池澤夏樹著『星に降る雪/修道院』
二作とも大切な人と別れた男が、そのいなくなった人に語り掛ける話だ。
「星に降る雪」は、山奥の観測施設で星からのメッセージを待つ男が主人公の短編。
主人公の田村は、登山中に雪崩に巻き込まれ二十年来の親友新庄を失った。その後、田村は東京の職場を辞め、野辺山の電波天文台に行き、そこも一年半で辞めて神岡のニュートリノ研究施設で働いている。そこから降りることはなく、東京にも行かない。
星の近くに居たかった。
田村はそこで星のメッセージを待っているのだ。だから、東京から野辺山に移り、そこからさらに山奥の神岡に移った。
雪崩で亡くなる五年前に、パラグライダーの事故で死にかけた新庄が乱気流の中で受け取ったメッセージ。星空から降る雪に先導された新庄が、そのメッセージを携えて「向こう側」から降りてくるのを迎えたいのだ。
田村の元に、新庄の恋人だった亜矢子が訪ねてくる。
亜矢子は田村に疑問をぶつける。あの雪崩について、新庄について。田村にとっての新庄と亜矢子にとっての新庄は、まるで違う人間のようだ。
どうして空ばかり見ているのと亜矢子は問う。
それは彼女には分からないことだと田村は思う。
“空を見ないで、来もしないものを待たないで、地面の上に立って、同じように地面の上にいる男を愛する”のが亜矢子にとっての生きるということなのだから。
三日前に来た短期滞在のドイツ人研究者なら分かるだろう。それは男とか女とかではなく、人間の種類の違いだ。
メッセージは神岡には来ないかもしれない。
チリのアタカマ高原に大きなミリ波の観測施設を作る話が進んでいる。組織内に配信された職員募集のメールを見て以来、田村はその南米の、乾燥した、寒い山の上に思いをはせている。枯れて、冷え切って、強風が吹いていて、まるで別の星の上みたいなところ。風がふっと止んだ時に、空気は軽い乾いた粉雪で満たされる。そこに行けば、新庄を迎えることが出来るのではないだろうか。
亜矢子にとっての新庄より田村にとっての新庄の方が魅力的だが、多分どちらも新庄そのものではない。二人ともそれぞれの新庄を胸に抱いて生きるよすがとするのだろう。死者とは生者のためにそのかたちを造られるのだ。
田村がいっそ潔いくらい厭世的なのに対して、亜矢子の堅実アピールはどこか無理が感じられた。彼女が田村に対して言い募れば募るほど、ナチュラルにそう信じているのではなく、自分に言い聞かせているような印象を受けたのだ。途中で語られるマテオとの思い出からも、亜矢子という人は本質的には地に足のつかないタイプだと思う。
彼女はきっとまだ苦しい。それでも田村は、“彼女は大丈夫だろう。しっかり生きていくだろう。”と独白する。“新庄、あれでよかったのかな?よかったんだよな。”と。そして、また自分の想いに還るのだ。田村にとっては、亜矢子など所詮は赤の他人、親友と二ヶ月だけ恋仲だった人に過ぎないのだから。
無限に広がる星空と対照的に、うちへうちへと閉じていく田村の心の在り方が面白かった。
「修道院」は、「星に降る雪」の二倍ほどの長さの中編小説。三人の人物によって物語が紡がれていく。
クレタ島を旅行中の私から始まり、私が偶然滞在することになった村で宿を営むエレニへ、更にアレクサンドリアからエレニの村に流れて来たミノスへとバトンタッチ式に視点が変わる。視点が変わるたびに物語は過去へと遡っていくのだが、引継ぎが自然でぎこちなさがない。
大変業の深い物語なのにドロドロしていないのは、瑞々しい文章とエレニの堅実な人柄のおかげだろう。この話、ミノスの視点のみで描かれていたら読めたものではなかったと思う。
その年の夏をクレタ島で過ごすことにした私は、宿を探している途中で「旧修道院」の案内を見つける。
山道を五分ほど降りたところにあったそれは、上の修道院が様々な色彩で飾られていたのに対して、すべての色が落剝していた。
廃墟を散策していた私は、敷地の中に小さな礼拝堂を見つけた。
その礼拝堂は荒れてはいたが、他の建物に比べると損壊の程度が違った。汚れているが壁はしっかりと立ち、屋根も健在。何よりも扉があった。そう遠くない昔に誰かの手で修復されたらしい。
人の膝くらいの高さの壁に黒い石の銘板が埋め込んであった。それには〈ミルトスのために〉とのみ刻まれていて、あとは年代も何もない。
壁沿いに少し進むと、今度は窓を見つけた。窓の縁に手をかけて中を覗くと闇の中にイコンが見えた。聖母マリアらしき像だが、赤ん坊は抱いていない。目が闇に慣れてくるとその像が泣いているように見えた。これは嘆きの聖母だろうか?
もう一度よく見ようと首を伸ばした私は、手が滑ったはずみで地面に落ち、足を挫いてしまった。
足を引き摺りながら本道に出た私は、農夫のトラックに拾われて一軒の宿に運び込まれた。
その宿で、私はエレニという老婆の触診を受けた。幸い骨は折れていなかったが、当分痛みが治まりそうにない。私は暫くこの宿に滞在することに決めた。
翌日、私はエレニに旧修道院に行った話をした。
すると、彼女は真剣な表情で、礼拝堂の中は見えたかを問うてきた。私が見たものを話すと、エレニは日付を確かめた。昨日は八月二十二日だった。
あの人が行ってしまったのは五十年前のその日だった。あの人も足を引き摺っていた。聖母がお泣きになったのはわたしへのお伝えかもしれないーー。しばらく考え込んだのち、エレニは五十年前の出来事を話し出した。
エレニの言うあの人とは、ミノスという名のほっそりとした都会風の男だった。
小さな鞄一つで村にやって来たミノスを、はじめは村を通り過ぎていく旅人だとみんな思った。彼はエレニの父親が営む宿に泊まった。そのまま居続けたのだから旅の途中ではなかったのだろう。誰とも打ち解けようとしないが、金払いが良く村の娘にちょっかいを掛けないので、害のない男だということは分かった。
そのうち、ミノスは朽ち果てた下の旧修道院を見つけると、無償で修復を始めた。
彼は、大工、石工、指物師など、礼拝堂の修復に必要なあらゆる技術に長けていた。おまけに風采が良く、無口でミステリアスな大人の男だ。当時十六歳だったエレニと一つ下の弟のアレクシスは、忽ち彼に夢中になった。
とはいえ、エレニたちはミノスとの距離を詰めることは出来なかった。二人は最後まで彼を見ているだけだった。
ミノスには贖罪の必要があったのだ。
ミノスにとって旧修道院の修復は、ある男に約束した「百回のおミサ」に相当するものだった。だから基本的には一人で作業し、どうしても必要な時にだけアレクシスに手伝わせた。
アレクサンドリアから美しく驕慢な女がやって来たのは、八月十五日のキミシスのお祭りの後だった。アダという名のその女は、ミノスを追いかけてきたのだ。
アダはエレニたちにミノスの修復した旧修道院の案内をさせ、ミノス自身との面会も求めた。その夜、アダはミノスの部屋に泊まったが、翌朝には姿を消していた。ミノスも部屋からいなくなっていた。
ミノスの身を案じて旧修道院に向かったエレニとアレクシスは、そこでミノスが狂気を孕んだ口調で神に訴えているのを目撃した。ミノスにとって、アダとの再会は「百回のおミサ」を無にするものだったのだ。
ミノスとアダ。ミノスが「百回のおミサ」を約束した幼馴染のミルトス。アダの召使だったシェイダ。
エレニとアレクシスは、ミノスから四人に起きた忌まわしい出来事の一部始終を聞かされる。
「五十年だね。あんたが見たとおり聖母がお泣きになったんだから、やはりミノスとアダのためにおミサを挙げてもらおうかね。ミルトスのためには百一回目のおミサになる訳だからね」
ミノス達の身に起きたことは、十代の子どもに聞かせるにはあまりにも罪深い話だった。
ミノスは語り終えたその足で村を出ていったけど、エレニは彼の後始末をすべて引き受けた。そして、五十年間それらを心のうちにしまい込んで生きて来たのだ。
ミノスが去り、アレクシスが出て行っても、村に留まり、結婚し、子供を産み、親から受け継いだ宿を守り続けた。アダやシェイダの華やかな都会の暮らしを聞いても、そんなものには心を動かされなかったし、ミノスを追いかけて村を捨てることもなかった。大した女性だと思う。
ミノスの物語のだと思って読み進めていたが、終盤になって実はエレニの物語だったことに気づいた。
「星に降る雪」が「向こう側」に行ってしまった人を慕い、自分も「向こう側」に行こうとしている男が主人公の物語であるのに対し、「修道院」はそのような男を一つ所に根を張って見つめて来た女が主人公の物語だ。
亜矢子がさっぱり理解できなかった「向こう側」志向の人物を、エレニは正反対の生き方をしているからこそ受け入れ、送り出すことが出来た。そんな彼女のもとに、五十年前のあの日と同じ日に足を引き摺った旅人が現れたのは、彼女が言うように聖母のお伝えかもしれない。苦労して歩くことにはいつだって意味があるのだ。
世間が狭いと言えばそれまでだが、彼女の堅実でさっぱりとした人柄のおかげで、死者の御霊も物語そのものも明るい方へと解放されたのだろう。
二作とも大切な人と別れた男が、そのいなくなった人に語り掛ける話だ。
「星に降る雪」は、山奥の観測施設で星からのメッセージを待つ男が主人公の短編。
主人公の田村は、登山中に雪崩に巻き込まれ二十年来の親友新庄を失った。その後、田村は東京の職場を辞め、野辺山の電波天文台に行き、そこも一年半で辞めて神岡のニュートリノ研究施設で働いている。そこから降りることはなく、東京にも行かない。
星の近くに居たかった。
田村はそこで星のメッセージを待っているのだ。だから、東京から野辺山に移り、そこからさらに山奥の神岡に移った。
雪崩で亡くなる五年前に、パラグライダーの事故で死にかけた新庄が乱気流の中で受け取ったメッセージ。星空から降る雪に先導された新庄が、そのメッセージを携えて「向こう側」から降りてくるのを迎えたいのだ。
田村の元に、新庄の恋人だった亜矢子が訪ねてくる。
亜矢子は田村に疑問をぶつける。あの雪崩について、新庄について。田村にとっての新庄と亜矢子にとっての新庄は、まるで違う人間のようだ。
どうして空ばかり見ているのと亜矢子は問う。
それは彼女には分からないことだと田村は思う。
“空を見ないで、来もしないものを待たないで、地面の上に立って、同じように地面の上にいる男を愛する”のが亜矢子にとっての生きるということなのだから。
三日前に来た短期滞在のドイツ人研究者なら分かるだろう。それは男とか女とかではなく、人間の種類の違いだ。
メッセージは神岡には来ないかもしれない。
チリのアタカマ高原に大きなミリ波の観測施設を作る話が進んでいる。組織内に配信された職員募集のメールを見て以来、田村はその南米の、乾燥した、寒い山の上に思いをはせている。枯れて、冷え切って、強風が吹いていて、まるで別の星の上みたいなところ。風がふっと止んだ時に、空気は軽い乾いた粉雪で満たされる。そこに行けば、新庄を迎えることが出来るのではないだろうか。
亜矢子にとっての新庄より田村にとっての新庄の方が魅力的だが、多分どちらも新庄そのものではない。二人ともそれぞれの新庄を胸に抱いて生きるよすがとするのだろう。死者とは生者のためにそのかたちを造られるのだ。
田村がいっそ潔いくらい厭世的なのに対して、亜矢子の堅実アピールはどこか無理が感じられた。彼女が田村に対して言い募れば募るほど、ナチュラルにそう信じているのではなく、自分に言い聞かせているような印象を受けたのだ。途中で語られるマテオとの思い出からも、亜矢子という人は本質的には地に足のつかないタイプだと思う。
彼女はきっとまだ苦しい。それでも田村は、“彼女は大丈夫だろう。しっかり生きていくだろう。”と独白する。“新庄、あれでよかったのかな?よかったんだよな。”と。そして、また自分の想いに還るのだ。田村にとっては、亜矢子など所詮は赤の他人、親友と二ヶ月だけ恋仲だった人に過ぎないのだから。
無限に広がる星空と対照的に、うちへうちへと閉じていく田村の心の在り方が面白かった。
「修道院」は、「星に降る雪」の二倍ほどの長さの中編小説。三人の人物によって物語が紡がれていく。
クレタ島を旅行中の私から始まり、私が偶然滞在することになった村で宿を営むエレニへ、更にアレクサンドリアからエレニの村に流れて来たミノスへとバトンタッチ式に視点が変わる。視点が変わるたびに物語は過去へと遡っていくのだが、引継ぎが自然でぎこちなさがない。
大変業の深い物語なのにドロドロしていないのは、瑞々しい文章とエレニの堅実な人柄のおかげだろう。この話、ミノスの視点のみで描かれていたら読めたものではなかったと思う。
その年の夏をクレタ島で過ごすことにした私は、宿を探している途中で「旧修道院」の案内を見つける。
山道を五分ほど降りたところにあったそれは、上の修道院が様々な色彩で飾られていたのに対して、すべての色が落剝していた。
廃墟を散策していた私は、敷地の中に小さな礼拝堂を見つけた。
その礼拝堂は荒れてはいたが、他の建物に比べると損壊の程度が違った。汚れているが壁はしっかりと立ち、屋根も健在。何よりも扉があった。そう遠くない昔に誰かの手で修復されたらしい。
人の膝くらいの高さの壁に黒い石の銘板が埋め込んであった。それには〈ミルトスのために〉とのみ刻まれていて、あとは年代も何もない。
壁沿いに少し進むと、今度は窓を見つけた。窓の縁に手をかけて中を覗くと闇の中にイコンが見えた。聖母マリアらしき像だが、赤ん坊は抱いていない。目が闇に慣れてくるとその像が泣いているように見えた。これは嘆きの聖母だろうか?
もう一度よく見ようと首を伸ばした私は、手が滑ったはずみで地面に落ち、足を挫いてしまった。
足を引き摺りながら本道に出た私は、農夫のトラックに拾われて一軒の宿に運び込まれた。
その宿で、私はエレニという老婆の触診を受けた。幸い骨は折れていなかったが、当分痛みが治まりそうにない。私は暫くこの宿に滞在することに決めた。
翌日、私はエレニに旧修道院に行った話をした。
すると、彼女は真剣な表情で、礼拝堂の中は見えたかを問うてきた。私が見たものを話すと、エレニは日付を確かめた。昨日は八月二十二日だった。
あの人が行ってしまったのは五十年前のその日だった。あの人も足を引き摺っていた。聖母がお泣きになったのはわたしへのお伝えかもしれないーー。しばらく考え込んだのち、エレニは五十年前の出来事を話し出した。
エレニの言うあの人とは、ミノスという名のほっそりとした都会風の男だった。
小さな鞄一つで村にやって来たミノスを、はじめは村を通り過ぎていく旅人だとみんな思った。彼はエレニの父親が営む宿に泊まった。そのまま居続けたのだから旅の途中ではなかったのだろう。誰とも打ち解けようとしないが、金払いが良く村の娘にちょっかいを掛けないので、害のない男だということは分かった。
そのうち、ミノスは朽ち果てた下の旧修道院を見つけると、無償で修復を始めた。
彼は、大工、石工、指物師など、礼拝堂の修復に必要なあらゆる技術に長けていた。おまけに風采が良く、無口でミステリアスな大人の男だ。当時十六歳だったエレニと一つ下の弟のアレクシスは、忽ち彼に夢中になった。
とはいえ、エレニたちはミノスとの距離を詰めることは出来なかった。二人は最後まで彼を見ているだけだった。
ミノスには贖罪の必要があったのだ。
ミノスにとって旧修道院の修復は、ある男に約束した「百回のおミサ」に相当するものだった。だから基本的には一人で作業し、どうしても必要な時にだけアレクシスに手伝わせた。
アレクサンドリアから美しく驕慢な女がやって来たのは、八月十五日のキミシスのお祭りの後だった。アダという名のその女は、ミノスを追いかけてきたのだ。
アダはエレニたちにミノスの修復した旧修道院の案内をさせ、ミノス自身との面会も求めた。その夜、アダはミノスの部屋に泊まったが、翌朝には姿を消していた。ミノスも部屋からいなくなっていた。
ミノスの身を案じて旧修道院に向かったエレニとアレクシスは、そこでミノスが狂気を孕んだ口調で神に訴えているのを目撃した。ミノスにとって、アダとの再会は「百回のおミサ」を無にするものだったのだ。
ミノスとアダ。ミノスが「百回のおミサ」を約束した幼馴染のミルトス。アダの召使だったシェイダ。
エレニとアレクシスは、ミノスから四人に起きた忌まわしい出来事の一部始終を聞かされる。
「五十年だね。あんたが見たとおり聖母がお泣きになったんだから、やはりミノスとアダのためにおミサを挙げてもらおうかね。ミルトスのためには百一回目のおミサになる訳だからね」
ミノス達の身に起きたことは、十代の子どもに聞かせるにはあまりにも罪深い話だった。
ミノスは語り終えたその足で村を出ていったけど、エレニは彼の後始末をすべて引き受けた。そして、五十年間それらを心のうちにしまい込んで生きて来たのだ。
ミノスが去り、アレクシスが出て行っても、村に留まり、結婚し、子供を産み、親から受け継いだ宿を守り続けた。アダやシェイダの華やかな都会の暮らしを聞いても、そんなものには心を動かされなかったし、ミノスを追いかけて村を捨てることもなかった。大した女性だと思う。
ミノスの物語のだと思って読み進めていたが、終盤になって実はエレニの物語だったことに気づいた。
「星に降る雪」が「向こう側」に行ってしまった人を慕い、自分も「向こう側」に行こうとしている男が主人公の物語であるのに対し、「修道院」はそのような男を一つ所に根を張って見つめて来た女が主人公の物語だ。
亜矢子がさっぱり理解できなかった「向こう側」志向の人物を、エレニは正反対の生き方をしているからこそ受け入れ、送り出すことが出来た。そんな彼女のもとに、五十年前のあの日と同じ日に足を引き摺った旅人が現れたのは、彼女が言うように聖母のお伝えかもしれない。苦労して歩くことにはいつだって意味があるのだ。
世間が狭いと言えばそれまでだが、彼女の堅実でさっぱりとした人柄のおかげで、死者の御霊も物語そのものも明るい方へと解放されたのだろう。