◆映画『北辰斜にさすところ』
物語(あらすじ)
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=soranokiroku-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B0007YVVES&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=ACCCF5&bg1=ACCCF5&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="right"></iframe> 『北辰斜めに』は、旧制第七高等学校造士館の第十四回開校記念祭歌で大正4年の作。(映画公式サイトでは『北辰斜にさすところ』となっていますが、七高寮歌集では『北辰斜めに』の記載)
北辰とは北極星のことで、『北辰斜め』は北極星が低く見える鹿児島のことを表しています。
そして、巻頭言の最初は『流星落ちて住む処』。
幼少から星に魅せられた私は、歌の中身は分からないままにどこか惹かれた歌でした。(雪月花を詠じた寮歌は多いですけれどネ)
旧制七高を(一部の)母体とした鹿児島大学では既に忘れられようとしているとのことですが、今でも寮や運動部などでは歌い継がれているとも聞きます。
(↑時の流れでしょうけれど、一般の店頭に並ぶ寮歌のCDはほとんどない状況。リンクでご紹介したボニー・ジャックスの歌では優しすぎるというか泥臭さや力強さに欠けそうに思われます。寮歌祭は、未だ各地で盛大に行われていると見聞きしますので、インディーズ盤(自主制作)は多いのかも知れません。)
古の戦場での名乗りを思わせるような口上(巻頭言)が朗々と吟ぜられた後、「アイン!ツヴァイ!ドライ!」で歌が始まります。(巻頭言は昭和6年に加えられた模様)
鹿児島出身の方ばかりではない筈ですが(開校当初の志しから考えれば、多くを鹿児島県人が占めていてもおかしくはない?)、私がこれまで耳にした巻頭言は、どこか薩摩訛(かごま弁)めいた節回しで、それがまた良かったり…(たまたま薩摩出身の方が多かった可能性大)。
鼓舞するような掛け声と共に、寮歌祭などでは大太鼓が入るようですが、当時、普通に歌われる時には鍋釜など音が出るものならば何でも叩いていたのではないでしょうか?(^_^;)
漢詩を思わせる歌詞に、哀愁を帯びた旋律※(←音が出ます♪作曲者・須川政太郎氏に関するページ)ではありますが威勢の良い曲が載せられています。(メロディーをこちらでも拝聴できます)
※大正9年版の旋律は、長調で随分と明るい曲調。
歌詞は振り仮名がないと読めなかったり意味不明の部分があったり…旧制高校生はエリート集団で、学業も今とは比べ物にならないほどのレヴェルを修めていたことが垣間見えます。(^^ゞ)
九州の冬は存外寒いのでマント必携だったかも知れませんが、腰から手拭いをぶら下げ高下駄を履き、黒光りする蝙蝠を思わせるマントに身を包んだ青年の群れという、絵に描いたようなバンカラの人たちを思い描いてしまう訳ですが、映画公式サイトに掲げられている写真を拝見するに、当たらずとも遠からずのようです。
血気盛んな若人がダイヤモンドの内外で熱き戦いを繰り広げていた…颯爽と風を切ってカッコ良い!と憧れる女学生も多かったのでしょうか?
余談ながら、寮では蚤や虱、そして空腹との闘いが繰り広げられていたと推察されます。(^^;;)
大正11年のことですから本作の舞台より少し前の出来事になるかも知れませんが、野球部対五高戦の応援団乱闘未遂事件というのがあり、以降戦争などで昭和21年まで七高対五高の野球試合は中断されたそうです。
五高(熊本大の前身)と七高(鹿児島大の前身)との関係は、意味合いはかなり違うのかも知れませんが、早慶戦のようなものだったのでしょうか?
ああ若き日の光栄は-七高時代回顧-の中の対五高野球戦に以下の記述が見つかります。
昭和、戦争の真っ只中の青春。
多くの学友が散華されたり、空襲などで尊い命を落とされた事実。
少なからず毎日が死と隣り合わせだった筈ですが、様々な話を伺ったりしたためられた文章からは、その狭間の中でも確かに彼らはキラキラと輝いた時代を生きていたように思われるのです。
あの時代からは想像も付かないほど、自由な校風が浮かび上がってきます。
動員で長崎の三菱重工へ赴かれた方々が被爆された話を読むにつけ、遺された方々が何故その極限状況の中でさえ、他人への気遣いや優しさを持って失わずにいられたのかと胸が詰まり、涙が止まりません。
(自らの命の危険を顧みずに行方知れずの学友を探したり、様々な方を助けるために手を尽くすこともさることながら、原爆投下の夕刻、熱傷や外傷を負いつつも命からがら逃げ延びた山腹で、ある生徒が教師に「畑の胡瓜を失敬してはいけないでしょうか?」と問うシーンにはことさら驚愕しました。ナンバー・スクールに学ぶ方々は、ノブレス・オブリージュを担っていたということなのか、懐古趣味に走るつもりはないですが、それが日本人というものだったのでしょうか?)
旧制高校は昭和22年の新学制施行で無くなったものと思い込んでいましたが、昭和25年卒が最終ですね。
この歌に送られて旅立った人を偲んで…。
映画の完成を待ちたいと思います。
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=soranokiroku-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4166603558&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=ACCCF5&bg1=ACCCF5&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="right"></iframe>▼第七高等学校造士館 (旧制)@wikipedia
▼北辰斜に@wikipedia
▼造士館と七高造士館
▼寮歌と花と古寺巡礼
▼七高造士館@google
▼第七高等学校造士館 @鹿児島大学理学部同窓会
七高の資料などは、1945年6月の鹿児島空襲、1952年の鹿児島大火によって多くを失っているとのこと。(空襲では校舎はほぼ全焼、天文観測室は類焼を免れて残りました)
手元に残っている資料の写しなど、今こそまとめておかなければ永遠に分からなくなってしまうのでしょう。
▼七高、そは永からぬ三年かし 卒業生 原後三治氏による
▼『北辰斜め』、『七高造士館』、『寮歌』関連リンク
▼七高造士館に関する書籍
物語(あらすじ)
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=soranokiroku-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B0007YVVES&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=ACCCF5&bg1=ACCCF5&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="right"></iframe> 『北辰斜めに』は、旧制第七高等学校造士館の第十四回開校記念祭歌で大正4年の作。(映画公式サイトでは『北辰斜にさすところ』となっていますが、七高寮歌集では『北辰斜めに』の記載)
北辰とは北極星のことで、『北辰斜め』は北極星が低く見える鹿児島のことを表しています。
そして、巻頭言の最初は『流星落ちて住む処』。
幼少から星に魅せられた私は、歌の中身は分からないままにどこか惹かれた歌でした。(雪月花を詠じた寮歌は多いですけれどネ)
旧制七高を(一部の)母体とした鹿児島大学では既に忘れられようとしているとのことですが、今でも寮や運動部などでは歌い継がれているとも聞きます。
(↑時の流れでしょうけれど、一般の店頭に並ぶ寮歌のCDはほとんどない状況。リンクでご紹介したボニー・ジャックスの歌では優しすぎるというか泥臭さや力強さに欠けそうに思われます。寮歌祭は、未だ各地で盛大に行われていると見聞きしますので、インディーズ盤(自主制作)は多いのかも知れません。)
古の戦場での名乗りを思わせるような口上(巻頭言)が朗々と吟ぜられた後、「アイン!ツヴァイ!ドライ!」で歌が始まります。(巻頭言は昭和6年に加えられた模様)
鹿児島出身の方ばかりではない筈ですが(開校当初の志しから考えれば、多くを鹿児島県人が占めていてもおかしくはない?)、私がこれまで耳にした巻頭言は、どこか薩摩訛(かごま弁)めいた節回しで、それがまた良かったり…(たまたま薩摩出身の方が多かった可能性大)。
鼓舞するような掛け声と共に、寮歌祭などでは大太鼓が入るようですが、当時、普通に歌われる時には鍋釜など音が出るものならば何でも叩いていたのではないでしょうか?(^_^;)
漢詩を思わせる歌詞に、哀愁を帯びた旋律※(←音が出ます♪作曲者・須川政太郎氏に関するページ)ではありますが威勢の良い曲が載せられています。(メロディーをこちらでも拝聴できます)
※大正9年版の旋律は、長調で随分と明るい曲調。
歌詞は振り仮名がないと読めなかったり意味不明の部分があったり…旧制高校生はエリート集団で、学業も今とは比べ物にならないほどのレヴェルを修めていたことが垣間見えます。(^^ゞ)
九州の冬は存外寒いのでマント必携だったかも知れませんが、腰から手拭いをぶら下げ高下駄を履き、黒光りする蝙蝠を思わせるマントに身を包んだ青年の群れという、絵に描いたようなバンカラの人たちを思い描いてしまう訳ですが、映画公式サイトに掲げられている写真を拝見するに、当たらずとも遠からずのようです。
血気盛んな若人がダイヤモンドの内外で熱き戦いを繰り広げていた…颯爽と風を切ってカッコ良い!と憧れる女学生も多かったのでしょうか?
余談ながら、寮では蚤や虱、そして空腹との闘いが繰り広げられていたと推察されます。(^^;;)
大正11年のことですから本作の舞台より少し前の出来事になるかも知れませんが、野球部対五高戦の応援団乱闘未遂事件というのがあり、以降戦争などで昭和21年まで七高対五高の野球試合は中断されたそうです。
五高(熊本大の前身)と七高(鹿児島大の前身)との関係は、意味合いはかなり違うのかも知れませんが、早慶戦のようなものだったのでしょうか?
ああ若き日の光栄は-七高時代回顧-の中の対五高野球戦に以下の記述が見つかります。
歴史をたづぬれは五高・七高野球戦は大正初期にその源を発し、毎年一回夏あるひは冬、鶴丸城下において、あるひは五高武夫原において、決死の戦ひをくりひろげてきた。過去の戦蹟は七高が圧倒的に優勢である。
昭和、戦争の真っ只中の青春。
多くの学友が散華されたり、空襲などで尊い命を落とされた事実。
少なからず毎日が死と隣り合わせだった筈ですが、様々な話を伺ったりしたためられた文章からは、その狭間の中でも確かに彼らはキラキラと輝いた時代を生きていたように思われるのです。
あの時代からは想像も付かないほど、自由な校風が浮かび上がってきます。
動員で長崎の三菱重工へ赴かれた方々が被爆された話を読むにつけ、遺された方々が何故その極限状況の中でさえ、他人への気遣いや優しさを持って失わずにいられたのかと胸が詰まり、涙が止まりません。
(自らの命の危険を顧みずに行方知れずの学友を探したり、様々な方を助けるために手を尽くすこともさることながら、原爆投下の夕刻、熱傷や外傷を負いつつも命からがら逃げ延びた山腹で、ある生徒が教師に「畑の胡瓜を失敬してはいけないでしょうか?」と問うシーンにはことさら驚愕しました。ナンバー・スクールに学ぶ方々は、ノブレス・オブリージュを担っていたということなのか、懐古趣味に走るつもりはないですが、それが日本人というものだったのでしょうか?)
旧制高校は昭和22年の新学制施行で無くなったものと思い込んでいましたが、昭和25年卒が最終ですね。
この歌に送られて旅立った人を偲んで…。
映画の完成を待ちたいと思います。
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=soranokiroku-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4166603558&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=ACCCF5&bg1=ACCCF5&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="right"></iframe>▼第七高等学校造士館 (旧制)@wikipedia
▼北辰斜に@wikipedia
▼造士館と七高造士館
▼寮歌と花と古寺巡礼
▼七高造士館@google
▼第七高等学校造士館 @鹿児島大学理学部同窓会
七高の資料などは、1945年6月の鹿児島空襲、1952年の鹿児島大火によって多くを失っているとのこと。(空襲では校舎はほぼ全焼、天文観測室は類焼を免れて残りました)
手元に残っている資料の写しなど、今こそまとめておかなければ永遠に分からなくなってしまうのでしょう。
▼七高、そは永からぬ三年かし 卒業生 原後三治氏による
▼『北辰斜め』、『七高造士館』、『寮歌』関連リンク
▼七高造士館に関する書籍