富岡から前橋来るのは沼田行くより大変だぞ・・・
富岡製糸場所長で払い下げを主張した、速水堅曹は出ないのか・・・?
そして群馬は座繰り製糸での「質」に拘った結果、
機械製糸への本格転換は日露戦争後です。
群馬県では明治6年に下村善太郎が商家の2階に夜学を、
明治11年に女児小学校を、明治15年に県立女学校が開学しています。
詳しくは以前に書いた、
前橋から花燃ゆ⑭群馬教育開花
前橋から花燃ゆ⑮群馬女子教育
なお、女児小学校は明治13年に新校舎建設されますが、
16年の前橋大火で焼失してしまう・・・
さて、楫取が県令退任する年のこと・・・
ある時、下村善太郎ら前橋の名士を前にして、
「前橋にもいろいろな施設が出来たがまだ欠けているものがある。
県都に相応しい迎賓館をつくりたい。
この際、私も寄付をしようと思うので、諸君も奮発してくれないか・・・」
前橋はこの前年に大火があり、街の中心部が大被害を受けた。
白亜洋風で明治天皇も宿泊した生糸改所も全焼してしまい、
下村らもこれはもっとも、と考えた。
楫取はこの「迎賓館」に自分が暮らす別邸「楽水園」のすぐ南の、
利根川畔の高台を指定したが、そこは下村善太郎の私有地だった。
下村がまずその土地を提供し、その他は生糸商人はじめ、
国立三九銀行(現群馬銀行)が出資し、
市民からも寄付を募り建設費用の6千円が集まった。
同年8月、まだ建設途中の迎賓館「臨江閣」で、
退任の決まった楫取県令の送別会が挙行され、楫取県政9年の幕が下ろされた。
楫取は東京に去り元老院議官となり。
ちなみに・・・・・6千円が恙なく集まったためが、
楫取が寄付した形跡が見受けられないw
前橋に残る楫取県政でほどんど唯一の建造物。
ただ、子供のころにここで普通に市の行事をしたので、
あまり史跡という感じがしないw
智本光隆
富岡製糸場所長で払い下げを主張した、速水堅曹は出ないのか・・・?
そして群馬は座繰り製糸での「質」に拘った結果、
機械製糸への本格転換は日露戦争後です。
群馬県では明治6年に下村善太郎が商家の2階に夜学を、
明治11年に女児小学校を、明治15年に県立女学校が開学しています。
詳しくは以前に書いた、
前橋から花燃ゆ⑭群馬教育開花
前橋から花燃ゆ⑮群馬女子教育
なお、女児小学校は明治13年に新校舎建設されますが、
16年の前橋大火で焼失してしまう・・・
さて、楫取が県令退任する年のこと・・・
ある時、下村善太郎ら前橋の名士を前にして、
「前橋にもいろいろな施設が出来たがまだ欠けているものがある。
県都に相応しい迎賓館をつくりたい。
この際、私も寄付をしようと思うので、諸君も奮発してくれないか・・・」
前橋はこの前年に大火があり、街の中心部が大被害を受けた。
白亜洋風で明治天皇も宿泊した生糸改所も全焼してしまい、
下村らもこれはもっとも、と考えた。
楫取はこの「迎賓館」に自分が暮らす別邸「楽水園」のすぐ南の、
利根川畔の高台を指定したが、そこは下村善太郎の私有地だった。
下村がまずその土地を提供し、その他は生糸商人はじめ、
国立三九銀行(現群馬銀行)が出資し、
市民からも寄付を募り建設費用の6千円が集まった。
同年8月、まだ建設途中の迎賓館「臨江閣」で、
退任の決まった楫取県令の送別会が挙行され、楫取県政9年の幕が下ろされた。
楫取は東京に去り元老院議官となり。
ちなみに・・・・・6千円が恙なく集まったためが、
楫取が寄付した形跡が見受けられないw
前橋に残る楫取県政でほどんど唯一の建造物。
ただ、子供のころにここで普通に市の行事をしたので、
あまり史跡という感じがしないw
智本光隆
「神剣の守護者」を読ませていただきました。面白かったです!
それとは別の質問で恐縮なのですがwちょっと群馬の教育(学校)について調べています。特に前橋女児学校についてですが、場所とかどこにあったのでしょうか?
以前にこのブログで書かれたことを読ませていただきましたが、教えていただけるとありがたいです。
よろしくお願い致します。
『神剣の守護者』をお読みいただきありがとうございます!
お尋ねの女児学校(前橋女学校)についてですが、追加も含めてまとめてみました。場所も「ここじゃないか?」というところを推定してみましたが、やや自信はない・・・
連雀町で八幡宮北というとあのあたりなのですが。
前橋八幡宮の宮司さんにお会いする機会があるかも知れないので、ちょっと聞いて見ようかと思います。
今後、何か分かり次第このブログで書こうかと思います。
拙著ともどもご覧いただければ幸いです!
正式名称は「前橋女学校」なんですね。かなり前橋市の一等地にあったあたり、期待と気合を入れて作った学校だったんですね。
それと新島襄さん群馬出身でしたね、失念してました。「八重の桜」の彼好きでしたが、もう少し群馬での活躍も書いてくれれば良かったと思います。
学校は火災で燃えてしまったのが残念ですが、地元で語り継がれていけばと思います。
「八重の桜」ではほとんどふれられていませんでしたが、新島襄は群馬には何度も帰県しています。倒れたのも前橋で(これはドラマでもあったかな・・・)
「花燃ゆ」ではカットになりましたが、群馬の廃娼にも新島の提案があったようですし、県立女学校が資金難に陥ったとき、アメリカンボードを仲介したのも新島です。
ただ「八重の桜」は震災復興ドラマでしたから、群馬に尺は取らなかったのかな、と思います。
京都のシーンは多かったですが・・・