【三木城天守跡】
天正6年(1578年) 3月 五代目城主別所長治のとき、信長から離反したため秀吉が三木城を攻める。
高砂の梶原氏と明石の明石氏も離反。
4月 官兵衛、別所氏の救援にきた毛利勢を加古川の別府で撃退。
10月 有岡城の荒木村重が突如離反。
蜂須賀正勝が村重と交渉失敗。
官兵衛も小寺政職にそそのかされ村重を説得に行くが幽閉される。
天正7年(1579年)11月 有岡城落城。(村重は毛利方へ逃げる。)
天正8年(1580年) 1月17日 三木城落城。(別所一族自刀)
【別所長治 辞世の碑】
「今はただうらみも あらじ諸人のいのちに かはる我身とおもへば」
秀吉は籠城する三木城をなかなか落とせなかったので、城を包囲し兵糧攻めにする。
約1年8ヶ月城内では餓死者が続出し、天正8年1月17日長治は城兵の命と引き替えに一族と自刀し、三木城を開城。
この合戦が【三木の干殺し】です。
天守跡横に別所長治の石像があります。
かんかん井戸
本丸跡からの夕景、長治もこんな夕日を見ていたんでしょうか?
三木城包囲の秀吉軍武将配置図
三木城想像図 (下田勉氏の原図を元に作成されたもの)
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