歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

前橋から花燃ゆ⑪短編小説『至誠の糸』第3回

2015-10-24 20:43:21 | 日記
え~前回がいつか作者も忘れておりますが・・・
第3回、そして最終回です。



素彦は頬に流れる汗を拭うのも忘れた。
その目を眼前に広げられた、10札の山から放すことが出来なかった。
2万7千円―――これを現在に置き換えるといくらになるのかには諸説があるが、
おおよそで20億~30億ともいわれている。
いずれにせよ、これまでに見たことも無い大金が素彦と下村の間に積み上げられた。


素彦も幕末の頃、そして明治となってからも長州藩のために地元や京、大坂の両替商、
商家の間を走り回り、維新回転を成し遂げようとする長州藩の金策に奔走した身だ。
腰の太刀にものを言わせたことも一度二度ではない―――
だが、今は手を伸ばせば届くところに、一度も目にしたことのない大金が積まれていた。
(この金があれば)
素彦は己の心に「灰色」の感情が湧きあがるのを感じた。
それは長州藩の儒学指南として生きて来て、ずっと押さえ込んで来たものだった。
下村は県庁舎も師範学校も医学校も、すべて前橋で用意していると言った。
そればかりか、楫取の邸宅に別邸、更には信心深い妻・寿子のために寺まで勧進すると約束もした。
(この金は県政のための御用金ではない。つまりすべては・・・)


「如何されました、楫取様」
下村の声に素彦は顔を上げた。
ずっと自分の顔色をこの初老の商人に観察されていたことに気づいた。
「お受け取り下さい。お察しの通りでございます」
「察しだと?」
「はい。これはすべてあなた様のために用意したものにございます」
「私の・・・」
口の中が乾くのを感じる。咄嗟に湯呑に手をのばしたが、
指先が震えているのが自分でもよく分かった。
「舐められたものだな」
素彦はやっとその言葉を口にすると、下村を睨んだ。
「このようなものを私の前に積み上げて、一体どうするつもりだ?」
「おや、お気に召しませんか?」
「まさか、これで群馬県庁を前橋に置けというのか。
それは、政府が精査した上で決めることだ。
一商人が札束を積み上げて決めて、天下の政道が成せようか」
「分かりました。すぐに下げさせて頂きましょう」
下村は驚くほどあっさりそう言うと、また手を打ち鳴らす。
襖が相手、店の番頭が姿を見せた。
「今すぐ早飛脚を仕立てよ」
「へえ。また横浜でございますか?」
「そうさなぁ・・・今度は東京の大久保内務卿のところが良かろう。
これなる県令は不足につき『下げさせる』とな」
「なに・・・?」
素彦は顔色を変えたが、下村は番頭への指示を続けた。


「以前は長州の木戸孝允様に県令を斡旋いただいたが、
近頃は病を患い松子夫人の介添えなしでは歩くことも間々ならないという。
次は大久保様で良かろう」
「待て、下村」
「ただ、あの御方は線は細くとも武勇を尊ぶ薩摩の御方。
金で転ぶような他の政府高官とは違う。くれぐれも粗相の・・・」
「待てというのか分からんのか!」
素彦は声を荒げると、傍らの杖を掴んだ。中にはサーベルを仕込んである。
それに勘付いたのか番頭は表情を引きつらせたが、
下村は平然として「何か?」と問い返してきた。
「なぜ、貴様如きが木戸の病状を知っている。
あれは政府でも限られた者しか知らぬ事だ。
それにどうして群馬の者が・・・内務卿大久保だと?」
大久保とは薩摩藩出身の大久保利通のことである。
薩摩の巨魁・西郷隆盛が下野して以来、薩摩閥の領袖であるのみならず、
病身の木戸や公家出身の岩倉具視をおさえて、今や明治政府の頂点に立っていた。


下村は軽く手をふると番頭を下がらせ、そうして口を開いた。
「さきほど、申し上げただけのことでございますよ。早耳の者が多いと」
「何が早耳だ。木戸の病など邸に出入りでもしなければ知りようはないはず」
「その通りでございますが?」
「その通り?」
「はい。木戸様には先年よりご贔屓にされていただいております」
「馬鹿をいうな。あの男が貴様などを・・・」
「その証拠に、このように立派な県令様を私どもにお遣わし下さいました」
「お遣わし・・・」
素彦は自分の顔から血の気が引いて行くのを感じた。
下村は相変わらず泰然とした表情で、茶を喫している。
維新後、長州で隠居同然の暮らしをしていた自分を、
どうして木戸がまた政府に引っ張り出したのか。
そして、江戸時代には十一の藩が乱立し「難治県」ともいうべき群馬の県令へと据えたのか―――


「あなたでなくても良かったのですよ」
そう下村が言った。
それは随分と昔に聞かされた言葉と同じであったが、
あの時よりも随分と重く深く、そして素彦の心を突き刺す棘となった。
下村が口元に薄く笑みを浮かべた。
「さあ、どうされます。楫取様は至誠のお心を持つ御方。
なれど、手前どもも商人でございます。
いつまでも、この金をこうして広げておくわけにも参りません」
「ま、待て・・・」
浮かんだ汗が冷えるのを感じる。
目の前には10円札の山が―――2万7千円が置かれたままになっていた。
群馬県の県庁は高崎にするというのは、政府の中ではもう既定路線だ。
だが、この金を木戸や大久保、岩倉、三条実美ら要職の者に渡し説得を試み―――
それでもなお相当の額が手元には残る。
もう下村姿も素彦の目には移らなかった。
10円札の山に向かって震える指先を伸ばす。その一枚を掴んだとき、素彦の目の色は明らかに変化した。
何かを捨て、そして別の何かを掴んだ――――


刹那、対面に座る下村が山と積まれた10円札の下の風呂敷を、思い切り引いた。
素彦が「あ・・・」と声を上げる間さえなく、
2700枚の10円札は紙吹雪のように舞い上がった。
素彦が宙に舞う紙幣を呆然とみつめる中で、下村が立ち上がった。
「良き県令様をお迎え出来、これ以上の喜びはございません。
これからも末永く、御名は群馬の地に残りましょうぞ。さあ!」
下村の声とともに、隣室に控えていた前橋の生糸商人たちが一斉に部屋へと入ってきた。
素彦へと差し出された2万7千円を出資した、いずれもこの街の生糸商人達だった。
それに続いて酒と、山国とは思えない豪華な料理が運ばれて来る。素彦はそのまま上座へと座らされた。


「ささ、県令様」
「これで前橋の・・・いえいえ、群馬の繁栄は約束されたも同然でございますな」
「さすがは、吉田松陰様の見込まれたお人」
みずからを讃える商人達の声が素彦にはやけに遠くに聞こえた。
右手には10円札が一枚握られたままになっていた。
「楫取様は素晴らしき名県令様と、後世まで語り継がれましょうぞ」
下村の目はもとの好々爺のものへと戻っていたが、
底光りする眼光から逃れるように素彦は横を向く。
柔和な表情のまま、下村は口元を緩ませた。


同年、県令・楫取素彦は群馬県庁を高崎から前橋に移転すると発表した。
当初、高崎の有力者にはあくまで「仮移転」であるとしたが、
明治14年には正式に県庁を前橋に移転させた。
高崎側からは猛烈な抗議を受けたがこれを覆すことはせず、
在任時は生糸をはじめとした産業を発展させ、小中学校、女学校を設置させて、
群馬県を日本でも屈指の「教育県」とした。
また、娼廃運動も強力に推進した。
明治17年に群馬を去り元老院に転じ、貴族院議員などを歴任した。


楫取素彦が去った後、明治25年に前橋に市政が敷かれる。
初代市長には下村善太郎が就任したが、翌年には病で世を去った。
前橋市民は下村の功績を称え銅像を建立したが戦時中に供出された。
しかし、昭和58年のあかぎ国体を機に再建されている。






え~・・・まずタイトルを間違えたような(汗
なお、本作は当然のようにフィクションです。