グリーク:ピアノ協奏曲
シューマン:ピアノ協奏曲
ピアノ:ディヌ・リパッティ
指揮:アルチェロ・ガリエラ(グリーク)/ヘルベルト・フォン・カラヤン(シューマン)
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
録音:1947年9月(グリーク)/1948年(シューマン)、英国アビイ・ロード・スタジオ
LP:東芝EMI EAC‐60108
このLPレコードは、ルーマニア生まれの不世出の天才ピアニストのディヌ・リパッティ(1917年―1950年)が、まだ体調が良かった頃、英国で録音された貴重な録音である。ディヌ・リパッティは、ルーマニアのブカレストに生まれ、1950年にスイスのジュネーブで僅か33歳でこの世を去った悲運のピアニストであった。1934年の17歳の時、リパッティは、ウィーンの国際コンクールに出場し2位になった。この時、審査員であったコルトーが、リパッティの天分をいち早く見抜き、パリに呼んで教えることになったのである。このこともあり、リパッティは既に30歳にして一流の大家とみなされるに至った。リパッティの演奏の特徴は、透き通るような輝きに満ちたその音色に加え、高度な技術に裏付けられた、確信に満ち、少しの揺るぎない演奏内容が、聴くものすべてのものに深い感動を与える。これは、単に音楽を演奏しているという以上に、深い人間愛がその演奏に込められていることから来るものだと思う。遺されているリパッティの録音は、バッハからショパン、さらにはこのLPレコードのグリーク、シューマンに至るまで、全て強い信念で貫かれており、今聴いても、これほど一本筋が通った演奏をするピアニストは数少ない。同時にその曲への深い愛着が滲む演奏は、そう滅多に聴かれるものではない。グリークのピアノ協奏曲は、1862年、19歳のとき着手されたが、完成したのは、それから6年後の1868年であった。このピアノ協奏曲は、グリークの出世作であると同時に代表作にもなった。リストはこの曲を初見で弾いて、「見事な出来だ」と若いグリークを激励したという。シューマンのピアノ協奏曲は、クララとの結婚生活が始まった頃の最も創作意欲の旺盛な時代の作品。初演は、1845年12月4日にドレスデンで、クララのピアノ演奏で行われた。クララはこのピアノ協奏曲を非常に好んだという。ピアノの機能と音色の変化の美しさを備えたこのピアノ協奏曲を、シューマンの死後クララは演奏会でしばしば取り上げ、それがこの曲が有名となる切っ掛けとなった。ディヌ・リパッティは、グリーク:ピアノ協奏曲では、グリーク特有の北欧の透明感ある音楽が肌に伝わってくる演奏だ。一方、シューマン:ピアノ協奏曲は、シューマン独特のロマンの世界を夢想的に表現し、聴くものを夢のような世界へと導いてくれる。ピアノ協奏曲の名曲中の名曲2曲を収めたこのLPレコードは、永久保存盤そのものと言って過言ではない。(LPC)
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番
ピアノ:ヴィルヘルム・バックハウス
指揮:グィード・カンテルリ
管弦楽:ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:1956年3月18日、ニューヨーク(ライヴ録音)
発売:1980年
LP:キングレコード(Cetra) SLM5012
ヴィルヘルム・バックハウス(1884年―1969年)は、ドイツ生まれの大ピアニスト。ニックネームは“鍵盤の獅子王”。この名の通り卓越した演奏技法と堂々としたスケールの大きなピアノ演奏は、当時一世を風靡した。ベートーヴェンなどドイツ・オーストリア系の作曲家の作品では、圧倒的名演を聴かせる反面、武骨ともいえるその演奏スタイルが功を奏しない曲もあった。指揮のグィード・カンテルリ(1920年―1956年)は、36歳で飛行機事故で亡くなったイタリア出身の天才指揮者。あのトスカニーニをして「自分と同じような指揮をする」と評さしめたことは有名な話。その類まれなる才気活発な指揮ぶりは、このLPレコードからも聴き取れる。これは、そんな2人が共演したベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番をライヴ録音したLPレコードである。この曲は、ベートーヴェンの協奏曲には珍しく、優雅で、内省的な曲想が特徴で、逆にそれがために根強い人気を誇る作品。バックハウスは、この曲の特徴を最大限に発揮させており、内面から滲み出るような力強いピアノ演奏を聴かせてくれる。宇野功芳氏はこのLPレコードのライナーノートに「彼(ヴィルヘルム・バックハウス)は、ステレオとモノーラルに、それぞれハンス・シュミット=イッセルシュテット、クレメンス・クラウスと組んで同曲をスタジオ録音しているが、今回はライヴだけに、力強い緊迫感や覇気、大ぶりな感情表現や雄々しい羽ばたきといったものが聴かれ、やはり実演は良いなと思う。少なくともぼくはスタジオ録音の2枚よりも、この方を好む」と書いている。ピアノのヴィルヘルム・バックハウスは、ドイツ、ライプツィヒの出身。ライプツィヒ音楽院で学ぶ。1905年「ルビンシュタイン音楽コンクール」ピアノ部門で優勝。1930年スイスのルガーノに移住する。第二次世界大戦後の1954年にアメリカそして日本での演奏会を開催した。一方、指揮者のグィード・カンテルリは、イタリア、ミラノ近郊の街ノヴァラの出身。ミラノ音楽院で学び、23歳で地元ノヴァラの歌劇場の芸術監督に任命される。第二次世界大戦後の1945年、スカラ座で指揮するなど活躍し、当時の指揮界の長老トスカニーニの後継者と目されていた。しかし、1956年11月24日、パリのオルリー空港からニューヨーク行きの航空機が離陸に失敗、カンテルリは帰らぬ人となった。そのカンテルリは、「グィード・カンテルリ国際指揮者コンクール」として今にその名を残す。(LPC)
モーツァルト:3台のピアノのための協奏曲
バッハ:3台のピアノのための協奏曲
イタリア協奏曲
ピアノ:ロベール・カザドシュ
ギャビー・カザドシュ
ジャン・カザドシュ
指揮:ユージン・オーマンディ
管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団
LP:CBS/SONY 13AC1065
親子共演の録音はそう珍しくはないが、両親と息子の3人の共演ともなると、あまり聞いたことがない。そのあまりないことがこの録音では、実現しているのである。ロベール、ギャビーカザドシュ夫妻とその息子のジャン・カザドシュの3人が、ピアノの共演をこのLPレコードで行っている。モーツァルト:3台のピアノのための協奏曲は、「ハフナー・セレナード」が書かれた年に作曲された曲で、伯爵夫人と2人の令嬢のために書かれたものである。つまり、素人のために書かれた曲であるので、特に深い内容があるわけではないのであるが、聴いていて思わず微笑ましさを感じるような曲に仕上がっている。そんな曲であるので、親子3人が仲良く弾くにはこれ以上の曲は考えられない。実際、3人は家庭内で互いに親密な会話を交わしているような雰囲気で演奏をしており、親密感が滲み出た演奏内容となっている。バッハ:3台のピアノのための協奏曲は、チェンバロ用に書かれた曲を3人のピアノ演奏で聴くことができるのだが、3人の達者なピアノ演奏が何とも心地良い空間をつくり上げている。ここでも親子という関係が十二分に発揮された、親しげな演奏内容となっている。しかし、その演奏の質自体はというと、単に親密さを上回り、奥行きの深い、説得力のあるものに仕上がっている。一方、バッハ:イタリア協奏曲は、名手ロベール・カサドシュの独奏の名演に酔いしれることが出来る。ロベール・カサドシュ(1899年―1972年)は、パリ出身でパリ音楽院で学ぶ。世界を代表するピアニストとして各国で演奏旅行を行う。作曲家としては7曲の交響曲、3曲のピアノ協奏曲、多数の室内楽曲などがある。初来日は1963年。その時の印象を菅野浩和氏は「音楽性のエッセンスのような、実に風格に満ちた、味わいの尽きない名演奏を聞かせてくれた」とこのLPレコードのライナーノートに書いている。そして、1968年の二度目の来日は、ロベール・カザドシュの独奏に加え、呼び物は、このLPレコードと同じように、夫人と息子を加えた、いわゆる“カサドシュ一家”による3台のピアノによる演奏会であった。そんな、幸福の絶頂にあった“カサドシュ一家”に突如不幸が襲い掛かる。3人で来日した4年後に息子のジャン・カザドシュが交通事故のため不慮の死を遂げる。さらにその8か月後、父親のロベール・カサドシュが亡くなってしまう。このLPレコードの幸福そうな“カサドシュ一家”の写真をを見ていると、この世の儚さが胸に去来するのである。(LPC)
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
6つの前奏曲(24の前奏曲から第12番,第13番,第3番,第5番,
第6番,第8番)
ピアノ:スヴャトスラフ・リヒテル
<チャイコフスキー>
指揮:ヘルベルト・カラヤン
管弦楽:ウィーン交響楽団
<ラフマニノフ>
指揮:スタニスラフ・ヴィスロツキ
管弦楽:ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団
録音:1962年9月、ウィーン、ムジークフェラインザール<チャイコフスキー>
1959年4月、ワルシャワ・フィリハーモニー<ラフマニノフ>
LP:ドイツグラモフォン MGX 9983~4(2枚組)
このLPレコードの第1枚目は、1962年にウィーンで録音されたものである。スヴャトスラフ・リヒテル(1915年―1997年)のピアノ、カラヤン指揮ウィーン交響楽団によるチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番であるが、リヒテルもカラヤンも当時演奏者として最も油の乗った頃のもので、実に聴き応えのある演奏内容となっている。リヒテルの力強いタッチにより、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番の輪郭が一際引き立ち、そのダイナミックなピアノ演奏は、聴くものを圧倒せずには置かない。一方、カラヤンの指揮は実につぼを押さえた一部の隙もない演奏内容で、リヒテルのピアノ演奏を引き立てる。録音時期の1962年は、リヒテルが旧ソ連以外へ演奏旅行を開始した1960年直後のことであり、当時全世界の目がリヒテルの演奏に集まっていた。一方、カラヤンは当時、ミラノ・スカラ座、ベルリン・フィルそれにウィーン国立歌劇場の音楽監督という要職にあり、飛ぶ鳥を落とす指揮者として君臨していた。全盛期の巨匠2人による最高水準のチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番を聴くことができるのが、このLPレコードの特筆すべきことであり、歴史的にも貴重な録音となっている。一方、このLPレコードの第2枚目に収められているのは、スヴャトスラフ・リヒテルのピアノ、スタニスラフ・ヴィスロツキ指揮ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団よるラフマニノフピアノ協奏曲第2番である。録音時期は、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番よりも3年ほど前の1959年4月である。この協奏曲でのリヒテルのピアノ独奏は、チャイコフスキーの曲とは大きく様変わりし、繰り返し湧き起る情念の発露が、悲しくも美しいピアノの旋律に乗り、ひしひしとリスナーの心の奥底へと響き渡るようである。それらは、決して上辺だけの表現ではなく、心の奥底から響き渡る豊かなうねりを伴っている。同時に、確固たる構成力に基づくメリハリの利いた演奏内容は、他の追随を全く許さず、リヒテルでなければ到底不可能な世界を繰り広げる。スタニスラフ・ヴィスロツキ指揮ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団も、陰影に富んだ深みのある演奏でリヒテルのピアノ演奏の効果を一層高いものへと押し上げている。このLPレコードは、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番の録音の決定盤と言っても過言なかろう。最後のラフマニノフ:6つの前奏曲の演奏も、ピアノ協奏曲第2番と同様スケールの大きい、しかも情感の籠ったものに仕上がっている。(LPC)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」K.537
ピアノ協奏曲第27番K.595
ピアノ&指揮:ダニエル・バレンボイム
管弦楽:イギリス室内管弦楽団
録音:1974年5月23~24日(第26番)/1967年1月3日~4日(第27番)
LP:東芝EMI EAC‐85058
このLPレコードでピアノ演奏と指揮を兼務(いわゆる弾き振り)しているダニエル・バレンボイムは、もともとピアニストの出身なのであるが、1966年から指揮者デビューを果たし、現在では指揮者をメインに演奏活動を行っている。このLPレコードは、バレンボイムがまだピアニストを中心に演奏活動をしていた頃の録音であり、このコンビによるモーツァルトのピアノ協奏曲全曲録音の中の1枚で、バレンボイムがピアノと指揮の両方を行っている。2曲とも演奏内容は、いかにもバレンボイムらしく、馥郁とした優美な香りに満ちたピアノ演奏であると同時に、がっしりとした構成力と力強さとを兼ね備えた、正に歴史に残る名演奏といっても過言でないであろう。特にモーツァルトの第26番「戴冠式」と第27番のピアノ協奏曲は、シリーズの最後を飾る2曲のであることもあり、実に聴き応えある録音に仕上がっている。第26番「戴冠式」は、1788年2月に書かれた。レオポルト2世のフランクフルトにおける戴冠式の折に、モーツァルトが同地まで出かけて演奏会を催し、その際にこのピアの協奏曲を演奏したことにより「戴冠式」と呼ばれるようになった。一方、第27番は、モーツァルトの死の年である1791年1月5日に書かれた。この頃モーツァルトは貧困のどん底にあったわけだが、この曲はそんなことを少しも感じさせない、至高の極みに立った、モーツァルトの最後の境地を映し出す名曲となっている。このLPレコードのライナーノートで石井 宏氏は「第20番以降の8曲は、人類の遺産と呼べるほど優れた作品群である」と書いているが、このことを文字通り裏付けるような名演奏をこのLPレコードで聴くことができる。ダニエル・バレンボイム(1942年生れ)は、アルゼンチン出身のピアニスト・指揮者(現在の国籍はイスラエル)。1950年まだ7歳のときにブエノスアイレスでピアニストとしてデビュー。21歳でベートーヴェンのピアノソナタ全32曲を公開演奏している。ピアニストとしての名声を確固たるものとした後、1966年からイギリス室内管弦楽団とモーツァルトの交響曲録音を開始し指揮者デビューを果たす。1975年から1989年までパリ管弦楽団音楽監督に就任。1991年よりゲオルク・ショルティからシカゴ交響楽団音楽監督の座を受け継ぐ。さらにミラノ・スカラ座音楽監督を経て、1992年からベルリン国立歌劇場の音楽総監督を務めている。ミラノ・スカラ座音楽監督、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者を歴任。(LPC)