ベートーヴェン:交響曲第1番
交響曲第4番
指揮:ウィルヘルム・フルトヴェングラー
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1952年11月24日&27~28日(交響曲第1番)
1952年12月1~2日(交響曲第4番)
LP:東芝EMI WF‐60001
このLPレコードは、不世出の大指揮者であったウィルヘルム・フルトヴェングラー(1886年―1954年)が、ベートーヴェンの2つの交響曲を録音したもの。交響曲第1番は、1800年の初頭に完成したが、その時ベートーヴェン29歳であった。初演はベートーヴェン自身の指揮で、同年4月2日にウィーンのブルク劇場で行われた。一方、交響曲第4番は、1806年に短期間のうちに書き上げられたと考えられている。この年にベートーヴェンは、後に破談となるテレーゼと婚約しており、幸福感に満たされていた。このため第4交響曲は明るく清々しい気分に全体が覆われている。第3番「英雄」と第5番「運命」の間に挟まれた交響曲として、シューマンは「北欧神話の二人の巨人に挟まれたギリシャの乙女」と評した。フルトヴェングラーは、1886年にベルリンで生まれたが、指揮者としてのデビューは1906年。1922年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団およびベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任する。さらに、1927年ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任し、当時の指揮者として世界の頂点に立つことになる。しかし、第二次世界大戦後に、戦時中のナチ協力を疑われ、演奏禁止処分を受ける。1947年、裁判で無罪判決を受け、楽壇に復帰する。そして、ベルリン・フィルの終身指揮者に就任するなど、戦前の勢いを取り戻すかのような名演を聴かせた。フルトヴェングラーのベートーヴェンの交響曲の指揮は、何か宿命的な出会いを思わせる。ベートーヴェンは、その生涯を通して人間の自由と真の解放を願って作曲したという、それまでの作曲家には見られない類稀な作曲家であった。このようなベートーヴェンの作品を指揮するフルトヴェングラーの指揮ぶりはというと、曲の本質を的確に探り出し、それを情感激しく聴衆にぶつけ、その曲が持つ真価をオーケストラに最大限に発揮させる。つまり、この両者が出遭った時は、1+1が2ではなしに3や4にでもなるような相乗効果をもたらすのである。このLPレコードの交響曲第1番の出だしを聴いただけで、他の指揮者とは異なる、異様な高まりを聴き取ることができる。このLPレコードでのフルトヴェングラーは、第1番ではあくまで若々しく、力強く、しかも軽快な指揮をする一方、第4番の方はというと、後期の交響曲を連想させるようなスケールの大きい、深遠な表現が特に印象に残る。いずれも、この二つの交響曲を代表する録音として、記念碑的意味合いを持つを持つLPレコードといえる。(LPC)
ブラームス:ピアノソナタ第2番
パガニーニの主題による変奏曲
ピアノ:クラウディオ・アラウ
録音:1973年6月27日~29日(ピアノソナタ第2番)
1974年3月19日~22日(パガニーニの主題による変奏曲)
発売:1976年
LP:日本フォノグラム(フィリップスレコード) X‐7626(9500 066)
ブラームスは、生涯に3つのピアノソナタを残している。これらはブラームス初期の作品であり、その後作曲された名曲の森に比べれば、多少影が薄い存在になるのは止むを得ないところであろう。それに若書きのためであろうか、曲の持つ深みがピアニストの力量に大きく左右されてしまう。今回のLPレコードは、3曲あるブラームスのピアノソナタの第2番をチリ出身の名ピアニストであったクラウディオ・アラウ(1903年―1991年)が弾いた録音。結論を言うと「こんなにブラームスのピアノソナタが奥深く、美しい響きを奏でる曲であったとは驚き」ということになる。アラウのピアノは、ドイツ音楽の伝統に立脚したもので、実に堂々と真正面から巨匠の佇まいで弾き進む。さらにアラウのピアノの演奏が優れているのは、ぎすぎすした所がまるでなく、新鮮な果物のような、全体が艶やかな演奏となっていることであろう。 このことは、パガニーニの主題による変奏曲の演奏により一層当てはまる。聴きなれた曲が、アラウの演奏で新鮮な曲に生まれ変わり、馥郁とした香りを辺りに漂わす。クラウディオ・アラウは、7歳の時にベルリンに留学し、リストの晩年の弟子であったマルディン・クラウゼに師事した。そして1914年にベルリンでデビューを果たす。1970年にボンで開かれたベートーヴェンの生誕200年祭において、ピアノ協奏曲の独奏者に選ばれ、これにより当時最高のベートーヴェン弾きであることを実証した。アラウは、ドイツ的な要素とラテン系の要素の両方を持っているピアニストであった。ラテン的な輝く音色に加え、しっかりとした構成を持ってロマンの香り豊かな男性的な力強い表現力が、他のピアニストを大きく凌駕する点であった。そんなアラウがブラームスを弾くと、ドイツ的な重厚さに加え、ブラームスが憧れた南国的な明るさとのコントラストには筆舌に尽くせない美点がある。このLPレコードのA面に収録されているブラームスのピアノソナタ第2番は、ピアノソナタ第1番op.1より前に書かれた作品で、現存するブラームスの作品では、スケルツォop.4に次いで古い。1852年11月に完成され、翌年知り合ったシューマンの妻クララに捧げられた。B面のパガニーニの主題による変奏曲は、ブラームスがウィーンへ移住した1862年に秋に着手され、翌年完成した作品。ブラームスは、この曲を一種の練習曲として作曲したようだ。ヘンデルの主題による変奏曲とフーガop.24と並んでブラームスの変奏曲として、よく演奏される曲。(LPC)
~マリオ・デル・モナコ/オペラ・アリア集~
ヴェルディ:「オテロ」より“オテロの登場”/“清らかな思い出は遠いかなたへ”
プチーニ:「トゥーランドット」より“誰も寝てはならぬ”
ジョルダーノ:「アンドレア・シェニエ」より“ある日青空を眺めて”
ワーグナー:「ローエングリン」より“はるかな国に”
マスカーニ:「カヴァレリア・ルスティカーナ」より“母上よ、さらば”
マスネ:「ウェルテル」より“オシアンの歌「春風よ、なぜわたしを目ざますのか」”
ヴェルディ:「アイーダ」より“清きアイーダ”
プチーニ:「マノン・レスコー」より“なんとすばらしい美人”
マイヤベーア:「アフリカの女」より“おお、パラダイス”
ヴェルディ:「オテロ」より“オテロのモノローグ”
ビゼー:「カルメン」より“花の歌”
レオンカヴァルロ:「ラ・ボエーム」より“愛する面影”
ジョルダーノ:「アンドレア・シェニエ」より“五月の晴れた日のように”
テノール:マリオ・デル・モナコ
指揮:アルジェオ・クワドリ
管弦楽:ミラノ交響楽団
LP:東芝EMI EAC‐40158
その昔、“黄金のトランペット”と呼ばれたイタリアの名テノール歌手がいた。それが今回のLPレコードでオペラのアリア集を歌っているマリオ・デル・モナコ(1915年―1982年)である。モナコの代名詞みたいなっているのがヴェルディの「オテロ」である。1950年に「オテロ」を初めて歌い、1972年のブリュッセル(ベルギー王立歌劇場)の公演までに200回以上も同役を歌ったという。モナコの声は、誰よりも輝かしく高らかに響きわたることであり、このLPレコードでもそのことが聴き取れる。当時の人は、モナコの声を聴くだけで、たちまちその美声に痺れてしまったという。このLPレコードでもその高らかな美声をたっぷりと楽しめる。日本公演の模様は、このLPレコードの解説で、武石英夫氏が「デル・モナコの第一声から受けた衝撃に、改めて声の魅力、オペラの魅力を強烈に思い知らされた」と書いている通り、まだあまり本場のオペラに接することの少なかった当時(1959年)の日本人に強烈な印象を与えたことが読み取れる。また、同氏がこの解説で「FM放送が未だなかった当時、ラジオの第1放送と第2放送を使っての立体放送を通じて、日本のオペラ・ファンを驚嘆させた」と書いているところを読んで、「そうだ、当時はFM放送はまだ放送開始されておらず、ステレオ放送は2台のAMラジオ受信機で聴いていたんだ」と、暫し古き昔を思い出してしまった。マリオ・デル・モナコは、イタリアのフィレンツェ(一説にはガエタ)で生まれる。音楽好きな父と、声楽をたしなんだ母の下で育ち、父の勤務の関係から13歳でロッシーニの生地ペザロの音楽院に入学。初めはヴァイオリンを学んでいたが、併せて声楽を志した。14歳で近くの町の新しい劇場のこけら落としに、マスネ―の1幕の歌劇「ナルシス」で初舞台を踏むことになる。 本格的にオペラのデビューを飾ったのは、1940年、25歳の時、ミラノのプッチーニ劇場での「蝶々夫人」であった。第二次世界大戦では従軍したが、1945年、終戦とともに本格的な活動を開始し、1947年、ヴェロナの野外劇場で「アイーダ」に出演。その後世界各地で公演し、その名声を不動なものにしていった。マリオ・デル・モナコの歌声には、小細工がなく、よく開いた喉から”黄金のトランペット”と言われた、強靭なトランペットのような輝かしい響きを持った歌声が飛び出してくる。このLPレコードには、これらのマリオ・デル・モナコの歌声の特徴が明確に捉えられ、貴重な録音である。(LPC)
シューマン:歌曲集「詩人の恋」
シューベルト:歌曲選集
泉によせて
漁夫の恋の喜び
さすらい人
ドナウ河にて
さすらい人が月によせて
老人の歌
タルタスルの群れ
バリトン:ハンス・ホッター
ピアノ:ハンス・アルトマン
録音:バイエルン放送局制作の録音テープより
LP:日本コロムビア DXM-7-OP
ハンス・ホッター(1909年―2003年)は、ドイツの著名なバス・バリトン歌手であった。バリトンには、ハイ・バリトンとバス・バリトンがあり、バス・バリトンは、バリトンとバスの中間に位置する。ハンス・ホッターは、ミュンヘン音楽大学で哲学と音楽学を専攻する一方、音楽アカデミーで、指揮者を目指して、ピアノ、オルガン、対位法など音楽学全般を学んだ。最終的には歌手の道をを目指すこととなり、1930年トロッパウで「魔笛」でオペラデビューを果たすことになった。その後、プラハ国立歌劇場、ハンブルク国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場などで活躍する。1947年ロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場、1950年メトロポリタン歌劇場においてもデビュー。1952年バイロイト音楽祭に出演し、以後15年にわたって主要なワーグナー作品に出演し、当時、偉大なワーグナー歌手として認められていた。その低音を生かした力強い男性的な歌声は、ワーグナーの楽劇には打って付けの歌手として高い評価を受けていたのである。一方では、シューベルトやシューマン、ヴォルフなどのリート歌手として、日本においもリサイタルを開いていた。今回のLPレコードは、そんなホッターがシューマンの「詩人の恋」を録音した珍しい盤。自身のバス・バリトンという声域から、シューベルトの「冬の旅」や「白鳥の歌」ならともかく、シューベルトの「美しき水車小屋の娘」やシューマンの「詩人の恋」は、リサイタルでは絶対歌わなかったようで、このLPレコードで「詩人の恋」を聴けることは、ある意味では奇跡的な出来事といってもオーバーでないかもしれない。聴いてみると「詩人の恋」は、テノールが歌う“青春歌”とは大分趣が異なり、年老いた男性が、若い頃を回想して歌っているような感じがするのは致し方ないといったところか。しかし、その歌唱力はさすが大歌手という以外になく、その重厚さには圧倒される。一方、シューベルトの方は、「シューベルトの歌曲はこう歌うのが正統」とでも言っているようで、静寂さと奥深さがひしひしとリスナーに伝わり、シューベルトの歌の世界の素晴らしさを堪能することができる。この録音が行われたのは1950年代であり、ハンス・ホッターが40歳台と、肉体的にも精神的にも最も充実した時代であった。一方、ピアノのハンス・アルトマンは、当時リート歌手の名伴奏者として絶大な信頼を得ており、第二次世界大戦後は主としてミュンヘンで活躍した。ここでも、名伴奏者ぶりを如何なく発揮している。(LPC)