、十日市場村の親父の方では支払う意思はないが、子供らの方では何でも元値で売り払いたいと考えているため、交渉を進めている。手間をかけずに売れるだけ売り、また、信頼できる商人がいれば、その人に任せるようにしよう。
・金子張りの鍔は送るように。その他の品物も同様に対処するように。
・夜に幽学先生と良左衛門君とで内密に荒海村家の縁談について打合せ。その後、惣右衛門殿とも話しをするとのこと。借金の状況次第で解決策が必要となりました。元の状況がよくわからないままでは、無計画に管理して財産を失うようなことになってはいけないため、しっかりと打合せすることを約束した。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政2年2月17日(1855年)
#五郎兵衛の日記
母が大病となったので急ぎ帰村する。
五つ時出立、鎌ヶ谷で昼食をとり、木下に七つ時に到着。問屋で夕食をとって、船に乗り、四つ半時に新川に到着。九つ時に長沼村に帰宅。
母の大病の看病をし、3月17日まで長沼村に滞在した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の母親が大病となり、五郎兵衛は村に戻ることに。通常一泊二日の旅程なのですが、朝早く江戸を立ち、一日で長沼村に戻っています。九つ時到着ですから、午前0時を回っており、急ぎ帰った五郎兵衛は大変だったことでしょう。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政2年2月の五郎兵衛の日記は以上です。
2月18日〜3月17日の日記の記事はなく、3月18日に再開となります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 千葉地裁が一審の大審院判決 ... | トップ | 次の記事へ »
最新の画像もっと見る