8月15日。
我が家では、この日の夕食は『すいとん』。
そう決まっていました。
既に家を出てから随分経つので、今でも実家ではそれが続いているのか分からないのですが…。
当時、父は学徒動員で『飛燕』の脚を作っていたらしく、一年か二年早く生まれていたら戦地に赴いていたようです。
郷里を遠く離れ、名古屋まで連れて行かれる際の話は何度も聞きました。
突然、その日の何時までに荷物をまとめて駅に集合しろと命令があり、夜行列車に乗せられたとのこと。
道中、窓にはブラインドを降ろさなければならず、暑くても窓を開けたり、外を見てはいけなかったのだそうです。途中、呉など海軍の要衝を通るので、機密保持の意味合いがあったのでしょう。
一体、どこを走ってどこへ向かっているのか分からないままに、再び号令で列車を降ろされ、熱田神宮に着いて名古屋だと知ったらしいです。
そして、整列して戦勝祈願。
この後の話は、詳しく聞いたことがありません。
郷里も名古屋も激しい空襲を受けて、多くの同窓生や友人を亡くしたようですが、そのことはほとんど知らないまま今日に至ってしまいました。
(確か旧制高校の同窓会で)何年か前にその頃のことを書籍にまとめる為にしたためていた原稿(昔取った杵柄?!)を、盗み見るように目にしたので知っている程度。
これではいかん…。
ネットで検索したら、私も存じ上げている父の友人の中に、その頃のことを綴っていらっしゃる方がおられたので読んでみました。
そこからは、勤労動員で長崎の原爆で亡くなられたり被爆された方がいらっしゃったことも知りましたし、学び舎は空襲によって全焼、昭和22年9月に元の場所に新校舎が建てられるまで、学校ごと疎開していたらしいことも分かりました。
その後著名になられた方も多く、若い頃のヤンチャ振り(?)に驚いたり、恩師の方々が、戦中にあって敗戦を見越した教えをされていたこと、戦後、状況が180°変わっていく中での皆さんの行動や言動に胸を突かれました。アイデンティティの喪失…だなんて、軽々しく言えるものではないのでしょうけれど。
しかしながら、戦後すぐや大学に進むまで、父がどこでどう過ごしていたのかは不明なまま。
聞くチャンスはあるのかなぁ…いや、作るべきなのでしょう。
知覧や万世の飛行場が建設されるにあたり、大陸から徴用されてきた方々の話や特攻隊の話など、お盆や法事で親戚などが集まった折に耳にすることがあります。
父の人生の中では郷里で過ごした時間というのはほんの少しだった訳で、お国訛りは普段は全く出ませんが、その父の郷里のことを、盆踊りの頃には特に強烈に思い出します。
踊り手の老女達の祈りを強く感じたのも、土地柄だったのかも知れません。
母も空襲で逃げ惑ったことがあり、今でも飛行機が急降下する時の音を聞くとゾッとすることがあると言います。
グラマンの音を思い出すのでしょうか…。
詳細は分かりませんが、ある時には祖父(母の父)の機転でみんなが避難している場所とは違う所へ一家で逃げて難を逃れたとか。
いつもの防空壕に避難していたら、助からなかった。
つまり、ご近所や友達の中には…。(;_;)
私はそんな状況には生涯身を置きたいとは思いません。
私が幼少期を過ごした茅ヶ崎の海岸には、謎の物体がありました。
国木田独歩が結核の治療をしたという南湖院。
ここは、子供達が肝試しをする格好の場所となっていましたが(現在、跡地は老人ホーム?)、その近くの松林の中にコンクリートの台座に八角形(だったと思うのだけれど)の戦車の絵が描かれた円筒状の物が載っていました。
今となっては記憶が曖昧なのですが…。
黒いカラスのようなオジさん達がサーフィンに興じている海岸から目と鼻の先に、似つかわしくない不思議な物体。
子供心におかしいなぁと思っていました。
(まだウェットスーツは黒いゴム製の物しかない時代でしたし、小学生から見たら、みんなオジさんに見えたのです。随分若かったのでしょうけれどネ。^^;;)
それは来襲するB29を落とすために設けられた、砲台(の台座?)ではないかと思うのですが…。
このページには出ていません。違ったのかしらん?
(お笑いネタということになってはいますが)このページには米軍の上陸地として茅ヶ崎が想定されていたと書かれています。
海軍砲術学校で検索すると、「幻の」とか「毒ガス製造」(寒川だけではなく、旧平和学園にあたる場所でも作られていた?)と出てくるし…砲術学校はあったのかなかったのかは定かではありませんが、いずれにしても南湖院は海軍に接収されていたので、何らかの関係施設があったことは間違いないでしょう。
…と思っていたら、見つけました。
海軍唯一の自走砲隊ということのようです。
(ちなみにこの自走砲ですが、この夏、終戦を迎えた地の砂浜からひょっこり姿を現したとのニュースを見ました。砲身や随分錆びてはいますが、どこからみても戦車の形を留めていました。そこは多くの人で賑わう海水浴場で、その片隅のヒルガオが少しはびこる砂地に、戦争を語る鉄の塊が今も眠っているとは予想だにしません。)
↑
なんだか、ミリタリー・ヲタクっぽい感じになってきちゃったヨ…。
肩幅が広く腕が長い(足は短い;_;)、色黒…でカーキ色は良く似合います。迷彩柄も着ちゃいます。エポーレットがついたミリタリー・ファッションも好きですが…。(^^;;)
同じ頃父の書棚に並んでいた書籍の背表紙にあった、アッツやキスカ(あのぉ~、もしやと思いますが殺虫剤の名前ではありませんよ。霧つながりということはあるかも知れませんが…。^_^;)の文字。
http://members.at.infoseek.co.jp/saintex_kasuki/attu_kisuka/attu_kisuka.htm
(↑こちらのサイトは地図が多いという理由で選んでみましたが、賛同しかねるご意見もお持ちの方のような…。^_^;)
その頃の私は、怪獣の名前みたい…だなんて思っていました。
学校の種苗頒布会で『アッツ桜』を見つけ、何か関係があるのかな…と、ピンクの花を愛でていましたが、付けられていた説明にはアフリカ原産とあり、アッツ=アフリカという図式が最初に植え付けられてしまいました。
積極的に地図で探すようなことは、その頃はしていなかったということです。(^_^;)
(アフリカ原産なのに、何故アッツ桜なのか?!下記をご参照下さい。)
http://yasashi.info/ro_00003.htm
http://yasashi.info/ro_00003g.htm
それから、アッツとキスカがどこにあるのか具体的に知ったのは、何時の頃からか好きになった地図を見ていて気づいたか、天気図を書くのに必要で、気象通報を聞くようになってからのことではないでしょうか?
気象通報では日本各地とその周辺諸国のデータが扱われるのに、そこへアフリカ(だと思っている)地名が出てくるのはおかしいし…。
wikipediaによると観測地一覧には出ていないのですが、日本を通過した低気圧などはアリューシャン列島の方へ進んでいくことが多いので、船舶からの入電として、度々出てきたのかも知れません。
より身近に思うようになったのは、アラスカに通うようになってから。
いずれの地もアラスカ州な訳で、アンカレジの歴史博物館には、当時の様子がアメリカの目線で展示されています。
余り知られていないような気がするのですが、オーロラ・ウォッチングで訪れる人が多いフェアバンクスの、これまたツアーでは大抵観光に組み込まれているアラスカ州立大学フェアバンクス校(UAF)の博物館の展示にも、アッツ島とキスカ島についての物が結構あります。(もちろん日本軍は悪として扱われているし、アラスカ・ハイウェイが本格的に整備されたのも、日本侵攻と深くかかわりがある訳で…。)
現在ポジをスキャンできないので画像がアップできません。画像が小さいけれど、世界一周旅行中の石川夫妻のところをご紹介しておきます。
また、一時リーヴ・アリューシャン航空がアンカレジ~根室間を飛ばす計画がありました。
両親と一緒にアラスカを訪れた際に、父はアンカレジのリーヴ・アリューシャン航空オフィスに掲げられたアリューシャン列島の地図を感慨深げに眺めておりました。
その2年後、この航空会社は事実上倒産…。(^_^;)
話がドドッと逸れて、思いつくままにしたためてしまいました。
周りを見回すと、友人の両親に比べると私の両親はちょっと年齢が上であることが多いせいか、多くの友人達は戦争体験を親から聞いたことがないと言います。
自身で記憶になかったり体験していなければ、話すことは難しいのかも知れませんが、あっても話したがらないようです。
ですから、8月15日には毎年すいとんを食べる…というと、何で?と聞き返されることも多かったのです。
私の世代ですらそうなのですから、今の若い人たちが知らないのも無理はない…だなんて言いたくはありません。
今の状況には、大いに危惧をしています。
食べながら、母は色々話してくれました。
その頃はもちろんお肉など入っている筈もなく、真っ白な小麦粉で作った訳もありません。入っていたのは芋のツルくらいだったとか。
当たり前ですが、食べ物を粗末にしてはいけないということですよね。
母が可愛がって育てていたウサギが、何時の間にやらみんなのお腹に入っていた話…祖母や大叔母が持っていた着物が、次々と食べ物になった話…。
(その中で残った数少ない着物を、今私が着ています。麻の葉模様の玉虫で、お気に入りの一枚。^^)
今話題の、これも食育ってヤツだったのでしょうかね。
母もそうですが、そんな話を沢山聞かされて育ったせいか、私も「もったいないお化け」が出ちゃうようなヒトです。
カオスですな。(^_^;)
つらつらとそんなことを思い出す、毎年8月15日なのでした。
我が家では、この日の夕食は『すいとん』。
そう決まっていました。
既に家を出てから随分経つので、今でも実家ではそれが続いているのか分からないのですが…。
当時、父は学徒動員で『飛燕』の脚を作っていたらしく、一年か二年早く生まれていたら戦地に赴いていたようです。
郷里を遠く離れ、名古屋まで連れて行かれる際の話は何度も聞きました。
突然、その日の何時までに荷物をまとめて駅に集合しろと命令があり、夜行列車に乗せられたとのこと。
道中、窓にはブラインドを降ろさなければならず、暑くても窓を開けたり、外を見てはいけなかったのだそうです。途中、呉など海軍の要衝を通るので、機密保持の意味合いがあったのでしょう。
一体、どこを走ってどこへ向かっているのか分からないままに、再び号令で列車を降ろされ、熱田神宮に着いて名古屋だと知ったらしいです。
そして、整列して戦勝祈願。
この後の話は、詳しく聞いたことがありません。
郷里も名古屋も激しい空襲を受けて、多くの同窓生や友人を亡くしたようですが、そのことはほとんど知らないまま今日に至ってしまいました。
(確か旧制高校の同窓会で)何年か前にその頃のことを書籍にまとめる為にしたためていた原稿(昔取った杵柄?!)を、盗み見るように目にしたので知っている程度。
これではいかん…。
ネットで検索したら、私も存じ上げている父の友人の中に、その頃のことを綴っていらっしゃる方がおられたので読んでみました。
そこからは、勤労動員で長崎の原爆で亡くなられたり被爆された方がいらっしゃったことも知りましたし、学び舎は空襲によって全焼、昭和22年9月に元の場所に新校舎が建てられるまで、学校ごと疎開していたらしいことも分かりました。
その後著名になられた方も多く、若い頃のヤンチャ振り(?)に驚いたり、恩師の方々が、戦中にあって敗戦を見越した教えをされていたこと、戦後、状況が180°変わっていく中での皆さんの行動や言動に胸を突かれました。アイデンティティの喪失…だなんて、軽々しく言えるものではないのでしょうけれど。
しかしながら、戦後すぐや大学に進むまで、父がどこでどう過ごしていたのかは不明なまま。
聞くチャンスはあるのかなぁ…いや、作るべきなのでしょう。
知覧や万世の飛行場が建設されるにあたり、大陸から徴用されてきた方々の話や特攻隊の話など、お盆や法事で親戚などが集まった折に耳にすることがあります。
父の人生の中では郷里で過ごした時間というのはほんの少しだった訳で、お国訛りは普段は全く出ませんが、その父の郷里のことを、盆踊りの頃には特に強烈に思い出します。
踊り手の老女達の祈りを強く感じたのも、土地柄だったのかも知れません。
母も空襲で逃げ惑ったことがあり、今でも飛行機が急降下する時の音を聞くとゾッとすることがあると言います。
グラマンの音を思い出すのでしょうか…。
詳細は分かりませんが、ある時には祖父(母の父)の機転でみんなが避難している場所とは違う所へ一家で逃げて難を逃れたとか。
いつもの防空壕に避難していたら、助からなかった。
つまり、ご近所や友達の中には…。(;_;)
私はそんな状況には生涯身を置きたいとは思いません。
私が幼少期を過ごした茅ヶ崎の海岸には、謎の物体がありました。
国木田独歩が結核の治療をしたという南湖院。
ここは、子供達が肝試しをする格好の場所となっていましたが(現在、跡地は老人ホーム?)、その近くの松林の中にコンクリートの台座に八角形(だったと思うのだけれど)の戦車の絵が描かれた円筒状の物が載っていました。
今となっては記憶が曖昧なのですが…。
黒いカラスのようなオジさん達がサーフィンに興じている海岸から目と鼻の先に、似つかわしくない不思議な物体。
子供心におかしいなぁと思っていました。
(まだウェットスーツは黒いゴム製の物しかない時代でしたし、小学生から見たら、みんなオジさんに見えたのです。随分若かったのでしょうけれどネ。^^;;)
それは来襲するB29を落とすために設けられた、砲台(の台座?)ではないかと思うのですが…。
このページには出ていません。違ったのかしらん?
(お笑いネタということになってはいますが)このページには米軍の上陸地として茅ヶ崎が想定されていたと書かれています。
海軍砲術学校で検索すると、「幻の」とか「毒ガス製造」(寒川だけではなく、旧平和学園にあたる場所でも作られていた?)と出てくるし…砲術学校はあったのかなかったのかは定かではありませんが、いずれにしても南湖院は海軍に接収されていたので、何らかの関係施設があったことは間違いないでしょう。
…と思っていたら、見つけました。
海軍唯一の自走砲隊ということのようです。
(ちなみにこの自走砲ですが、この夏、終戦を迎えた地の砂浜からひょっこり姿を現したとのニュースを見ました。砲身や随分錆びてはいますが、どこからみても戦車の形を留めていました。そこは多くの人で賑わう海水浴場で、その片隅のヒルガオが少しはびこる砂地に、戦争を語る鉄の塊が今も眠っているとは予想だにしません。)
↑
なんだか、ミリタリー・ヲタクっぽい感じになってきちゃったヨ…。
肩幅が広く腕が長い(足は短い;_;)、色黒…でカーキ色は良く似合います。迷彩柄も着ちゃいます。エポーレットがついたミリタリー・ファッションも好きですが…。(^^;;)
同じ頃父の書棚に並んでいた書籍の背表紙にあった、アッツやキスカ(あのぉ~、もしやと思いますが殺虫剤の名前ではありませんよ。霧つながりということはあるかも知れませんが…。^_^;)の文字。
http://members.at.infoseek.co.jp/saintex_kasuki/attu_kisuka/attu_kisuka.htm
(↑こちらのサイトは地図が多いという理由で選んでみましたが、賛同しかねるご意見もお持ちの方のような…。^_^;)
その頃の私は、怪獣の名前みたい…だなんて思っていました。
学校の種苗頒布会で『アッツ桜』を見つけ、何か関係があるのかな…と、ピンクの花を愛でていましたが、付けられていた説明にはアフリカ原産とあり、アッツ=アフリカという図式が最初に植え付けられてしまいました。
積極的に地図で探すようなことは、その頃はしていなかったということです。(^_^;)
(アフリカ原産なのに、何故アッツ桜なのか?!下記をご参照下さい。)
http://yasashi.info/ro_00003.htm
http://yasashi.info/ro_00003g.htm
それから、アッツとキスカがどこにあるのか具体的に知ったのは、何時の頃からか好きになった地図を見ていて気づいたか、天気図を書くのに必要で、気象通報を聞くようになってからのことではないでしょうか?
気象通報では日本各地とその周辺諸国のデータが扱われるのに、そこへアフリカ(だと思っている)地名が出てくるのはおかしいし…。
wikipediaによると観測地一覧には出ていないのですが、日本を通過した低気圧などはアリューシャン列島の方へ進んでいくことが多いので、船舶からの入電として、度々出てきたのかも知れません。
より身近に思うようになったのは、アラスカに通うようになってから。
いずれの地もアラスカ州な訳で、アンカレジの歴史博物館には、当時の様子がアメリカの目線で展示されています。
余り知られていないような気がするのですが、オーロラ・ウォッチングで訪れる人が多いフェアバンクスの、これまたツアーでは大抵観光に組み込まれているアラスカ州立大学フェアバンクス校(UAF)の博物館の展示にも、アッツ島とキスカ島についての物が結構あります。(もちろん日本軍は悪として扱われているし、アラスカ・ハイウェイが本格的に整備されたのも、日本侵攻と深くかかわりがある訳で…。)
現在ポジをスキャンできないので画像がアップできません。画像が小さいけれど、世界一周旅行中の石川夫妻のところをご紹介しておきます。
また、一時リーヴ・アリューシャン航空がアンカレジ~根室間を飛ばす計画がありました。
両親と一緒にアラスカを訪れた際に、父はアンカレジのリーヴ・アリューシャン航空オフィスに掲げられたアリューシャン列島の地図を感慨深げに眺めておりました。
その2年後、この航空会社は事実上倒産…。(^_^;)
話がドドッと逸れて、思いつくままにしたためてしまいました。
周りを見回すと、友人の両親に比べると私の両親はちょっと年齢が上であることが多いせいか、多くの友人達は戦争体験を親から聞いたことがないと言います。
自身で記憶になかったり体験していなければ、話すことは難しいのかも知れませんが、あっても話したがらないようです。
ですから、8月15日には毎年すいとんを食べる…というと、何で?と聞き返されることも多かったのです。
私の世代ですらそうなのですから、今の若い人たちが知らないのも無理はない…だなんて言いたくはありません。
今の状況には、大いに危惧をしています。
食べながら、母は色々話してくれました。
その頃はもちろんお肉など入っている筈もなく、真っ白な小麦粉で作った訳もありません。入っていたのは芋のツルくらいだったとか。
当たり前ですが、食べ物を粗末にしてはいけないということですよね。
母が可愛がって育てていたウサギが、何時の間にやらみんなのお腹に入っていた話…祖母や大叔母が持っていた着物が、次々と食べ物になった話…。
(その中で残った数少ない着物を、今私が着ています。麻の葉模様の玉虫で、お気に入りの一枚。^^)
今話題の、これも食育ってヤツだったのでしょうかね。
母もそうですが、そんな話を沢山聞かされて育ったせいか、私も「もったいないお化け」が出ちゃうようなヒトです。
カオスですな。(^_^;)
つらつらとそんなことを思い出す、毎年8月15日なのでした。