<1話> <2話> <3話>
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あの夜から、私は原因不明の高熱を出した。
仕事の方はほとんど引き継ぎが終わっていたので、そのまま有給休暇の消化に入り、唯一引っ越しの準備が手つかずだった寝室で寝込んでいた。
心配した美奈子が、毎日見舞いに来てくれたけれど、彼との間に何があったのか聞くことも、彼の話をすることもせず、看病の合間に他の部屋の整理を黙ってやってくれた。
ただ、一度だけ、食器棚を整理している時に、これはどうする?と彼専用の茶碗を手に尋ねてきた。
彼の茶碗を見ると、胸が痛んだ。彼と食卓を共にすることは、もう二度とないだろう。そう思った途端、目の奥が熱くなって、私は慌てて茶碗から視線を外した。どうすればいいのか、思考回路が完全にいかれてしまったのだろう、何も考えが浮かばない。
「実家に送る?」
美奈子から提案してきた。男物の茶碗なんか送ったら、それを見た両親はどう思うだろう。失恋の痛手でパリに行ったとでも思いかねない。私は首を横に振った。
「それじゃ……」美奈子は茶碗に目を落とした。「私が預かっておくね」
思わず美奈子を見た。美奈子は、それでいいよね、と念を押すと、私の返事を待たずに、背中を向けて寝室を出ていった。
私と別れた後、彼が美奈子の店に行くかどうかは分からない。でも、私と彼のことを知っている美奈子なら、彼の茶碗を預けるには一番相応しい。
ほっとした途端、極度の疲労感と睡魔に襲われ、私は目を閉じた。
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パリを発つ日、田宮が空港まで私を見送ってくれた。チェックインを済ませた後、搭乗時刻まで時間があったので、空港内のカフェで時間を潰すことにした。
「こっちに戻ってくるのは11月だっけ?」
「うん」
「引っ越しの荷物整理とか手伝うよ。日本からも荷物を送ってくるんだろ」
「なるべく必要最小限にしようと思ってるけど……」でも助かる。ありがとう、と私は微笑んだ。
その後しばらく、私たちは黙ってカフェを口にしていた。先に沈黙を破ったのは田宮だった。
「彼……」
「え?」
「君の彼氏」
まさか相手を知っている、とでも言い出すのかと私は警戒した。
「彼が何?」
「いや……パリに行くことを賛成してくれそう?」
私は心の中でホッと胸をなで下ろした。そういう話か。私は微笑みながら肯いた。
「自分の夢に向かって頑張ってる人にエールを送る人だから。私のことも応援してくれると思う」
「彼、学校の先生でもやってるの?」
「ううん。なんで先生?」
「夢を応援するとか先生みたいじゃん」
「そんなの先生じゃなくてもするでしょ」
言い返しながら、彼が教壇に立っている姿を想像してみた。眼鏡をかけて真面目な顔をしていれば、彼はそれらしく見えるかもしれない。若い時はともかく、ここ数年は秀才や天才といった役をよく演じている。色白で整った顔立ちが知的な印象を与えるのだろうか。
私が心の中で笑っていると
「じゃあ何の仕事してる人?」田宮が聞いてきた。
「え?誰が?」わざと惚けた。
「彼氏だよ」
「それ、聞いてどうするの?」
「いや、どうもしないけど、先生じゃないなら何の仕事してるのかなって思っただけだよ」
「そう。でも、田宮君には関係ないことだよね」
「関係なくはないと思うな。俺、彼に負けたわけだし」
「あなたに再会する前から彼と付き合ってたの。もともと勝ち負けなんかあるわけないでしょ。それに彼を好きなのは仕事が理由じゃないから」
「でも、俺は敗北感があるよ。だから、君がどんな人を選んだのか知りたい」
「普通にね、いい人」
「なんだよ、それ」
「普通に、優しい人」
「会社員?」
私はちょっと考えてから、うん、と肯いた。彼と同じ事務所の先輩アイドルが、こういう時、職業欄に『会社員』と書くようにしている、と以前何かで話していたのを思い出したのだ。
「ふうん、何の会社?」
「……芸能プロダクション」
「ああ」
田宮が、なるほどねという得心した顔で頷いた。そのプロダクション所属のタレントを使った仕事で、私が彼と知り合ったという風に田宮は解釈したようだった。
それで納得したのならそれでいい。これ以上余計な詮索をされなくて済む。
芸能プロダクションの営業マンが私の相手だと思ったのだろう。田宮は急に興味を失ったのか、その後、彼のことを聞いてくることはなかった。
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最後の荷物が、引っ越し会社のトラックの荷台に積み込まれたのを見届けた私は、走り去るトラックを美奈子と一緒に見送った。
「ごめんね。最後まで付き合わせちゃって」
「どうせ昼間は暇なんだから、気にしないで」
暇なわけがない。ショットバーとはいえ、軽い食事のメニューも出す店だ。食材の買い出しや仕込みがあるはずなのに、熱を出した日から今日までの5日間、美奈子は毎日欠かさず看病と引っ越しの手伝いに来てくれた。
「本当にありがとう、タカヒロ」
「なによそれ」
ちょっとムッとした美奈子の腕に、私は自分の腕を回した。
「タカヒロが彼氏だったら良かったな」
「ありえない」
「もしもの話だって」
「もしもでも絶対ありえないから」
「もうそこまで言い切っちゃうんだ」
私たちは、自分の荷物を取りに、一旦部屋に戻った。
何一つなくなった部屋は、あまりにも開放的すぎて明るくて、まるで知らない場所のように見えた。
「本当に行くのね」
美奈子が空っぽの部屋を見回しながら、ポツリと言った。
「そうだね」
「そうだねって他人事みたい。後悔してるの?」
私は首を振った。
「自分が選んだ道だから、後悔なんかしない」
「なら良かった」
私は寝室だった部屋に足を向けた。
彼が取り付けてくれたシーリングファンはパリに持っていくつもりだったが、今度の部屋に取り付けられるかどうか分からないので、ベッドと一緒に実家に送った。一人暮らしの私の部屋から送ったダブルベッドを見て、両親はどう思うことだろう。
寝室のクロゼットの一角に、彼のパジャマや下着が入っていたストレージボックスがあったはずなのだが、美奈子が茶碗と一緒に引き取ったのだろうか、熱が下がったので、引越の準備に掛かろうとした時にはもう見あたらなかった。
そして……
私はずっと手に持っていた小箱に目を落とした。
誕生日に彼からもらった、私への信頼の証でもあった特別なプレゼント。いつかこれを堂々と使える時がくるのだろうかと思っていたのに、結局一度も使うことなく、二度と使えなくなってしまった。
私の隣に立った美奈子に、私はその箱を黙って差し出した。
「何?」
「これも預かってもらえないかな」
美奈子は小箱を手にして蓋を開けた。中身を見て、一瞬目を見開いた美奈子は、何も言わずに蓋を閉じると、私に箱を突き返してきた。
「これは預かれない」
「もし、彼がお店に来ることがあったら渡してほしいの」
美奈子はゆっくりと首を横に振った。
「ダメ。これはあなたが自分から彼に返さないと」
「……」
「ねえ。このままでいいの?」
何が?と声にならない言葉が口に上がる。
「最後に彼と何の話をしたか知らないけど、あなたたち二人のことだから、お互いにちゃんと話をしてないんじゃないの?あなたは勝手に彼との関係をジ・エンドにしているみたいだし」
その通りだった。あの日、互いの気持ちがすれ違ったまま、絶縁状態になってそれっきり。そして私は、彼とはもう終わったのだと、彼の気持ちをまたもや無視して、決めつけていた。
「老婆心から言うけど、この状態でパリに行くのは、あなたのためにならないし、彼のためにもならないと思う」
美奈子は私の手を取って、小箱を手のひらにそっと載せた。
「日本を発つ日まで、まだ時間はあるでしょ」
「……」
「限られた時間は大切にしなきゃね」
不意に、手の上の小さな箱が見えない重さを増した。
パリに発つまでの4日間は、実家で過ごすことにした。往復でそれぞれ1日とられてしまって、実質は2日間しか実家にはいられないが、他に行く場所もない。
両親には、一番はじめにパリ行きの話を電話で報告した。最初に電話に出た母は、声も出ないほどに驚いていた。次に電話口が父に代わると、もう少しよく考えてから決めた方がいい、日本の会社に転職じゃダメなのか?とパリ行きに難色を見せた。
でも、私の決意が変わらないと分かってからは、二人とも何も言わなくなった。両親の無言のエールが本当に嬉しかった。言葉がなくても、互いの思いが最終的に通じ合えるのは、やはり親子だからだろうか。
どれほど心を許しても、どんなに深く愛しても、結局、他人同士の間では言葉をもって伝えない限り、お互いの気持ちが分かり合えないのだとしたら、人ってなんて不器用な生き物なんだろう。だから、人間だけがたくさんの言語を持つようになったのかもしれない。
一生かかっても使い切れないほど無限に存在する言語は、人を癒し生きる力さえ与えるほど珠玉の言霊を生み出しながら、一方で人の心を容赦なく傷つけ悲しませることも難なく出来てしまう。
しかし、必要な言葉を使わないこともまた、人を傷つけてしまうことを、今回私は痛いほど知った。
実家に向かう新幹線の中で、私は何度も席を離れて、彼に電話をかけたが、呼び出し音の後に留守電に繋がるばかりだった。
やがて、駅に到着する車内アナウンスに電話を諦めて、ちゃんと話をしたいという趣旨の短いメールを慌てて送った。
窓の外は、すでに夕暮れから夜へとその色合いを変え、夕焼けの橙色の帯が西の空の果てにうっすらと滲んでいた。迫る闇には街の灯りが瞬いている。荷物を手に降車ドアに向かっていると、新幹線がゆっくりと駅のホームに滑り込んだ。
夏の盆休み以来、久しぶりの実家だった。母親の手料理を口にしながら家族と他愛のない会話を交わしたり、お風呂にゆったりと浸かったりと、到着した夜からのんびりとした時間を過ごしていると、これから4日後にパリへ発つことが、全部夢の中の出来事のような気がしてくる。
もちろん、夢などでないことは、ここ数日、業務連絡のように、というかほとんどが仕事の業務連絡だが……頻繁に入ってくる小暮マイコからのメールで十分に分かっている。今日もメールが来ていたが、読む気も起きずに放置していた。
夜、ベッドに横になりながら、私はただ一人、彼からの返事を待っていた。
最後に彼と会ったあの日。両手で顔を覆ったまま、私の手を強く振り払った彼の姿を思い出すたびに、耐えきれないほど激しい痛みが胸を襲う。
いやだ。こんな悲しい思い出なんかじゃなく、もっともっと、彼との楽しい思い出は他にいっぱいあるはずなのに。彼の笑顔だって目の前でいっぱい見てきたはずなのに。
すべて自業自得だってことくらいわかってる。自分のことしか考えていなかった私が、自分で撒いた種なんだとわかってる。いまさら後悔したって、取り戻せないことなんだってわかってる。
それでも……
勝手に溢れ出す涙を止めたくて、私はぎゅと強く目を閉じた。
翌日、私は学生時代の旧友たちと会ったりして、時間を過ごした。一人一人とは、盆暮れ休暇に会ったりしていたが、今回は私の送別会ということで、当時の仲間たちが声を掛け合って集まってくれた。
昼間から、ちょっとしたプチ同窓会みたいになって、昔話で盛り上がった。部活の思い出、みんなで嫌っていた先生の話、女子生徒に大人気だった先生の話……
「岸川先生、TOKIOの松岡君にぼれえ似とるって人気あったよね」
「うんうん、ぼれえ人気あった。バレンタインの時とかお祭り状態じゃったよね」
「先生の机の上がチョコでいっぱいで」
「車の後部座席に段ボールを積んで帰っとったもんね」
「あっそういや……」一人が私に目を向けた。「あんたジャニーズにハマっとらんかったっけ」
まさか話がそこに飛ぶとは。
「そうそう、ハマっとった。Kinki Kidsのファンクラブに入っとったじゃん」
「今もまだファンクラブ入っとるん?」
「いや、今は入っとらん……」
口の中が乾いたような気がして、急いで水を口にした。
「あ、もう卒業しちゃった?」
「ていうか、今はやっぱりジャニーズといったら嵐じゃろ」と、誰かが言うと、 「私、嵐のファンクラブ入っとるよ」と、もう結婚して子供もいる友人の一人が手を挙げた。
みんなの顔が一斉に、彼女の方を向いたので、私はちょっと安堵した。
「マジで?!」
「なにそれ。コンサートとか行っとるん?」
「行きたいんじゃけど、ひとっつもチケット取れんの。今年も大阪落選しちゃった」
「あんた子供いるのに、大阪まで行くん?」
「それか福岡」
「子供はどうするん?連れていくん?」
「旦那とお母さんが面倒みてくれとるけ、大丈夫」
「羨ましいなあ。いい旦那さんじゃない」
「うちの旦那じゃ、そんな行かせてくれんよ」
「コンサート、楽しい?」
「うん、ぼれえ楽しいよ。あれはハマる」
私は、作り笑いを顔に張り付けたまま、黙って友人たちの話を聞いていた。願わくば、このまま嵐の話だけで終わってほしかった。でも、最近テレビによく出ている彼らの話題が上がってくる可能性は高い。こんなところで、彼の名前を耳にしたくはなかった。私は、他の話題を探して振ってみた。
「そういえば、一美。宮原とはどうなったん?この前の同窓会で、二人盛り上がっとったじゃん」
「そうじゃ、どうなったん?」
「聞きたい?」
「うん」
「あのね、結婚、することになった」
一美の一言で盛り上がる友人たちの中で、私は、一人ホッと胸をなでおろしていた。一か八かの振りだったが、みんなの話題はジャニーズから完全に逸れてくれた。
結婚式での再会を約束しながら、私は友人たちと別れた。車をパーキングから出す前に、私は携帯を見た。メールの受信も電話の着信も、彼からは何も来ていない。
私とは話をしたくない、そういうことなのか。
先にパーキングを出る友人たちが、手を振っていることに気づいて、私は慌てて手を振った。
最後に車を出そうとした時、メールの着信音が鳴った。急いで受信BOXを開いてみたら、それは田宮からのメールだった。
(もうすぐだね。パリには何時に着く?迎えに行くよ)
私は返信もせずに、携帯をバッグの中に放り込んだ。
もう、自分の中でけりをつけるべきだった。パリに行ってしまえば、彼の名前を見ることも、彼の姿をテレビで見ることも、ラジオで声を聞くこともなくなる。仕事に追われているうちに、時が経てば、彼を思い出すこともなくなるはず。
ハンドルをきって車をパーキングから出した。車内に差し込む午後の陽射しが暖かい。このまま自宅に帰るのがもったいないほどの晴天だった。せっかくだから、ちょっと遠出してみようかな……
と、その時、携帯が鳴った。今度は電話の着信音だった。どうせ、友人の誰かが言い忘れたことがあるとかなんとか、そんな電話だろうと放っておいた。ちょうど信号が赤になったところで、まだ鳴っている携帯を取り出した。
液晶に出ている名前を見た途端、携帯を思わず握りしめた。ずっと待っていたはずの電話なのに、思いが強すぎて白昼夢でも見ているのかもしれないと、私は食い入るようにその名前を見つめた。携帯は鳴り止まない。胸が震えて、携帯を持つ手が震えた。電話に出ようとした時に、後ろの車がクラクションをさかんに鳴らしていることに気づいた。
電話が鳴り止まないようにと願いながら、信号を通リ過ぎてすぐに、路肩に車を止めて電話に出た。緊張からか、もしもしという声が上ずる。あっという小さい声が聞こえて、しかしそれ以上何も聞こえてこない。電話を切られると思った私は「きみ君。お願い、切らないで」と早口で言った。
― 切らんよ。俺のほうからかけてんやから。
いつもの彼の声が返ってきた。緊張していた心が、その声でほぐれていくのがわかる。
― おまえ、どこにおるん?
「実家」
― おん。福山やろ。
「うん」
― 俺……俺、どっち行けばええんやろ?
「え?」
― 釣竿みたいなん持ったお爺さんの銅像がおんねんけど……
思わず声をあげそうになって、私は口を押さえた。心臓が早鐘のように鳴りだした。
― なんやこれ、ご、ご、ごうら?つりびと?つりじん?
間違いない。彼はこの福山に来ている。泣き出しそうになりながら、私は言った。
「きみ君、そこ動かんといて。いますぐ行くから」
私は携帯を切って、アクセルを強く踏み込んだ。
To be continued
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ピアノの練習をサボって、短編書いてた管理人です…
明日、午前中からレッスンなのに。ヤバイぜ。ちょっと早起きして練習しようかな
でもね、東京ドームの公演が始まる前に、なんとかこの連載を終わらせたいんですよ。
次回が最終話となりますけども、この4話でなんとなく終わりが見えちゃいましたかね(笑)
でも、まあ、それでも最後まで読んでいただいて、お気軽に感想などいただければと。
実は「Loving YOU」をいったん終わらせようと思って、今回この連載を書き始めました。
恋愛もので、愛し合ってる二人を書くのって、だんだんネタが尽きてきちゃうと、似たような話になっちゃうんですよね。
かといって、ドラマみたいに、彼のことが好きな他の女子を出して三角関係とか、そんなんライバルがいるなんて、書くのにテンション上がらんし
あ、ただし逆はOKね。2人の男性から愛されてるとか、超テンション上がるやん(笑)
なにしろ、もともとの発想が「妄想」ですから。楽しい妄想を膨らませて書いてるわけやから。
いまはちょっと悩んでます。
書かないって決めたら、また書きたくなるような気もするし。
それに、札幌、福岡、ライブでの横山さん見てたらね、やっぱり、まだまだ彼と『妄想の中で』イチャイチャしてたいなーって思うし。うん。マルちゃんになんか負けてらんないですよ(笑)
まあ、とりあえず最終話、16日までには仕上げられるように頑張ります。
16日まで…
いや、東京ドーム公演が終わるまでに仕上げられるように頑張ります(笑)
ところで、3話、4話と「彼」の出番が少なくて、それを楽しみにされていた方にはほんと申し訳ないと思ってます、はい