仕事のし過ぎで体調を崩す
文政12年4月上旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年4月朔(1日)(1829年)曇
・町奉行両名(藤井様、小幡様)にお祝いを申し上げた。町役人の栗山八兵衛殿と共に羽織袴で参上した。
・貸金の回収につき、大和や平兵衛が願書を提出した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
朔日(1日)だからでしょうか、町奉行両名にお祝いを申上げに、先輩の町役人(栗山八兵衛)と共に出向いています。
中城町の町役人
名主入江全兵衛殿
町年寄 栗山八兵衛殿
町年寄 鈴木金之丞殿
町年寄 奥井吉右衛門殿
町年寄 色川桂助殿←これが三中です
・大和や平兵衛の願書は、江戸時代の貸金回収の訴状といえるもの。三中はその写しを日記に記載してくれていますので、「付1」として訳しておきました(このブログ記事末尾に記載)
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文政12年4月2日(1829年) 晴
・茂吉、佐助が鹿島に向けて出立。
・昼前に隣主人と伊勢や新助両名が来られ、入樋一件の願書を持参されたので相談する。この件は、昨年に我ら一同で案文を作っていたが、私が今年、年寄役となってしまったので、何分にも取り計らい方が難しい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「入樋一件」というのは、一昨年(文政10年)に悪水入樋が破損してしまい、その修理費用をどう分担するかという問題です。修理工事に約60両要し、土浦藩は14両しか出さないので、残りを土浦町人と虫掛村でどう分担するかが問題となっています。
・この願書の内容⇒付3
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文政12年4月3日(1829年)晴
隣主人と新助が来て、入樋の件で願書を提出。よくよくご検討いただきたいとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の件というのは、土浦の町人(高持百姓)の負担軽減を訴えるものです。昨年は三中はフリーな立場で主張だけしていれば良かったのですが、今年は町役人となってしまったので、その立場からはバランスも取らざるを得ず、なかなか苦しい立場です。
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文政12年4月4日(1829年)晴
朝、従業員の政之助と、川原代(現龍ケ崎市川原代町)の親戚、木村源三郎方へ行く。土産は山椒餅とうちわ一本。
日帰りの予定だったが、帰りがけに細井氏宅に寄ったら、引き留められて一晩泊まることにした。政之助は土浦に帰した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井氏は川原代(現龍ヶ崎市川原代町)に住んでいる三中の風流友達。昨年3月、5月と会っていましたが、そこからはご無沙汰になっていました。
なお、三中の家から-川原代町までは片道約22 km。日帰りとなると40キロ以上の場所です。
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文政12年4月5日(1829年)風 曇
今日、川原代(現龍ケ崎市川原代町)から帰る予定だったが、足の腫物が痛むので、もう一泊させてもらう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日、土浦から川原代(現龍ケ崎市川原代町)に来た三中。日帰りの予定でしたが、親しい友人の細井氏と会って、一泊。今日土浦に戻る予定でしたが、足の腫物が痛み帰ることができなくなってしまいました。
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文政12年4月6日(1829年)曇 大南風
・足の痛みがあったが、川原代を出立し、土浦に日暮れに戻る。
・昨日の大風で江戸の芝の辺りで再び出火し、丸之内も焼けたとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・足の痛みを押して、川原代(現龍ケ崎市川原代町)から土浦(土浦市)まで帰ってきました。距離は20キロ以上あるはずで、かなり大変だったのではないでしょうか。
・江戸でまた火事。芝の辺り。旧暦4月というと、現在の5月ころでしょうが、大風に煽られての火事が発生しているのでしょう。
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文政12年4月7日〜9日(1829年)
この間、三中先生はご休筆です
←体調不良のようです
#色川三中 #家事志
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文政12年4月10日(1829年)
7日から今日まで体調不良で引きこもり。今朝、入江(名主)から相談があり、内談のためにも是非会って相談したいとのこと。明日の朝に行くこととした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
7日〜昨日(9日)まで休筆の理由は、体調不良でした。このところ日記の記載もかなり長く、町役人の仕事にかなりのめり込んでいる様子が窺えましたから、仕事のし過ぎでしょう。
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付1: 大和や平兵衛の願書(4月1日条)
貸付滞りの出入り
中城町百姓 願人 平兵衛
合計 金高 52両3分、村数: 12ケ村、人数: 28人
合計銀高 52匁2分
合計銭高 9貫311文
米高八俵
中城百姓 平兵衛
文政十二丑四月
町御奉行所様
奥印
名主 入江全兵衛
年寄 八兵衛
同 金之丞
同 吉右衛門
同 桂助←これが色川三中
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付2
指し上げ申す一札のこと
私たち組合の田兵衛が、府中(現石岡市)の御領分において中町組土橋町の百姓長兵衛という者から、盗品類を買い取ったとの疑いが生じております。
これまで何度か御吟味いただいておりますが、田兵衛は、買取った覚えはないと主張しております。
田兵衛を御吟味落着まで私たちにお預けになるとの仰せ承知致しました。よって、お請け連印し、本書面を提出致します。
大町の田兵衛組合
孫七、利兵衛、記七、与右衛門、伝蔵
文政十二年四月
町御奉行所様
前述の通り、田兵衛を組合が預る旨仰せ付けがあったので、奥印する。
奥印
名主 入江全兵衛
年寄 八兵衛
同 金之丞
同 吉右衛門
同 桂助←これが色川三中
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付3 乍恐以書付奉申上候
(恐れながら書付をもって申上げ奉ります)
一 中城町の高持百姓がお願い申し上げます。当町の田地は古来から水旱の患いがある場所です。田地の耕作だけでなく、商売をしなければ
生計が成り立たない場所です。御城下ですので、商売の利潤をもって、往来継立て、諸役、諸色に対応しておりましたが、町方も昔とは違って商人が多くなり、家の数がも多くなってまいりました。それに伴い、近年は諸掛りも増えました。田地の耕作収入は以前とはそう変わりませんのに、諸懸りは多くなり、高持百姓で専業農家の者は困窮し、難しい状況にあります。
このようなときに、亥年(文政10年)の冬に
、悪水入樋が破損してしまい、その修理が負担となっております。
普請には金59両2分ほど掛かりました。この内
、金14両2分は御上様よりの御下金、金5両は虫掛村よりの出金、残りの金40両は当町の高持百姓の負担となります。合計高は636石9斗6升7合ですので、計算すると、1石あたり、銀3匁7分6厘8毛出金しなければなりません。しかし、前記のとおり、百姓は困窮しております。
これまでにない多額の出金をしなけれならないことに皆当惑しております。
虫掛村の高は600石ほどもあるにもかかわらず、虫掛村方の出金はわずかに金5両です。
中城町に金40両も割付けがあるのは、前列のないことです。
古来の例を見ますと、普請で人足が700人かかる場合は、虫掛村から200人程を出し、中城町からは500人ほどを出していました。諸色については、各々半分を負担していました。
近年、諸懸り等が増えており、このような割合では対応難しいのです。何卒、旧来のとおりに諸懸りの割合をご指示ください。そして、割合が決まるまでは、お取り立てを延期していただくようお願い致します。
虫掛村からは金7両は出金するとのことです。それ以降の入樋普請については中城方より金7両を支払い、あとは虫掛村で引き受けて仕上げていただきたくお願いいたします。この度は、このような形で進めさせていただけるかどうか、一同で協議させていただきます。何分、高持が困窮しておりますし、特に昨年中出水して耕作ができない者もおります。何卒、従来の御定法どおりに、御割合を御仰付けいただきたくお願い申上げます。以上
中城町庄三郎後家ひで 代新助
田宿町 権右衛門
文政12年丑年4月
入江全兵衛殿
栗山八兵衛殿
鈴木金之丞殿
奥井吉右衛門殿
色川桂助殿
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