さて、そんな訳でいざ、入山!!
『関ヶ原群雄伝』でも『豊臣蒼天録』でも主要な舞台となってます。
佐和山城は鎌倉時代、近江源氏の佐々木氏の築城と伝わります。
信長の時代には丹羽長秀、秀吉以後は堀秀政、堀尾吉晴が城主となり・・・
石田三成が入城したのは天正18年(1590年)です。
関ヶ原の合戦の、ちょうど10年前ですね。
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煙硝櫓跡などを過ぎ・・・
さて、いよいよ山頂!!石田みつにゃんには逢えるのか
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山頂の様子。
みつにゃんは、みつにゃんはいずこに
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仕方ない、あとで彦根の街を探そう(w
そんな(どんなだ?)佐和山城は石田三成が「佐和山総構え」と称される、大城郭へと変貌させました。
「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城」は有名です。
本人はあまり、この城にいなかったんじゃないかとも言われていますが(w
まあ、奉行は多忙だろうしねぇ・・・
関ヶ原の合戦前、大谷吉継に決起を打ち明けたのはこの佐和山城。
「関ヶ原物」では三成の決意~垂井から戻ってくる吉継は・・・は中盤のクライマックスで(w
そして、安国寺恵瓊も交えた謀議へと発展します。
(なお、近年の研究ではそれよりも、宇喜多秀家の行動が先んじていたとの説あり)
このあたり、『関ヶ原群雄伝』では結構、そのまま書いていたりします。
是非、ご一読を!!
三成はこの城に、幼君秀頼を迎えるつもりだったとも言われていますが、
関ヶ原の敗戦後、小早川秀秋らに攻められて落城、三成の父、兄、妻らは自害します。
この際、炎上したとの通説がありますが、発掘調査等ではその痕跡はないようです。
戦後、新たに入国した井伊氏によって佐和山城は廃城となりました。
三成と共に生きた城は、その死と共に歴史的役割を終えたと言えます。
なお、ここまでやはり30分(写真とりつつ)
暑さに頂上でしばしぐったりしてから、さて回りの景色見るかと立ちあがり、、、
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・・・・・・・・・・・・・あれ?
次回へ続け(w