青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

アサイラム・ピース

2017-01-19 07:08:27 | 日記
『アサイラム・ピース』は、アンナ・カヴァンがアンナ・カヴァン名義で発表した最初の作品集。「母斑」、「上の世界へ」、「敵」、「変容する家」、「鳥」、「不満の表明」、「いまひとつの失敗」、「召喚」、「夜に」、「不愉快な警告」、「頭の中の機械」、「アサイラム・ピース」、「終わりはもうそこに」、「終わりはない」の14篇が収録されている。

『アサイラム・ピース』というタイトル通り、古城の牢獄や精神病院の隔離病棟を舞台に、解放されることを望みながらも、鉄格子に守られる安寧を受け入れてしまってもいる主人公の二律背反が描かれている。

どの作品もほぼ主人公の視点のみ進行する。
一人視点とは、それだけで公平性を欠く不安定な手法だが、本作の主人公は精神に失調をきたしているので、猶更信用にならない。
その上、主人公が苦境に置かれた経緯の説明はなく、主人公が管理されている理由が法的なものなのか医学的なものなのかもわからない。主人公が何をやらかし、誰に罰せられているのかも不明だ。読者は何が出てくるか分からない暗闇の中を手探りで読み進めるしかない、精神衛生的に宜しくない作品なのだ。

“地獄が我が床をしつらえても、見よ、そこには汝がいる”

14編はそれぞれ独立した作品としても読めるし、同じ人物の妄想集としても読むことも可能だ。殆どの作品では、主人公に名前が与えられておらず、一人称の〈私〉で表現されているので、この感想でもこれ以降、主人公を〈私〉呼びで統一することにする。

〈私〉は常に〈私〉を破滅に追いやる誰かと強い磁力で結ばれている。逃れることはできない。
〈私〉は、パトロンに惨めな現状の改善を乞い、正体不明の敵と戦い、理由の不明な罪状で告発され、信頼の出来ないアドバイザーに振り回されながら、何とか不当な抑圧から解放されようと奮闘している。

しかし、〈私〉がどれだけ足搔こうが、結局のところ兄弟のように近い存在であるらしい敵の勝利に終わるのだ。この関係は、カヴァンの最後の長編『氷』の主人公と長官の関係に酷似している。
美しい自然描写もまた。
斯様に優しさも労りもない非人間的な世界を描きつつも、自然の描写だけは奇妙なほど美しいのだ。これがカヴァン自身の心象風景なのだろう。殊に鳥の描写は、そこだけ読むと、まるで世界には希望が満ち溢れているような錯覚を覚える。
シジュウカラ、アオガラ、ヒガラ、ハシブトガラ、エナガ、アオカワラヒワ、ズアオアトリ、コマドリ、ホシムクドリ、クロウタドリ、ツグミ、スズメ、ハト…これらの鳥たちは希望の象徴として描かれている。

しかし、本書において、希望は絶望の呼び水に過ぎない。
〈私〉は、温情ある判決が下されることや、たまに見舞いに来る夫が〈私〉を連れ出してくれることを期待するが、それらはことごとく裏切られ、無情な手によって惨めな場所に送り返される。僅かの間、気まぐれに差す光源が〈私〉の置かれている状況の希望の無さと〈私〉の精神の荒廃をくっきりと浮かび上がらせる効果を発揮しているのだ。

“私には友人が、恋人がいた。それは夢だった。”

〈私〉は、端から愛情も美しい自然も知らなかった方が幸せだったかもしれない。
確かに経験したことのあるそれらの記憶を消すことが出来ないのなら、冷たい鉄格子の中で見た儚い夢幻だったと思って諦めた方が良いのかもしれない。
それでも、最初の作品「母斑」の光の方向を探っているかのように差し伸べられた痩せ細った腕から、最後の作品「終わりはない」の常緑樹の庭を見つめる目まで、〈私〉は少しでも明るく暖かな“上の世界”に触れることを諦めない。それが苦痛を長引かせるだけだとわかっていても。

弱っている人に、「諦めたらお終いだ」と励ます人もいるが、「諦めてお終いにした方が良い」と促すことが優しさになる場合もあるだろう。自分で終わらせることが出来ないのなら、誰かが終わらせてあげれば良いのに。終われないことが罰なのだろうか。

独房に始まり独房に終わるこの作品集は、生涯を敗北者として過ごすことになることを悟ってしまった者が、それでも誘蛾灯に惹かれる羽虫のように弱弱しく足搔く様が胸を抉る。
主人公が謎の権威によって追い詰められ敗北するというスタイルから、カフカとの類似点を指摘されることの多いカヴァンであるが、社会不適合者ぶりではカフカどこか、他のいかなる作家にも席を譲ることはないだろう。徹底的に非人間的な世界を描くことで、人間らしさの神髄に触れる稀有な作家だと思う。
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