SHAンパンでもいかが?

「最終楽章 気分はAdagio」
77歳の一人暮らし。

クラシックTV

2022-12-08 23:02:00 | 日記
今夜のタイトルは
「ラブ•ガーシュイン」

小さな方から断崖君まで
みんなが好きな
ラプソディ•イン・ブルーの
作曲家です。

   ✨✨✨✨✨

あの出だしの魅力的な
クラリネット・ソロ。
ゆっくりとしたトリルから
2オクターブ以上に
わたってクレッシェンド
しながら、
グリッサンドしていく
サイレンのような響き。
ジャズとクラシックを
結合させた独自の作風で
アメリカはもちろん、
ヨーロッパにも
知られるようになりました。

レナード•バーンスタインの
弾き振りです。


ラプソディ・イン•ブルー
オーケストラ•パートは
ガーシュインにとって
未知の領域であったので、
のちに
《グランド•キャニオン》
を作曲して名をあげる
ファーディ・グローフェに
手伝ってもらったのです。
グローフェはオーケストラの
編曲にかけては職人的な
腕を持っていました。

ガーシュインが、
まず、2台のピアノで
演奏する形式で曲を
完成させ、
これをグローフェが
ピアノと管弦楽パートに
振り分けて編曲し、
初演にこぎつけました。

一夜にして世界的な
名声を得ましたが、
その後、ガーシュイン自身
独学で勉強した
オーケストレーション
《ピアノ協奏曲ヘ短調》や
《パリのアメリカ人》は
《ラプソディ•イン•ブルー》に比べても、
全く遜色のない仕上がり
だと言われています。

アメリカは建国以来、
国際的な名声をかち得た
作曲家はごく少なく、
ガーシュインは、
フォスターに続く
二人目の大作曲家で
一躍アメリカ音楽の寵児と
なりましたが、
名声が上がるにつれて
マスコミに追いまわされ、
38歳の若さで
世を去りました。
彼の命を直接奪ったのは
脳の腫瘍ですが、
間接的には過労が原因だと
言われているのです。

ピアノ協奏曲ヘ短調
独奏 ユジャ•ワン



金髪のジェニー

2022-12-08 09:05:00 | 日記
あれもこれも
片付けたいと
思いつつ
時間ばかりが
過ぎていきます。


「アメリカ民謡の父」と
呼ばれた
スティ―ブン•コリンズ•
フォスターは
1826年、アメリカ北部の
ペンシルヴェニア州
ピッツバ―グで生まれました。
生涯で約200曲の
親しみやすい歌曲を書き、
「おお、スザンナ
「草競馬」などが広く
知られています。
フォスターが1854年に
作詞•作曲した
「金髪のジェニー」は
フォスターの妻のジェ―ン
をモデルにした曲で
「ジェニー」は彼女の
愛称でした。
ジェ―ンはピッツバ―グの
開業医の長女で
茶色の目と髪を持つ
美しい少女だったようです。
原題は
"Jeanie with the Light Brown Hair"ですが、
日本語に訳す時に
教会音楽家の津川圭一氏が
「茶色」では
インパクトがないので
「金髪」に変えたようです。
「I dream of Jenie with
the light brown hair」を
「夢に見し、わがジェニーは
ブロンドの髪ふさふさと、、」
と直されたのです。

金髪のジェニー初版譜



ジェ―ンは陽気で
人々の心を惹きつける
可愛いい19歳のお嬢さん、
フォスターが24歳の時に
結婚し、薔薇色に輝く生活が
スタートしました。

結婚の年には「草競馬」を
作曲しています。
翌年には彼の名を
決定的にした
名作「故郷の人々」
《スワニー河》が
作られましたが、
驚くべきことに
わずか15ドルで
売り渡してしまったのです。
初版だけでも10万部も
売れたのに、その印税は
本当の作曲者である
フォスターのもとには
全く入らなかったのです。

沢山の名作を生み出した
にもかかわらず、
フォスターの人生は
平穏ではなく、
愛妻ジェーンとの
結婚生活も長く続かずに
1860年からは別居状態に
なってしまいました。

妻子を捨ててニューヨークに
行きますが、
1861年に南北戦争が始まり
彼の歌はさっぱり売れずに
収入は減る一方でした。
不摂生がたたって
担ぎ込まれた病院で
貧困のうちに、
37歳の短い生涯を
閉じてしまいます。
ジェーンが駆けつけた時は
すでに遅く、神に召された
あとだったようです。

倒れる数日前に作曲した
「Beutiful dreamer」