南斗屋のブログ

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自由民権家井上幹の家系

2021年09月16日 | 歴史を振り返る
(井上幹の子孫)
前回、夷隅事件に際して、井上幹家の捜索メモについて記事にしました。
この記事は、佐久間耕治著「底点の自由民権運動」(岩田書院2002年)所収の「1884年自由党夷隅事件の捜索過程ー千葉県大原町井上家文書に依拠して」をもとに書いたのですが、同論文には井上幹家の家系図も掲載されていました。
井上幹の子 井上稲直
井上稲直の子 井上達兮(たつや)
井上達兮の子 井上宏一
 同論文の執筆者佐々木耕治は、井上宏一氏の好意で井上家文書を読み続けることができたが、この論文の執筆中に宏一氏は急逝されたそうです。
 
(井上稲直)
井上稲直は、井上幹の子ですが、慶應義塾を卒業して、千葉県議会議員を務めています(同論文)。
これ以上の情報はないのですが、千葉県議会史というのが出版されていますから、そういう本を紐解くと井上稲直について何らかの情報が得られるかもしれません。

(井上達兮)
井上達兮は弁護士です。
千葉県弁護士会史(千葉県弁護士会編:1995年)にインタビューが掲載されています。インタビュー自体は1976年のものです。
これによれば、井上達兮は明治33年11月生まれ。千葉中学を卒業後、早稲田に進学。高等予科から法学部に進んで、大正14年に卒業。
卒業後、会社員となりましたが、昭和7年に高等文官試験(司法科)に合格し、昭和8年5月に第二東京弁護士会に登録しました。
当時は、司法試験というものはなく、高等文官試験という試験でした。
また、弁護士には、司法修習制度がないので、合格すればすぐに登録ができました。
昭和7年の高等文官試験に合格して、昭和8年に弁護士登録ということもできたのです。
弁護士に研修が義務付けられたのは、昭和8年の弁護士法改正で、この改正は、昭和11年4月1日に施行されています。これ以降は、高等文官試験に合格したら弁護士試補として1年半の研修が義務付けられていますが(しかもこの間無給)、これ以前は試験に合格すれば弁護士として活動できたのです。
井上達兮が弁護士となったのは、研修が義務付けられる前だったので、試験に合格した後、すぐに登録ができたのです。

(戦後)
井上達兮は、昭和19年に故郷に戻り、布施村(現いすみ市)の村長を務めています。
しかし、敗戦後公職追放を受けたようです。
井上達兮が千葉県弁護士会に登録変更したのがいつかは、はっきりしません。
昭和19年に千葉に戻ったと語っていますので、昭和19年の可能性が高いとは思いますが、今のところ裏付けがとれません。
千葉県弁護士会では戦前の資料が空襲で焼失してしまったようであり、千葉県弁護士会史にはこの点の記載がないのです。
昭和29年度及び昭和38年度には、井上達兮は弁護士会の副会長をつとめ、昭和58年3月14日にお亡くなりになっています。

(井上達兮の発言)
インタビューで、井上達兮は、「父は県会議員を少しやった程度です。父はあまり政治は好きではなかったですね。祖父井上幹は有名でしたよ。全国に先駆けた自由民権運動の提唱者でもあり、夷隅「以文会」の創始者です。『自由民権派夷隅の山村から始まった』と近代史にも書かれているくらいです。」と発言しています。



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