南斗屋のブログ

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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 東京−静岡編 3月24日-3月31日

2024年04月07日 | 伊勢参詣日記
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 東京−静岡編 3月24日-3月31日

塩谷常吉(当時22歳)の伊勢参詣日記。塩谷塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』掲載の「常吉道中日記」を現代語訳し、紹介していきます。
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三月二十四日 #明治18年伊勢参詣
東京を九時頃出立。泉岳寺、赤穂義士四十七人木像を見物する。十一時頃から大雪降る。
品川の大津屋宇衛門殿方で昼食。
川崎へ二里二十一丁、朝日屋武衛門殿方で泊。泊料二十銭。
(コメント)
・馬喰町で6泊し、東京見物をした一行。いよいよ東京を後にして、伊勢に向かって東海道を下って行きます。
・高輪の泉岳寺。「赤穂義士四十七人木像を見物」とあり、墓よりも木像の方が印象に残ったようです。現在は泉岳寺の講堂2階が義士木像館となっています。
・ここで大雪が降ってきました。3月下旬の東京での降雪は珍しいので(ここ40年では1988年と2020年)、旅にはアンラッキーでした。
・品川で昼を取ったあと、川崎まで歩いて、この日は川崎泊となっています。大雪の影響でしょうか。
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三月二十五日 #明治18年伊勢参詣
川崎から出立。汽車で横濱迄乗る。里程三里、賃金十五銭。十時頃から横濱市中を見物 。福井屋忠兵衛方で昼食。
二時頃横濱から蒸気船に乗り、横須賀に四時頃着。松阪屋藤蔵殿で泊。泊料二十五銭。
(コメント)
・昨日の大雪による遅れを取り戻す為か、川崎〜横浜まで汽車に乗っています。運賃(当時は「賃金」)は15銭。川崎での一泊が22銭ですから、宿泊料に比べると割高ですね。
汽車の時速は約30キロ、川崎〜横浜間は20分だったそうです。
・「横濱市中を見物」とだけありますが、横浜の外国人居留地を見たのでしょう。
・横浜から横須賀までは蒸気船で向かい、横須賀に宿泊しています。
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三月二十六日 #明治18年伊勢参詣
横須賀の機械場、軍艦等を見物。宏大である。松坂屋方で昼食。
小舟で金沢へ。金沢八景を眺める。風景佳し。
鎌倉に行き、官幣社鎌倉宮を参拝。往時大塔の宮という。八幡社を参拝。
半里行き、長谷村。三ツ橋與八殿方で泊。泊料二十二銭。
(コメント)
・横須賀には、1866年(慶応元年)、江戸幕府により横須賀造船所が開設され、1884年(明治17年)には横須賀鎮守府が設置されています。造船と海軍の拠点であり、当時は工場見学、軍艦見学ができたようです。常吉は、「宏大なること上げて数ふ能わず」と評しています。
かつては景勝地であった金沢ですが、現在ではその景勝は失われており、「金沢八景駅」という駅名にその名残りがあります。明治18年の時点ではまだ金沢八景の形式は保たれていたようです。
・一行は金沢から、鎌倉の官幣社鎌倉宮に行きます。鎌倉宮(かまくらぐう)は、鎌倉市二階堂にあり、護良親王(後醍醐天皇皇子)を祭神としています。1869年(明治2年)2月に造営された新しい神社です。
・八幡社(鶴岡八幡宮)を参拝しています。八幡宮は現代でも鎌倉観光の定番ですね。
・横須賀から金沢(横浜市金沢区)へ。横須賀からはグーグル地図上で約7キロですが、常吉たちは小舟で金沢へ渡ります。

海上自衛隊 横須賀造修補給所 艦船部 to 金沢八景駅

海上自衛隊 横須賀造修補給所 艦船部 to 金沢八景駅


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三月二十七日 #明治18年伊勢参詣
鎌倉を出立。大佛様、その高さ四丈八尺。
観音社、権五郎社を参拝。
小舟で江ノ島まで乗る。賃金二銭。江ノ島に十時頃着き、辦天社を参拝。恵比寿屋茂八殿方で昼食。
江ノ島から三里二十五丁で平塚駅。笹屋伊兵衛殿方へ泊。泊料二十銭。
(コメント)
・昨日は、長谷村(現鎌倉市長谷)に泊まりましたので、まずは鎌倉大仏を参拝します。
・「観音社」は長谷寺のこと。同寺の観音です。また、「権五郎社」は御霊神社(現鎌倉市坂ノ下)のことです。
・鎌倉から江ノ島までは小舟で渡っています。江ノ島に橋が初めて掛けられたのは、1891年(明治24年)です。明治18年には橋は存在していませんでした。
もっとも、干潮時には徒歩で渡ることができました。葛飾北斎の富嶽三十六景「相州江の島」にはその光景が描かれています。
・江ノ島では弁天社を参拝。
・本日は平塚(現平塚市)に泊まっています。
・本日の旅程は鎌倉市長谷〜平塚。
グーグル地図上では約20 kmですので、ノンビリした感じです。

長谷 to 平塚宿本陣旧跡

長谷 to 平塚宿本陣旧跡


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三月二十八日 #明治18年伊勢参詣
平塚から出立し、一里で大磯。そこから小田原(四里)。斎藤福松方で昼食。
小田原から箱根湯元へ(二里)。二時頃着、福住九蔵殿方へ泊まり、入浴。泊料二十三銭。
(コメント)
・江戸後期の浮世絵に描かれた箱根湯本
・本日の旅程は平塚〜箱根湯本。
グーグル地図上では約25 kmですが、これは明日の箱根越えに備えているからでしょう。

平塚宿本陣旧跡 to 湯本

平塚宿本陣旧跡 to 湯本




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三月二十九日 #明治18年伊勢参詣
箱根湯元を出立。天気悪し。箱根峠は険阻。湯元から箱根駅(四里)。土生(はふ)屋で昼食。
三嶋駅へ(三里)。三嶋神社を参拝。馬車に乗って沼津駅(一里半)、原駅(一里)、鈴川駅(二里)。馬車には五里ほど乗り、賃金十五銭。甲州屋喜衛門殿方で泊。泊料十六銭。
(コメント)
・箱根湯本を出発し、箱根越え。あいにく天候が悪く、険阻な峠道を行くのも難儀したことでしょう。
・昼食を食べた土生(はふ)屋は当時、はふやホテルを名乗っており、後に買収されて現在は箱根ホテルとなっています。
・箱根を越えてからは、三嶋(現三島市)までは徒歩で行き、その後は馬車に乗り換えています。沼津(現沼津市)、原(現沼津市)を通って、本日は鈴川(現富士市)泊。
・本日の旅程 箱根湯本〜鈴川。グーグル地図上では約48 km。うち約20キロは馬車でした。

湯本 to 鈴川の富士塚(鈴川淺間宮)

湯本 to 鈴川の富士塚(鈴川淺間宮)


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三月三十日 #明治18年伊勢参詣
鈴川今井村を出立。出立の際雨。倉沢(鈴川から四里)の富士屋七兵衛方で昼食。
午後二時頃興津(倉沢から二里)に着。
水口屋半十郎方に到着。
清見寺を参拝。その御座敷、今上帝(明治天皇)の行在所、御庭等全て奇麗。
水口屋の二階から、三保の松原を眺める。その風景佳し。水口屋にて名物の興津鯛を食べる。水口屋泊。泊料二十六銭。
(コメント)
・鈴川今井村(現富士市)を出発し、雨の中倉沢(現静岡市清水区)まで。
・倉沢で昼食後、興津(現静岡市清水区)へ。倉沢〜興津は二里しかなく、午後二時には興津に着いています。
・興津の清見寺(せいけんじ)。奈良時代の創建と伝えられています。常吉は「御庭等全て奇麗」と評していますが、庭園清見寺庭園は現在国の名勝に指定されています。
・本日の旅程 鈴川(現富士市)〜興津(現静岡市清水区)。グーグル地図上では約25 km。

鈴川の富士塚(鈴川淺間宮) to 興津清見寺町

鈴川の富士塚(鈴川淺間宮) to 興津清見寺町



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三月三十一日 #明治18年伊勢参詣
興津を出立。曇り、風荒れる。久能山(興津から三里)の東照宮、徳川家康公の墓を参拝。坂ノ下の豆腐屋直兵衛方で昼食。
静岡(久能山から四里)の浅間権現社を参拝。七社有り、その上には公園地。四方を見渡すことができ、風景佳し。
傳馬町の東萬屋清三郎方で泊。泊料二十三銭。
(コメント)
・興津を出立し、久能山(静岡市駿河区)へ。久能山東照宮と徳川家康公の墓を参拝しています。
・久能山から静岡市街へ。静岡浅間神社(静岡市葵区)を参拝しています。
・本日の旅程 興津(現静岡市清水区)〜傳馬町(静岡市葵区)。グーグル地図上では約26 km。

興津清見寺町 to 伝馬町

興津清見寺町 to 伝馬町


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仮刑律的例 26 長崎府からの刑律問合

2024年04月06日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 26 長崎府からの刑律問合

【長崎府からの伺】
明治2年正月、長崎府からの問い合わせ。
刑律は、新律の御布令まで、故幕府への御委任に基づく刑律(公事方御定書)が継続されますが、
・磔刑は君父を弑する大逆に限ること
・その他の重罪や焚刑は梟首とすること
・追放や所払いは徒刑に変えること
・流刑は蝦夷地に限られること
・百両以下の窃盗罪は死罪とはならないこと
と修正する旨定められています。
また、死刑については勅裁を経ることが必要で、府藩県とも刑法官に伺いを出すべき旨の行政官からの御布令もでています。
しかし、これまで当地においては徒刑を行ったことがありませんので、徒刑の取り計らい方等につき、問い合わせいたします。
【伺い①】
一、これまで長崎で行われていた入墨・敲・追放や所払いなどの御仕置きを申し付けていた無宿者、又は無罪であっても無宿であり、所々を立ち回って風儀がよろしくない者は、同所大黒町にある人足寄場へ送っていました。銘々のスキルに従って仕事をさせて、説諭を加え、その罪の軽重や身の慎み方の良し悪しに応じて、寄場にいる年限や月限を定めます。期限が来て、身寄りの者の引き受けの願い出がある場合は引き渡しを致します。以上が旧幕府時からの仕来りであります。
今般、この寄場を徒刑場に換え、追放や所払いを徒罪に換えますが、従前と同様、銘々のスキルに従って仕事をさせ、年限が来て、身寄りのものが引き受けの願い出をすれば引き渡す扱いとさせていただきたくお伺い致します。
【返答①】そのとおりでよい。

(コメント)
長崎府の伺いを読むと、長崎府が人足寄場をどのように運用していたのかが分かります。
* 長崎では旧幕府時代から、無宿者は人足寄場へ送られていた。人足寄場は大黒町(現長崎市大黒町)にあった。
* 寄場では、スキルに応じて仕事をさせ、罪の軽重や改心の有無に応じて滞在期間を定めていた。
* 身寄りの引き受けがあれば引き渡しをしていた。


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【伺い②】
一、徒刑の年限は、先例がないため当分の間次の通りでよいか伺います。
- 敲の上、重追放相当者- 1800日
- 重追放- 1440日
- 中追放- 1080日
- 軽追放- 720日
- 長崎市中郷中払- 540日
- 長崎払- 360日
- 所払- 200日
【返答②】徒刑の年限は行政官布告のとおりとせよ。
(明治元年10月行政官布告抜粋)
徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。この点はいずれ新律制定により制度設計を明らかにする。

(コメント)
徒刑というのは現在の懲役刑です。徒刑は江戸時代にはなかったものですが、「追放や所払いは徒刑に変えること」というのが明治政府の方針ですので、府藩県は徒刑期間をどのようにすべきか戸惑いました。明治政府はこの点について、「徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。」というばかりで具体的な指示を出さなかったので、なおさらです。長崎府の徒刑期間案は、この時期の徒刑期間が分かり、大変興味深いものです。
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【伺い③】
一、徒刑場の囲いを破ったり乗り越えて逃げたりする者には、御仕置きを行うことを承知してください。
【返答③】返答②に同じ。
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【伺い④】
窃盗の被害金額が百両以下の場合は死罪とはしないと行政官布告にあります。これは、手元にある品をはからずも盗んだ場合、戸が開いていた場合、家の中に人がいなかった場合の規定と受け止めております。
窃盗の際に人を殺し又は傷つけた場合、計画的に徒党を組んで押込みをした場合、家の中に忍入ったり土蔵破りをした場合、追剥や追い落としをした場合は、被害金額の多少によらず、長崎府の先例どおりに仕置をしてよいかお伺いします。
また、入墨の上重敲・入墨敲・重敲・敲相当の罪状の者は、行政官のご布告により徒刑に換えますが、次のように換えることでよいか伺います。
- 入墨の上重敲相当の者: 入墨の上、200日の徒刑
- 入墨敲:入墨の上、100日徒刑
- 入墨:400日徒刑
- 重敲:200日徒刑
- 敲:100日徒刑
- なお、入墨を入れる場合は左手の甲に「長崎府二百日徒刑」「長崎府百日徒刑」と入れるように致します。
【返答④】笞刑は五十又は百の二通りと仮に定めたので、それに従うこと。入墨等については、新律が制定されるまでは、従前のとおりで良い。

(コメント)
この伺いには2つ質問がありますので、問の内容毎に見てみましょう。
1 次のような場合は死罪を検討してよい。
・窃盗の際に人を殺し又は傷つけた場合
・計画的に徒党を組んで押込みをした場合
・家の中に忍入ったり土蔵破りをした場合
・追剥や追い落としをした場合
1 長崎府では、入墨の上重敲・入墨敲・重敲・敲の刑を行っていたところ、敲刑を徒刑に変えなければならないと考えていたようです。
しかし、明治政府はこの時期は笞刑を認めており、その数は50回又は100回の二通りと仮に定めていました。
また、入墨を入れる刑も認められていました。

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【伺い⑤】
御仕置の伺書については、旧幕府のときのようなもので良いでしょうか。幕府のときに雛形が用意されておりましたが、その通りでよいかお伺いします。
【返答⑤】そのとおりでよい。
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江戸大火起こる・文政12年3月下旬・色川三中「家事志」

2024年04月04日 | 色川三中
江戸大火起こる・文政12年3月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年3月21日(1829年)晴
従業員佐助のことで、谷田部不動町の徳左衛門のところに行く(茂吉同道)。徳左衛門は酒肴に出して歓待してくれたので、馳走になる。昼過ぎにに親戚の飯塚家へ立ち寄ってから帰る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
谷田部(現つくば市谷田部)には「不動町」があったようですが、現在はつくば市谷田部となっており、大字としてはのこっていません。谷田部の不動並木跡というものがあり、不動町の名残を伝えています。谷田部不動町までは、三中宅から往復約30キロありますが、日帰りしています。
土浦⇒谷田部

土浦城 大手門跡 to 谷田部の不動並木跡

土浦城 大手門跡 to 谷田部の不動並木跡


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文政12年3月22日(1829年)晴
昨日昼前に、江戸の外神田佐久間町から出火し、大伝馬町、小伝馬町、本町通りが全焼、東は浅草見付、 西は鎌倉川岸の豊嶋や、南は芝口新橋で留まる。近年稀なる大火。
取引先で全焼したところ以下のとおり。今朝与市は宿へ帰ってしまい、利兵衛殿は銚子へ私用旅行中。人がおらず、どうにもしようがない。
#色川三中 #家事志
(全焼した取引先)
いせ町 中条瀬兵衛
堀留 長崎や瀬兵衛
和泉町 四方久兵衛
小網三 土浦屋太兵衛
橘町三丁目 大坂や平六
横山町二丁目 近江や小兵衛
小船町 大枝清兵衛
今川はし 和泉や吉右衛門
本町四丁目 北川儀右衛門
本町三丁目 いせや平八
箱崎 常陸や太兵衛
小あみ三丁目 常陸や吉二郎
としま町 今川勾当
大伝馬町弐丁目 いせ屋惣兵衛
通壱丁目 白木屋彦太郎
(コメント)
文政の大火の記事。3月21日、江戸の神田佐久間町から出火。焼失家屋は37万、死者は2800人余りに達したといわれております。昨日起こった火事ですが、ここ土浦でも取引先の情報を把握しており、情報の伝達の速さには驚きます。
・文政12年の江戸大火は、読売形式の伝達が一挙に表面化した点で注目に値するとされています。
「この大火によって、それまで表面化していなかった情報出版である瓦版が、盛んに印刷されるようになった。火災は二十二日に鎮火したが、その翌日から焼場の絵図が作成されている。しかも、江戸は地方出身者が多いことから、手紙文も刷られ、筆墨をもたぬものの便宜をはかったという。(中略)このような瓦版が何種類も発行されたが、本来禁止されているはずのこの種の出版が、大災害を 契機に情報伝達手段として、民衆に必要な役割をはたしたのであった。」
(吉原 健一郎『江戸の情報屋』)
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文政12年3月23日(1829年) 晴
・この頃毎日晴れて日照り続き。在方では苗代作りに甚だ困っている由。
・夕方間原平右衛門が帰ってきた。江戸のことあらまし聞く。大火である。親船七艘が焼けた由。土浦船は田安様が御成で、下へさがっていたので、運よく焼けなかった由。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・晴れてばかりで、雨が降らず、米作りにも影響が出ています。
・友人から江戸大火の情報を聞いています。土浦船は何とか被害に合わなかったようです。

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文政12年3月24日(1829年)晴
与市も利兵衛殿も不在ゆえ、火事の見舞いには色川庄右衛門殿に頼んで江戸まで行ってもらうこととした。江戸の取引先等に16通書状を書いた。見舞い金として、金2分2朱銭800文を持っていってもらう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸の大火での被害者に対して、見舞いを遣わすべきところですが、三中の従業員でそのような話しができる者が出張などで出払っており、やむを得ず色川庄右衛門殿に頼むことに。色川庄右衛門は、色川家親族の代表者的立場に有る人です(2月4日条参照)。
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文政12年3月25日(1829年)晴
・朝、色川庄右衛門殿、江戸に向けて出立。被災した取引先への見舞い金と書状を託した。
・熊のや忠蔵が、息子清兵衛の先日の一件で礼に来た。金壱朱、半紙壱状添えで持参してきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
清兵衛は、先日酔った勢いで湯屋で帯を盗むという刑事事件を起こしたのですが、町役人が動いたこともあり、刑事処罰は免れました。清兵衛の礼は半紙二丈でした(以上、3月8日〜10日条)。少ないと思ったのか、父親の忠蔵が金壱朱、半紙壱状添えで礼に来ました。

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文政12年3月26日(1829年)晴
・等覚寺で角力興業の計画あり(寺の境内で行う)。昨日、寺社御役所宛の願書の提出があり、本日、町役にて奥印。
⇒願書の本文は末尾付1&2
・夜に入って大雨。御奉行は風烈廻りをされた。雨は終夜に及んだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・等覚寺は土浦の町にある寺(現土浦市大手町4−16)。寺の境内で角力興業をしたいという願書が提出されました。寺社御役所宛ですが、町役人に提出し、町役人が奥印をしてから、藩に提出されるのがルール。町役人としては、形式が整っているか、宛先をは間違いないか、提出した人物が名義人かを確認しているのですね。
・風烈廻りとは、風が強い日の火災予防等の取締りのこと(2月21日条参照)。これまでずっと晴れて日照りで困っていましたが、風烈廻りをするほどの大雨。文政12年も振れ幅の大きい天候不順だったようです。

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文政12年3月27日(1829年)雨 昼前から晴
等覚寺から角力興行の願書の写しを取りたいとの要請があった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
等覚寺の和尚が願書を提出しており、内容は自分で分かっているはずです。それでも写しを取りたいというのは、奥印も含めての写しを残しておきたいのでしょう。現代のようにコピー機はないので、手書きの写し。そのようなものでも記録として残すことに価値があったのですね。
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文政12年3月28日(1829年)晴
奉行所での吟味に町役人として立会。
正午、荒川や太兵衛を呼出す(組合の記七・伝蔵も)。御疑心あるため、細田や次郎右衛門も御呼出し(組合の藤吉・源治も)。次郎右衛門の供述により、田兵衛を再御呼出。夕方になりひとまず終わる。「心得違いのないよう、よくよく町役人とも話すのだな」との仰せあり、一同下がる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
奉行所での吟味(刑事裁判)に立会うのも町役人としての仕事。何が問題となっているのか、私にはよく分からないのですが、被告人荒川や太兵衛の主張に不明なところがあり、奉行所は参考人次郎右衛門も取り調べを行っています。午後いっぱい吟味に時間を取っていますが、決着せず、町役人とよく話すように奉行所は促しています。
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文政12年3月29日(1829年)晴
江戸から帰ってきた者(和田や)から、大火の話しを聞く。
親船三十七艘は全焼の由。船のために佃島にも類焼。今回の火事はその時にはわからなかったが、時をおって詳細が知れると、当初の話しより大変である。
長崎やは店舗のみ焼失。中条は店舗及びかしの樽蔵が焼失。四方も店舗のみ焼失。近小(近江や小兵衛)からは今日書状が届き、被害は店舗のみで、人は無事とのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
文政の大火の続報。当初聞いていた話しよりも、被害は深刻そうです。後世には、焼失家屋37万、死者2800人余りと伝わる大火ですので、無理もありません。当時は島だった佃島だったにも船を介して延焼。恐るべき火事の勢いです。

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文政12年に3月30日は存在しませんので(同年3月は小の月)、#色川三中 #家事志はお休みです。
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文政12年に3月31日は存在しませんので(旧暦には31日は存在しません)、 #色川三中 #家事志はお休みです。

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付1:等覚寺の願書①〈3月26日条〉
『書面をもってお願い致します』
当寺の境内は地面が低いため、出水致しますと参詣者が難渋致します。直したいと思いますが、貧寺でありまして自力では難しいのです。これまでに本堂から門前までの敷石の設置を計画し、着手はしたのですが、完成には至りませんでした。資金に難渋しておりますので、江戸大角力興行を行い、この資金を普請金とさせていただきたく存じます。何とも自由がましくて恐入りますが、お聞き及びいただければ幸いです。 以上
田宿町 等覚寺
文政十二丑年三月
寺社御役所
以上のように田宿町等覚寺からの願いがあったので、奧印致します。以上
入江全兵衛
八兵衛
金之丞
吉右衛門
桂助(色川三中)
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付2:等覚寺の願書②〈3月26日条〉
『書面をもってお願い致します』
当寺の本堂、庫裏、裏屋根等が大破しておりみまして、甚だ難渋至しております。修復作業を進めておりますが、境内や外地の窪んだ場所からの水の浸入も深刻です。仏参の方も難渋しております。本堂より表通りまでの土地も整備致したく、この段お願い申し上げます。特に本堂から門前までの敷石の設置は先年願書を提出し、着手もしておりますが、完成しておりません。必要な資金が不足しているため、檀中の皆様とも相談しましたが、近年に打ち続く凶作で一同困窮しております。
当節、近隣で歌舞伎や芝居が行われ、五日間晴天が続いたこともあって、その成功により資金を得たので、当寺にも角力興行を行いたく、よろしくお願い致します。従前、桜橋、銭亀橋、真鍋村辻の三か所に建札を建てたとのことですので、同様に行わせて下さい。
興行場所や日にちについては、後日お知らせいたします。何卒、この願いをご理解いただき、承認していただけますようお願い申し上げます。以上
田宿町 等覚寺
文政十二年丑三月
寺社御役所
奥印は前のとおり



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橋本胖三郎『治罪法講義録 』を読む・第二回講義

2024年04月01日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』を読む・第二回講義 明治18年4月24日

前回は治罪法の総論を講義致しました。今日からは治罪法の本文に入っていきます。全体を六巻に分けて、逐次講義していきます。治罪法は六編から成り立っていますので、その区別に従って順に講義していくのが、諸君の研究にも便益となることでしょう。
第一巻:総則
第二巻: 刑事裁判所の構成と権限
第三巻: 犯罪、捜査、起訴、および予審
第四巻: 公判
第五巻: 大審院の職務
第六巻: 裁判執行、復権および特赦
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
まず第一巻から始めます。
第一巻 総則
諸君もご存知のように、総則は概ね公訴と私訴の原則を明らかにしつつ、治罪の手続きを示すものです。第一巻は次の二編に分けて講義を致します。
第一編 公訴及び私訴
第二編 雑則
━━━━━━━━━━━━━

第一編: 公訴および私訴
公訴と私訴に関しては、学問上の理論が多岐にわたっており、論ずべき事項も多くならざるをえません。
公訴と私訴は治罪法の眼目です。これを理解すれば、他の事柄は自ずから容易にこれを理解することができます。治罪法を深く学ぶ者は、公訴私訴の二者を研究することが極めて重要なのです。
公訴私訴が何かということを知るためには、まず、犯罪とは何かを知らなければなりません。
犯罪とは何か。法律上重罪、軽罪、違警罪によって罰せられる行為です。刑法第一条には「およそ法律において罰するべき罪は三種類とする。一重罪、二軽罪、三違警罪」と規定されており、いかなるものが犯罪となるかはこの規定の解釈に委ねられますが、今はこの規定を離れて学問上の観点から考察してみましょう。
学問上、犯罪には、刑法上の犯罪と民法上の犯罪との二つの意義があります。刑法上の犯罪とは、社会の安寧を害するものであって、かつ道義に背く行為です。民法上の犯罪とは、故意又は不注意により正当の権利なく他人に損害を加える行為をいいます。このように二つの意義がありますが、今回論じるのは刑法上の犯罪についてです。
刑法上の犯罪が生じたときは、直ちにこれを罰しなければなりません。そうでなくては、一日も社会を保つことができないでしょう。犯罪に対して刑の適用を求める訴えを「公訴」というのです。犯罪は社会に害を与えると同時に、一個人にも損害を与えます。その損害は償わせなければなりません。被害者が賠償を要求する訴えを「私訴」といいます。
この公訴と私訴の2つの名称は、治罪法の制定によって初めて用いられたものです。
治罪法第一条には、「公訴は犯罪を証明し、刑を適用することを目的とするものであって、法律に定めた区別に基づき、検察官がこれを行う」とあり、また、第二条には、「私訴は犯罪により生じたる損害の賠償・贓物の返還を目的とするものであり、民法に従って被害者に属する」と規定されているところです。
現在では、公訴・私訴の目的とその区別は明白であって、今、皆さんに対してこの2つの区別についてどのように説明するか、という問いを発しても、明快に答えることができるでしょう。
しかし、我が国では、これらが区別されたのはほんの数年前のことであります。治罪法制定前はこの区別ははっきりとはしておりませんでした。欧米諸国においても、この区別が明らかになったのは近世のことにすぎません。けれども、この区別は偶然の出来事ではなく、自然の道理に基づいたものなのです。そこで次に公訴と私訴の根元及び性質を論じましょう。
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第一章 公訴・私訴の根元及び性質
公訴と私訴の区別が明らかになったのは、近来のことであり、往古にはこのような区別はありませんでした。
往古の渾沌野蛮な世の中では、他人に怪我を負わされたり、所有物を奪われた場合は、加害者を傷つけることで復讐を行い、又は所有物を回収して、怒りを和らげるといったことしかできませんでした。
世の中が進歩し、酋長や統領といった指導者が、その部落内での民の紛争を裁判で解決するようになっても、その裁判は復讐法に過ぎないのでありまして、公訴と私訴の区別はなく、私訴の性質をもつものばかりで、公訴の性質は見当たりませんでした。
およそ人が二人以上集まるときは、その間に争いが起こるものです。争いがあるときは、当事者の一方は損害を被っており、損害を被っている者は賠償を求めるのは理の当然です。この請求が私訴です。私訴は天然自然に生じるもので、近年始まったというものではありません。往古には公訴と私訴の区別は明らかではありませんでしたが、私訴と呼ばれるべきものについては、既に存在していたことは前記のとおりです。
時が進み、世の中が進歩するとともに、人民自らが裁判を行う旧習を去り、法衙というものを設けて、紛争あるときは相応の手続きを経て解決する仕組みが整い、公訴と私訴の区別が生じました。欧米各国の歴史でも、公訴・私訴の区別が明白になったのは、今からおよそ百年前のことです。ギリシャやローマといった国でも公訴・私訴の区別は判然としませんでした。フランスでも1789年の建国以前には、裁判官自ら犯人を糺問しており、公訴・私訴の区別はなかったのです。建国以後、「ミュニステール・ピュブリック」(検察官)なるものを置きました。これが初めて公訴・私訴が区別され、不告不理の原則が実施されたのです。フランスにおいて、刑事裁判史上、一大新面目を開いたのは、実にこの検察官を設置したときなのです。
このように公訴・私訴の区別が明確になったのは、近来のことでありまして、往古にありては
公訴・私訴の区別はなく、私訴しかなかったといってよいのです。以上、公訴・私訴の根元を略述致しました。次いで、公訴・私訴の性質について説明しましょう。
国法を犯す者がいれば、国家の安寧と個人の安全を脅かすことになります。例えば、ここに人を殺傷し、人の財産を横奪する者がいるとします。この者をのさばらせることは、国全体の安寧を害することになります。国法を犯す者がいれば、良民は自らの業を安心して営むことができず、良民が安心して業を営むことかわできないときは、国は繁栄することができないからです。また個人の身体、生命、名誉、財産を害することになるからです。
国家の安寧と個人の安全を害する者には、刑罰を加えてこれを懲戒し、今後犯罪を輩出することを防止しなければなりません。そうでなくては、その国は一日も安寧ではないでしょう。これが刑罰が必要となる理由であり、ここに公訴権というものが生じる理由があります。
犯罪者に対して刑罰を加えてさえいれば、国家は安寧となるかといえば、そうではありません。犯罪があれば、国家の安寧だけでなく、私人の私益を害するのでありまして、その私益を回復するのでなければ、充分な国家の安寧を保つとはいえないのです。このように刑罰に服従させると同時に、被害者の損害を賠償させること、これが私訴というものが生じる理由です。

国家の安寧を維持するためには、公訴と私訴の双方が不可欠であることは既に述べたとおりです。公訴といい、私訴といい、一つの犯罪から生じるものですが、その性質と目的は大いに異なるのでありまして、これに同じ原則を適用するわけにはいきません。公訴は社会に属し、私訴は被害者に属するからです。
以上述べたことから、公訴と私訴が異なる理由はお分かりいただけたかと思います。
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ここからは、条文に基づき公訴私訴の目的がどのようなものかを講述致しましょう。
治罪法第一条には、「公訴は犯罪を証明し、刑を適用することを目的とするものであって、法律に定めた区別に基づき、検察官がこれを行う」とあります。
「犯罪を証明し、刑を適用する」とはどのような意味でしょうか。二つの解釈が考えられます。
「犯罪を証明する」と「刑を適用する」とを別に考えて、それぞれの目的があるとの考え方。また、「犯罪を証明する」とあるのは、「刑を適用する」の形容詞であり、その目的は刑を適用することにあるとの考え方。
いずれの考え方を取るかは、人民の権利に影響を及ぼしますので、軽くみることはできません。
公訴の目的が、犯罪を証明することと、刑の適用との二点にあると解するときは、数罪が発生した場合には、刑を適用しない犯罪についても公訴を提起せざるを得ないことになります。これに対して、「犯罪を証明する」とあるのは、「刑を適用する」の形容詞であると解するときは、刑を適用することのない犯罪には公訴を提起する必要はないことになります。
私は、治罪法第一条にいう「犯罪を証明し、刑を適用する」とあるのは、それぞれ別個の目的があるものと解するべきだと考えています。その理由は、もし目的が刑の適用だけにあるのであれば、「犯罪を証明し、刑を適用する」とは規定せず、「犯罪を証明して刑を適用する」と規定するべきです。「犯罪を証明し、刑を適用する」と規定しているのは、文法上それぞれ別個の目的があるからに他なりません。また、文法上の理由だけでなく、理論的な理由ももあります。賞罰というものは、単に賞を与え、罰を加えるだけで良いというものではありません。世の中に知らしめてこそ、賞罰の効が奏するというものです。公訴というものは単に刑罰を科するのではなく、犯罪があったことを世の中に知らしめ、どこの何某なるものは、何の日、何処において何の悪事をしたかを明白にすることで、その事実を証明し、刑罰を加えると同時にその邪悪なることを世に表すものなのです。そうでなくては、刑罰は決して充分な効果をあげないでしょう。
法文に「証明」とあるのは、単に立証のことだけをいうと狭く解釈すべきではなく、立証をなし、かつ、これを世に知らしめるの意味に解釈すべきです。
私訴に関する治罪法第二条の規定には「証明」との文言はありません。仮に、「証明」が単なる立証のことだけを意味するのであれば、第二条にも「証明」の文言がなければならないはずです。しかるに、第二条には存在せず、第一条のみに「証明」の文言があるのは、私の解釈が正しいことを裏づけているというべきです。治罪法第九条公訴消滅の原因の中でも数罪が発生した場合を規定せず、旧法においても旧悪減免、自首全免等の場合にはこれを証明し、裁判言渡しをもって放免するのてす。これらも、第一条の目的が、「犯罪の証明」と「刑の適用」のそれぞれ別個の目的があるという解釈の理由となります。
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私訴の目的について説明しましょう。治罪法第二条に、「私訴は犯罪により生じたる損害の賠償・贓物の返還を目的とするものであり、民法に従って被害者に属する」と規定されています。
私訴の目的は「損害の賠償」にあります。第二条には「贓物の返還」との文言もありますが、返還というのは損害賠償に含まれるものであることは、詳しく説明する必要はないでしょう。
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以上述べたところで、公訴・私訴の目的については概ね理解いただけたかと思います。次に公訴権の実行について説明しましょう。
公訴権は国家に属するものであり、一私人に属するものではありません。国家は法人でありますので、実際にいかなる者に公訴権を実行させるかは非常に難しい問題です。この問題については欧米各国においてもいまだ議論が続けられており、定説をみないようです。そのため、イギリスとフランスとでは公訴を行う者が異なりますし、オーストリアとフランスでも違いがあります。
どのような者に実行させるかについては次のようなものが考えられます。
一 直接の関係を有する被害者に委託する
二 一般の人民に委託する
三 民選をもって推挙したる者に委託する
四 施政権に委託し、再びこれを一種の官吏に委託する
以上の四種の長所短所を見てみましょう。
第一の方法である「直接の関係を有する被害者に委託する」には大きな弊害があります。例えば、被害者が公訴を起こすにあたって、被告人がかなりの権力を有していたり、かなりの知識を有している者であるときは、被害者はその権力と知力とに圧倒されて、公訴を行うべきであるのに、公訴を提起しないということがありえます。また、公訴を行う者は徳義と忠情をもつべきでありますが、被害者は公訴権を自己の私憤を晴らす目的で使うことが懸念されます。以上から、第一の方法は適切とは思われません。
第二の方法である一般の人民に委託するというのも、第一の方法と同様弊害があります。公訴権を行使する者は、相応の学識経験、財産を有するほか、報国の志を懐く者でなければなりません。
報国の心のない者は、学識経験と財産があっても、時間と財産を費やすのを嫌って公訴を提起しないことがありえます。人々が報国の心を有すべきは当然のこたとなのですが、今日の社会では一般人民全てに報国の志を望むことは容易ではありません。
往古のギリシャ、ローマのような文物制度の美が燦然として光輝を放っていた時代には、すべての人民が報告の念をもってこの制度を用いることもできたでしょうが、その後の時代には弊害が頻発しております。イギリスには検察官の制度があり、検察官が起訴を怠ることがあれば人民が直ちに起訴をすることができるとしています。これは公訴権を一般人民に委託するといってよいかと思いますが、様々な弊害が生じています。
第三の方法である代議士のような人民が公選した者に公訴権を委託することも、採用すべきではありません。この制度では公訴権を独立したものとするのはかなり困難です。この方法では委託者は、常に人民の意を気にし、人民の意に反する公訴を起こすことをおそれるので、独立に権限を行使することが甚だ困難です。また、自己の財産を費やし、もって公益に供するような者を見つけることも困難です。
第四の方法である施政権に委託したものを再びこれを一種の官吏(検察官)に委託する方法が現代ではもっとも適切です。政府は国家人民を保護するために設けられています。刑罰もまた、国家人民を保護するためのものです。よって、公訴権を政府に委託するのは妥当です。政府がこれを一種の官吏に委託するときは、その監督権限を行使することができますし、独立不羈ならしむることも容易です。
四種の方法のうち、第四の方法が最も良いというべきです。

欧米各国がどの方法を採用しているかですが、フランスは第四の方法をとっています。イギリスは、第二の方法をとっています。イギリスのように文明が開けて、人民が国家を愛する念が厚い国でも、第二の方法をとることで様々な弊害を生じていますので、血がころではこの方法を改正したほうがよいという声も有力となっています。
ドイツでは、第一の方法を採用しているといってよいでしょう。告訴を待ってから公訴を提起することが多いからです。オーストリアは検察官の制度はありますが、検察官が公訴を提起しないときは、被害者が公訴をなすことができる制度がありますので、第一の方法と第四の方法を併用しているといえましょう。
このように各国は様々な方法を採用しておりますが、私は第四の方法が完璧な制度であると考えます。
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今回の講義を終わるにあたって、公訴・私訴の区別を再度確認しておきましょう。
①公訴と私訴とは起訴する主体を異にし、公訴は検察官がこれを行い、私訴は一私人がこれを行うものです。
②公訴は社会に属するものですから、これを放棄するのもまた社会の要求するところに従うべきです。大赦令を発することはその一つの例です。検察官が公訴を行うのは、国会から委託を受けているからで、検察官自体に公訴権があるのではありません。検察官が公訴を提起した以上は、その権利を放棄することは許されません。これに対して、私訴権は被害者が有しているものですから、これを放棄するのもその一私人の選択に関わっています。以上が、公訴・私訴の異なるところです。
公訴を掌る官吏及びその権限等は次回に講義いたしましょう。
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⇒次回

橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第三回講義 - 南斗屋のブログ

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