明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 静岡−伊勢編 4月1日-4月8日
塩谷常吉(当時22歳)の伊勢参詣日記。塩谷塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』掲載の「常吉道中日記」を現代語訳し、紹介していきます。
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四月一日 #明治18年伊勢参詣
静岡を出立。町外れに安倍川。名物安倍川餅を食べる。安倍川の幅は二百八十間。橋は修繕中。仮橋を渡る。
そこから二里行き宇津ノ谷峠。峠には隧道あり、その長さ約二町、巾は約二間。中は暗く燈火を五つ照らす。
そこから一里行き、藤枝駅。かき屋傳造方で昼食。
雨が降ってきたので、大井川橋まで(人力)車に乗る。里程三里、賃金十銭。大井川橋の長さは七百四十間。
金谷駅を通って、小夜の中山峠新道を通る。峠の茶屋前に夜啼石あり。
日坂駅の川坂屋治郎殿方へ泊。泊料二十銭。
(コメント)
・静岡を出発し、安倍川へ。名物安倍川餅を食べます。名物についての言及は、この日記では初めてではないでしょうか。名物に目が無いのは、今も昔も変わりません。
・宇津ノ谷峠。1876年(明治9年)に隧道が開通しており(日本初の有料トンネル)、常吉たちが通ったのはこの隧道です。なお、この初代隧道は1896年(明治29年)に坑道内を照らしていたカンテラの失火によって崩落、閉鎖されてしまいました(現存する宇津ノ谷隧道は二代目)。
・藤枝で昼食を取った後、大井川にかかる蓬莱橋(常吉日記では「大井川橋」)。江戸時代に大井川には橋はなく、蓬莱橋が完成したのは明治12年(1879年)です。現存しており、今も昔も有料です。
・小夜の中山峠は、旧東海道の日坂宿と金谷宿の間にあり、急峻な坂の続く街道の難所でした。明治13(1880)年に中山新道(有料道路)が完成。常吉たちが通ったのはこの新道です。
中山新道は明治22(1889)年に国鉄東海道線の全通により利用者が激減し、明治35(1902)年に公道に編入され、有料道路ではなくなりました。
・夜啼石は伝説ですが、夜啼石といわれる石を常吉たちも見ており(「峠の茶屋前に夜啼石あり」)、現在も存在します。
・本日の宿泊場所「川坂屋」。現在は、川坂屋・茶室ともに掛川市指定有形文化財となっており、無料公開されています。
・本日の旅程は静岡の伝馬町〜日坂宿。グーグル地図上では約42 km。宇津ノ谷峠、小夜の中山峠といった難所が多い旅程ですが、隧道や新道ができており、途中人力車をりようしたこともあって、40キロ以上の距離を行くことができました。
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四月二日 #明治18年伊勢参詣
日坂を出立。雨。袋井駅まで(人力)車に乗る(賃金二十銭)。約五里。
袋井駅から右へ二十町程入り、可睡村の秋葉三尺坊社を参拝。同社の後ろ一町は四面庭である。庭内に長さ約三間のホラ穴がある。かつて徳川家康公が戦争のときに御隠れになった由。
同社門前の三島屋成三郎方で昼食。料金七銭五厘。
二里半行くと天竜川。川幅百四十八間。
浜松までは(人力)車に乗る(約二里)。賃金八銭。
浜松の傳馬町五社明神の角、大末屋市郎衛門方で泊。泊料二十三銭。
(コメント)
・日坂宿(現掛川市)を出発しますが、雨のため、袋井駅までの約20キロは人力車に乗っています。
・「可睡村の秋葉三尺坊社」を参拝しています。現袋井市久能にある秋葉総本殿可睡斎のこと。「可睡斎」とは不思議な名前ですが、徳川家康のエピソードが名前の由来にあるそうです。
・「同社の後ろ一町は四面庭」。
秋葉総本殿可睡斎はかなり宏大な敷地を有しているようです。ホームページには以下の記載があります。
「4時間30分。それは可睡斎を一通り見学するために使う時間です。 10万坪(東京ドーム10個分以上)の境内、建造物数25棟、拝観箇所40、季節に応じて咲く花5万本、 日本有数の典座が用意した精進料理を体感することもできます」
・本日の参拝は秋葉総本殿可睡斎だけでした。天竜川から浜松まで人力車。頻繁に人力車が利用されており、明治10年代の旅は人力車が欠かせなかったことがわかります。
・浜松の伝馬町(現浜松市中区伝馬町)で泊。本日の旅程は、日坂宿〜浜松・伝馬町。
グーグル地図上では約40 km。
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四月三日 #明治18年伊勢参詣
浜松を出立。雨。入海(浜名湖)には長さ五十丁の橋があったが、新居までは汽船に乗った(六里)。 賃金十銭。
新居から二川まで(人力)車に乗る(二里)。賃金四銭。山家屋助五郎方で昼食。
そこから一里半で豊橋駅。札木町桝屋庄七郎方で泊。泊料十八銭。
(コメント)
・浜松を出立し、浜名湖は汽船で移動。新居から二川までは人力車。二川で昼食を取って、豊橋までは歩き。今日は移動ばかりの記事で、参拝・見学はなしのようです。
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四月四日 #明治18年伊勢参詣
豊橋を出立。雨。二里脇道に入り、豊川稲荷社を参拝。そこから馬車に乗って御油駅まで(二里)。賃金五銭。ゑびや安左衛門方で昼食。
御油駅からは 、岡崎まで馬車で乗る(約四里)。賃金十五銭。志きの屋篤治郎方に泊。泊料二十五銭。
(コメント)
・豊橋を出立し、東海道を外れて豊川稲荷社を参拝。「稲荷社」とありますが、豊川稲荷は寺院。寺号は妙厳寺(みょうごんじ)。室町時代の創建です。
・豊川稲荷〜御油駅は馬車。御油は東海道五十三次の一。現在の御油駅は国道一号線沿いですが、JRの駅はありません(名古屋鉄道の駅はあります)。明治18年時点ではこの辺りの東海道線は開通しておらず、東海道五十三次を念頭においた日記の記載となっています。
・御油〜岡崎も馬車。鉄道がない代わりに、馬車便があったのでしょう。本日、岡崎泊。
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四月五日 #明治18年伊勢参詣
岡崎を出立。雨。知立神社を参拝。有松へ四里、團子屋利助方で昼食。名物の絞を求める。有松から(人力)車で熱田神宮まで行って参拝。名古屋で泊。 本町八丁目通、丸屋さとし方で泊。泊料十五銭。
(コメント)
・岡崎を出立。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。
・知立神社。江戸時代には東海道三社の一つに数えられており、その意識が常吉たち一行にもあったので、知立神社を参拝したのでしょう。
・なお、東海道三社とは、三嶋大社、知立神社及び熱田神宮(東から西の順)。常吉たちは、本日熱田神宮も参拝しており、この旅で三社全てを参拝しています。
・有松絞りは、名古屋市の有松町・鳴海町地域でつくられる木綿絞りの総称です。江戸時代から有名で、1975年には「有松・鳴海絞」の名前で国の伝統的工芸品に指定されています。
・本日は宿泊場所は名古屋。東海地域随一の城下町ですから(東海道の宿場ではありませんが)、名古屋城を見学する予定なのでしょう。
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四月六日 #明治18年伊勢参詣
名古屋を出立。雨。名古屋城を外から見学。城内には鎮台兵がいるので、城内は見学できず。名古屋から津島神社まで馬車(里程約四里)。津島神社を参拝し、三好屋源六方で昼食。津島神社から、入海七里の渡場を小舟に乗って桑名へ上陸(賃金六銭)。丹羽善右衛門方で泊。泊料二十銭。
(コメント)
・名古屋を出立。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。6日連続。どこまで連続記録が続くのでしょうか。
・名古屋では、やはり名古屋城を見学に行っていますが、陸軍兵が名古屋城を使っていたため、城内は見学できませんでした。
「鎮台」は、1871年(明治4年)から1888年(明治21年)まで置かれた日本陸軍の編成単位で。鎮台は、明治21年に「師団」に変更となり、その名称は消滅しました。常吉たちが訪れた明治18年にはまだ「鎮台」だったのです。
・名古屋から津島へ。津島街道という東海道の脇街道です。
・津島神社を参拝。津島神社は、京都・八坂神社とともに牛頭天王信仰の二大社として知られています。
・津島からは小舟で桑名へ。本日は桑名泊です。
・東海道の正式ルートを通らず、名古屋→津島→桑名というルートは、江戸時代からありました。
「東国からの参宮客は、宮 (熱田)から桑名への七里の渡しではなく、佐屋や津島からの三里の渡しを利用した。 七里の渡しは東海道の正式なルートであるが、伊勢を目指す旅人たちは宮(熱田)を過ぎ名古屋の町を見物し、津島大社を参拝してから、三里の渡しを用いて東海道四十二番目の 宿、桑名に至る。参宮街道が始まるのは次の四日市宿を過ぎ、日永の追分で東海道と分か れてからであるが、参宮客にとっては、伊勢が間近いことを感じる起点は桑名であった。」(塚本 明『伊勢参宮文化と街道の人びと ケガレ意識と不埒者の江戸時代』)
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四月七日 #明治18年伊勢参詣
桑名を出立。雨。四日市(三里二十丁)、追分(壱里)。追分の浅草屋五兵衛 方で昼食。神戸(壱里半)まで行き、神戸から(人力)車に乗って津まで(里程五里、賃金十銭)。村田屋与兵衛方で泊。泊料二十銭。
(コメント)
・桑名を出立。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。7日連続。
・四日市は東海道五十三次の一つ。追分(現四日市市追分)から伊勢参道に入ります。
・今日は見学・参拝はなく、ひたすら先を急ぎます。神戸からは人力車に乗り、津(現津市)に到着し、同所で泊まりです。
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四月八日 #明治18年伊勢参詣
津を出立。雨。六軒(二里)、櫛田(二里)。櫛田駅の紅九郎兵衛方で昼食。料金九銭。櫛田から(人力)車で山田尾上町。松島屋善三郎殿で泊。泊料二十五銭。
(コメント)
・津を出立。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。8日連続。
・津⇒六軒⇒櫛田と雨の中を徒歩。櫛田で昼食を取っています。「六軒」は現松坂市六軒町、「櫛田」は現松坂市櫛田町。
・櫛田からは人力車に乗り、山田尾上町(現伊勢市尾上町)。いよいよ伊勢に到着です。「山田」は伊勢神宮外宮の鳥居前町として発展してきた地域。山田地区の中に複数の町があり、尾上町もその一つです。
山田尾上町
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