歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

前橋から花燃ゆ㉑臨江閣

2015-11-29 20:03:05 | 日記
富岡から前橋来るのは沼田行くより大変だぞ・・・
富岡製糸場所長で払い下げを主張した、速水堅曹は出ないのか・・・?
そして群馬は座繰り製糸での「質」に拘った結果、
機械製糸への本格転換は日露戦争後です。



群馬県では明治6年に下村善太郎が商家の2階に夜学を、
明治11年に女児小学校を、明治15年に県立女学校が開学しています。
詳しくは以前に書いた、
前橋から花燃ゆ⑭群馬教育開花
前橋から花燃ゆ⑮群馬女子教育

なお、女児小学校は明治13年に新校舎建設されますが、
16年の前橋大火で焼失してしまう・・・



さて、楫取が県令退任する年のこと・・・
ある時、下村善太郎ら前橋の名士を前にして、
「前橋にもいろいろな施設が出来たがまだ欠けているものがある。
県都に相応しい迎賓館をつくりたい。
この際、私も寄付をしようと思うので、諸君も奮発してくれないか・・・」


前橋はこの前年に大火があり、街の中心部が大被害を受けた。
白亜洋風で明治天皇も宿泊した生糸改所も全焼してしまい、
下村らもこれはもっとも、と考えた。


楫取はこの「迎賓館」に自分が暮らす別邸「楽水園」のすぐ南の、
利根川畔の高台を指定したが、そこは下村善太郎の私有地だった。
下村がまずその土地を提供し、その他は生糸商人はじめ、
国立三九銀行(現群馬銀行)が出資し、
市民からも寄付を募り建設費用の6千円が集まった。


同年8月、まだ建設途中の迎賓館「臨江閣」で、
退任の決まった楫取県令の送別会が挙行され、楫取県政9年の幕が下ろされた。
楫取は東京に去り元老院議官となり。


ちなみに・・・・・6千円が恙なく集まったためが、
楫取が寄付した形跡が見受けられないw







前橋に残る楫取県政でほどんど唯一の建造物。
ただ、子供のころにここで普通に市の行事をしたので、
あまり史跡という感じがしないw



智本光隆

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4 コメント

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Unknown (かの)
2015-12-04 15:54:38
はじめまして。
「神剣の守護者」を読ませていただきました。面白かったです!
それとは別の質問で恐縮なのですがwちょっと群馬の教育(学校)について調べています。特に前橋女児学校についてですが、場所とかどこにあったのでしょうか?
以前にこのブログで書かれたことを読ませていただきましたが、教えていただけるとありがたいです。
よろしくお願い致します。
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前橋女学校について (智本光隆)
2015-12-09 22:09:56
かのさんはじめまして!
『神剣の守護者』をお読みいただきありがとうございます!
お尋ねの女児学校(前橋女学校)についてですが、追加も含めてまとめてみました。場所も「ここじゃないか?」というところを推定してみましたが、やや自信はない・・・
連雀町で八幡宮北というとあのあたりなのですが。
前橋八幡宮の宮司さんにお会いする機会があるかも知れないので、ちょっと聞いて見ようかと思います。
今後、何か分かり次第このブログで書こうかと思います。
拙著ともどもご覧いただければ幸いです!
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Unknown (かの)
2015-12-10 16:56:01
書いていただいてありがとうございます!
正式名称は「前橋女学校」なんですね。かなり前橋市の一等地にあったあたり、期待と気合を入れて作った学校だったんですね。
それと新島襄さん群馬出身でしたね、失念してました。「八重の桜」の彼好きでしたが、もう少し群馬での活躍も書いてくれれば良かったと思います。
学校は火災で燃えてしまったのが残念ですが、地元で語り継がれていけばと思います。
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新島襄について (智本光隆)
2015-12-16 23:06:08
こんばんは。
「八重の桜」ではほとんどふれられていませんでしたが、新島襄は群馬には何度も帰県しています。倒れたのも前橋で(これはドラマでもあったかな・・・)

「花燃ゆ」ではカットになりましたが、群馬の廃娼にも新島の提案があったようですし、県立女学校が資金難に陥ったとき、アメリカンボードを仲介したのも新島です。
ただ「八重の桜」は震災復興ドラマでしたから、群馬に尺は取らなかったのかな、と思います。
京都のシーンは多かったですが・・・
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