川端康成の『掌の小説』には122編の短編が収録されている。青年時代から40余年にわたって書き綴られたものだ。2~10頁ほどの掌編ばかりで、隙間の時間に少しずつ読むのに最適。短いと言っても122編すべての完成度は高く、掌サイズの宇宙といった趣だ。
自伝的作品、恋愛事件を扱った作品、伊豆に取材した作品などいくつかの系統に分かれているが、「火に行く彼女」「金糸雀」「蛇」など男女関係のなれの果てを描いた作品が私好み。それらには川端の性癖がよく表れていると思う。男性から見た女性の禍々しさを描いた「化粧」も興味深かった。
夢やパーツ愛をふんだんに盛り込んだ幻想的な作品を書きつつも、その根底には冷めたリアリズムが横たわっている。かなり残酷なことを書いていても、そこにお涙頂戴的な卑しさがないのが清々しい。ベタベタとした情緒に煩わされずに、ひんやりとした詩情を愛でていれば良い本書は、突飛で怪奇で美しいものに目がない浪漫趣味者にとっては御馳走の詰め合わせの様な傑作集である。
122編すべてについて語るととんでもない文字数になるので、特に気に入った作品についてのみ短い感想を書いてみる。
「火に行く彼女」
坂の下の下町一帯は火の海だ。彼女は人群をすいすい分けて坂を下る。坂を下りて行くのは彼女唯一人である。
たまらない気持ちになった私が、言葉でなしに彼女の心持に直接語り掛ける。
“「どうしてお前だけ坂を下りていくのだ。火で死ぬためか。」
「死にたくはございません。でも、西の方にはあなたのお家がございます。ですから、私は東へまいります。」“
そこで目が覚めた。眼尻に涙が流れていた。
私の方は、彼女の私に対する感情が冷え切ったものと諦めたポーズをとりつつも、心底では彼女の感情のどこかに私のための一滴が残っていると思っていたかったのだ。
だけど、こんな夢を見るということは、彼女の中に私への好意が微塵も残っていないことを、私は信じ切っているということなのだろうか。
夢は私の感情だ。だから、夢の中の彼女が私を厭うのも、私がこしらえた感情のはずなのだ。
焔の広がる町を彼女が背を向けて走り去っていく。あなたのそばに行くくらいなら焔にまかれた方がましだと言わんばかりに。それが、私の信じる私と彼女のラストシーンなのだ。
「金糸雀」
男には妻がいて、奥さんには夫がいる。
別れた後、男は約束を破って奥さんに手紙を書いた。どうしても伝えなければならないことがあったのだ。
別れの記念に奥さんから貰った金糸雀を、もう飼えなくなったのだ。
“この鳥で私を思い出してくださいまし。生き物を記念品に差上げるなんて可笑しいかもしれません。でも、私達の思い出も生きているのです。金糸雀はいつか死ぬでしょう。私達お互いの中のお互いの思い出も、死なねばならない時が来れば死なせましょうよ――”
その金糸雀が死にそうなのだ。
ずぼらな男は金糸雀の世話を妻に任せていた。その妻が死んだのだ。
空に離すのは嫌だ。
奥さんに返すのも嫌だ。
鳥屋に売るのも嫌だ。
妻が飼っていたから今日まで生きていた鳥だ。奥さんの思い出として。
妻の死んだ時が、男と奥さんの思い出が死なねばならない時だったのだ。
だから、この金糸雀を妻に殉死させたいと思う。
男は思うのだ。妻がいてくれたからこそ、奥さんのような女と恋が出来た。妻が男には生活の苦しみを見せないようにしてくれていたのだ、と。
それはきっと正解だと思う。
男と、妻と、奥さん。一番酷いのは誰なのか?
男が金糸雀とともに妻の墓に埋めたのは、奥さんとの思い出だけではないだろう。
「化粧」
私の家の厠の窓は、谷中の斎場の厠の窓と向かい合っている。私はそこに女たちの姿を見る。
厠で化粧をする喪服の女たち。
屍を舐める血の唇の様な口紅。彼女たちは皆落ち着きはらっている。私の目にはそれが誰にも見られていないと信じながら、隠れて悪いことをしているという罪の思いを表しているように見える。
人目のある所では、死者のためにさめざめと涙を流しておきながら、誰もいない厠でシレーッと化粧直しに耽っている姿は、奇怪と言えば奇怪かもしれない。
しかし、女の立場から言わせてもらえば、化粧は成人女性の嗜みであり、改まった席に素顔で出るなど有り得ないことなのだ。そして、人前で化粧直しをするのはマナー違反である。礼儀を守っているだけで、深い意味など無いのだから、落ち着き払っているのは当たり前だ。
この話は一見女をこき下ろしている態を装っているが、実は冷笑されているのは男の方だ。
女たちの化粧姿を見て心の中に女への不信を募らせておきながら、私は少女の涙にあっさり騙される。少女の謎の笑いに戦慄する私は、滑稽な感傷家だ。どれだけ女という存在に囚われているのかと思う。
私は、本当は女を信じたいのだろう。だけど、私が信じたい女などこの世にはいないのだ。
「蛇」
44歳の稲子が見た夢である。
誰の家だかわからないその屋敷に神田夫人が主人顔をしている。
はじめ小鳥を見ていた時は、夫もその座敷にいたようである。小鳥は二羽、蜂鳥の様に小さく、柄長の様に尾が長い。その尾は宝石のようにきらきら光った。
「ああ、きれいだ。」と稲子は思った。
いつの間にか夫の姿が消えていて、代わりに神田夫人が座敷に座っていた。
座敷に蛇が五匹這っていた。五匹の蛇はそれぞれ色が違っていた。
その一は黒い蛇。その二は縞の蛇。その三は山かがしのように赤い蛇。その四はまむしのような模様があるが、まむしよりも鮮やかな色の蛇。その五はメキシコ・オパアルが光って焔の見えるような色の蛇。
「ああ、きれいだ。」と稲子は思った。
篠田の前の細君が、座敷に座っていた。
神田夫人と稲子は現在の年齢のようだが、篠田の前の細君は、稲子が彼女を知っていた25年前よりも若かった。髪ははやりの結い方で、きらきら光る飾りがついていた。いろんな宝石で出来た大きい輪櫛が小さい宝冠の様な飾りである。
「ああ、きれいだ。」と思って稲子が見ていると、篠田の前の細君は、「これを買って頂戴よ。」という。端から少しずつ動くその飾りはやはり蛇なのだった。
庭にも蛇がいっぱいいた。
目が覚めてから、「うじゃうじゃいたのか。」と夫に尋ねられれば、稲子は「20匹くらい。」とはっきり答えることが出来た。
篠田の前の細君とはもう25年もあっていない。篠田は離婚してすぐ再婚した。
前の細君は離婚と同時に、稲子たちの前からも姿を消した。篠田は20年前に亡くなった。
篠田と稲子の夫は大学の同級で、同じ会社に勤めた。彼らの就職を、篠田の前の細君が先輩の神田に頼んでくれたのだった。
篠田の前の細君は、結婚する前に神田が好きだった。そのことを神田夫人は知らない。
小鳥と、蛇と、篠田の前の細君。
稲子は夢を判じようとはしなかったけど、もし判じてみたら、もっとゾッとするような綺麗なものを見ることが出来たかもしれない。
小鳥の尾が動くにつれて美しい色や光が変化するのは、宝石が角度を変えるにつれて違う輝きを放つのに似ている。蛇の鱗もヌラヌラした動きに合わせて様々な光彩を放つ。人の心もまた、環境の変化によって異なる色彩を帯びる妖美なものなのかもしれない。
自伝的作品、恋愛事件を扱った作品、伊豆に取材した作品などいくつかの系統に分かれているが、「火に行く彼女」「金糸雀」「蛇」など男女関係のなれの果てを描いた作品が私好み。それらには川端の性癖がよく表れていると思う。男性から見た女性の禍々しさを描いた「化粧」も興味深かった。
夢やパーツ愛をふんだんに盛り込んだ幻想的な作品を書きつつも、その根底には冷めたリアリズムが横たわっている。かなり残酷なことを書いていても、そこにお涙頂戴的な卑しさがないのが清々しい。ベタベタとした情緒に煩わされずに、ひんやりとした詩情を愛でていれば良い本書は、突飛で怪奇で美しいものに目がない浪漫趣味者にとっては御馳走の詰め合わせの様な傑作集である。
122編すべてについて語るととんでもない文字数になるので、特に気に入った作品についてのみ短い感想を書いてみる。
「火に行く彼女」
坂の下の下町一帯は火の海だ。彼女は人群をすいすい分けて坂を下る。坂を下りて行くのは彼女唯一人である。
たまらない気持ちになった私が、言葉でなしに彼女の心持に直接語り掛ける。
“「どうしてお前だけ坂を下りていくのだ。火で死ぬためか。」
「死にたくはございません。でも、西の方にはあなたのお家がございます。ですから、私は東へまいります。」“
そこで目が覚めた。眼尻に涙が流れていた。
私の方は、彼女の私に対する感情が冷え切ったものと諦めたポーズをとりつつも、心底では彼女の感情のどこかに私のための一滴が残っていると思っていたかったのだ。
だけど、こんな夢を見るということは、彼女の中に私への好意が微塵も残っていないことを、私は信じ切っているということなのだろうか。
夢は私の感情だ。だから、夢の中の彼女が私を厭うのも、私がこしらえた感情のはずなのだ。
焔の広がる町を彼女が背を向けて走り去っていく。あなたのそばに行くくらいなら焔にまかれた方がましだと言わんばかりに。それが、私の信じる私と彼女のラストシーンなのだ。
「金糸雀」
男には妻がいて、奥さんには夫がいる。
別れた後、男は約束を破って奥さんに手紙を書いた。どうしても伝えなければならないことがあったのだ。
別れの記念に奥さんから貰った金糸雀を、もう飼えなくなったのだ。
“この鳥で私を思い出してくださいまし。生き物を記念品に差上げるなんて可笑しいかもしれません。でも、私達の思い出も生きているのです。金糸雀はいつか死ぬでしょう。私達お互いの中のお互いの思い出も、死なねばならない時が来れば死なせましょうよ――”
その金糸雀が死にそうなのだ。
ずぼらな男は金糸雀の世話を妻に任せていた。その妻が死んだのだ。
空に離すのは嫌だ。
奥さんに返すのも嫌だ。
鳥屋に売るのも嫌だ。
妻が飼っていたから今日まで生きていた鳥だ。奥さんの思い出として。
妻の死んだ時が、男と奥さんの思い出が死なねばならない時だったのだ。
だから、この金糸雀を妻に殉死させたいと思う。
男は思うのだ。妻がいてくれたからこそ、奥さんのような女と恋が出来た。妻が男には生活の苦しみを見せないようにしてくれていたのだ、と。
それはきっと正解だと思う。
男と、妻と、奥さん。一番酷いのは誰なのか?
男が金糸雀とともに妻の墓に埋めたのは、奥さんとの思い出だけではないだろう。
「化粧」
私の家の厠の窓は、谷中の斎場の厠の窓と向かい合っている。私はそこに女たちの姿を見る。
厠で化粧をする喪服の女たち。
屍を舐める血の唇の様な口紅。彼女たちは皆落ち着きはらっている。私の目にはそれが誰にも見られていないと信じながら、隠れて悪いことをしているという罪の思いを表しているように見える。
人目のある所では、死者のためにさめざめと涙を流しておきながら、誰もいない厠でシレーッと化粧直しに耽っている姿は、奇怪と言えば奇怪かもしれない。
しかし、女の立場から言わせてもらえば、化粧は成人女性の嗜みであり、改まった席に素顔で出るなど有り得ないことなのだ。そして、人前で化粧直しをするのはマナー違反である。礼儀を守っているだけで、深い意味など無いのだから、落ち着き払っているのは当たり前だ。
この話は一見女をこき下ろしている態を装っているが、実は冷笑されているのは男の方だ。
女たちの化粧姿を見て心の中に女への不信を募らせておきながら、私は少女の涙にあっさり騙される。少女の謎の笑いに戦慄する私は、滑稽な感傷家だ。どれだけ女という存在に囚われているのかと思う。
私は、本当は女を信じたいのだろう。だけど、私が信じたい女などこの世にはいないのだ。
「蛇」
44歳の稲子が見た夢である。
誰の家だかわからないその屋敷に神田夫人が主人顔をしている。
はじめ小鳥を見ていた時は、夫もその座敷にいたようである。小鳥は二羽、蜂鳥の様に小さく、柄長の様に尾が長い。その尾は宝石のようにきらきら光った。
「ああ、きれいだ。」と稲子は思った。
いつの間にか夫の姿が消えていて、代わりに神田夫人が座敷に座っていた。
座敷に蛇が五匹這っていた。五匹の蛇はそれぞれ色が違っていた。
その一は黒い蛇。その二は縞の蛇。その三は山かがしのように赤い蛇。その四はまむしのような模様があるが、まむしよりも鮮やかな色の蛇。その五はメキシコ・オパアルが光って焔の見えるような色の蛇。
「ああ、きれいだ。」と稲子は思った。
篠田の前の細君が、座敷に座っていた。
神田夫人と稲子は現在の年齢のようだが、篠田の前の細君は、稲子が彼女を知っていた25年前よりも若かった。髪ははやりの結い方で、きらきら光る飾りがついていた。いろんな宝石で出来た大きい輪櫛が小さい宝冠の様な飾りである。
「ああ、きれいだ。」と思って稲子が見ていると、篠田の前の細君は、「これを買って頂戴よ。」という。端から少しずつ動くその飾りはやはり蛇なのだった。
庭にも蛇がいっぱいいた。
目が覚めてから、「うじゃうじゃいたのか。」と夫に尋ねられれば、稲子は「20匹くらい。」とはっきり答えることが出来た。
篠田の前の細君とはもう25年もあっていない。篠田は離婚してすぐ再婚した。
前の細君は離婚と同時に、稲子たちの前からも姿を消した。篠田は20年前に亡くなった。
篠田と稲子の夫は大学の同級で、同じ会社に勤めた。彼らの就職を、篠田の前の細君が先輩の神田に頼んでくれたのだった。
篠田の前の細君は、結婚する前に神田が好きだった。そのことを神田夫人は知らない。
小鳥と、蛇と、篠田の前の細君。
稲子は夢を判じようとはしなかったけど、もし判じてみたら、もっとゾッとするような綺麗なものを見ることが出来たかもしれない。
小鳥の尾が動くにつれて美しい色や光が変化するのは、宝石が角度を変えるにつれて違う輝きを放つのに似ている。蛇の鱗もヌラヌラした動きに合わせて様々な光彩を放つ。人の心もまた、環境の変化によって異なる色彩を帯びる妖美なものなのかもしれない。