青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

三人の女・黒つぐみ

2018-06-12 07:00:33 | 日記
ローベルト・ムージル著『三人の女・黒つぐみ』

「三人の女」に収められている三作は連作ではなく、それぞれ別個の作品である。

表紙の解説からはあまり魅力を感じられない。無垢で善良なお坊ちゃんがタチの悪い女に運命を狂わせられるマノン・レスコー的な話を想起してしまうのだ。
実際読んでみると、三作の主人公の男たちが何れも単純とも無垢とも言いかねる厄介な性分であるのに対し、女たちの方はやっていること自体は背徳的でもマノン・レスコーほど阿婆擦れとは思えない。彼女たちはケチな淫売などではなく、もっとずっと単純で、文明人の小賢しいルールを超えた神秘的な存在なのだった。

三作の中では、「グリージャ」が一番スラスラ読めた。

男の妻が病弱な息子を連れて長期の保養旅行に出る。男は家族の不在の間に知り合いから持ち掛けられた仕事を受けて、イタリアのとある山村に向かう。そこで知り合ったグリージャと呼ばれる人妻と不倫の仲になる。グリージャとは彼女の本名ではない。彼女の飼っていた牝牛が、グリージャ(灰色むすめ)と呼ばれていたのだ。ある日、男が坑道でグリージャと逢引していると、いつの間にかグリージャの夫が立っていて、出口を塞がれてしまう。暗闇に閉じ込められた男が哲学的思索に耽っている間に、いつの間にかグリージャがいなくなっている。男はいつの間にか間道を見つけたグリージャに置き去りにされたのだ。
……と掻い摘んでしまえば、身も蓋もない話である。短い粗筋の中に「いつの間にか」が三つも入っているが、本当にそんな話なのだ。男が間抜け過ぎてコントかと思うが、悲劇らしい。

巻末の解説には下記のような説明があった。

“気やすく読み流せば、悲劇に終わる不倫の関係を、バルザックやモーパッサンの調子で奇譚に仕立て上げた、という具合に読まれるかもしれない。しかしそう読むためには、細部の記述は謎を孕みすぎていよう。物語の運び、筋立ての因果関係とまったくかかわりのない、異質の力が割りこんできているとかんじられよう。”

どうやら、私の好奇心不足のために色々と読み落としがあるようだ。
男が訪れた山村の住人たちは、現代とは思えないほど奇妙で古雅な風習の中で暮らしている。ラストの死を甘んじて受け入れているように読める男の態度から推測すれば、男は山村に足を踏み入れた時から、或いはそこでの仕事を引き受けた時から、棺桶に片足を突っ込んでいたのではないか。そう考えれば、山村全体を覆う異界的な雰囲気も納得なのだ。あそこは彼岸と此岸との中継地点なのだろう。
擦り硝子越しの風景のように茫洋として捉え難い物語である。一つだけ分かることは、グリージャが男を置き去りにした理由は、男が考えるような「亭主への忠義だて」などではないということだ。男への悪意でもないだろう。死ぬかもしれないとわかっていて男を置き去りにしたのにも、そもそも男と不倫をしたのにも深い考えなどないのではないか。何と言っても「灰色の牝牛」と呼ばれる女なのだ。彼女はこの先も、男と関りを持つ前と一切変わることなく淡々と暮らしていくのだろう。
一つの関係の当事者同士なのに、一人は命を落として、もう一人は爪痕一つほどの疵も受けていない。この不条理を滑稽と取るか悲劇と取るかは読み手の感性によるだろう。


「トンカ」は、主人公の哲学趣味や観念的描写が私には重すぎて、読了するのに骨が折れた。

男には、結婚を考えていたトンカという恋人がいた。そのトンカが身籠った。しかし、逆算すると、その頃、男は彼女と離れて旅に出ていたのだ。その上、女は性病に罹患していた。男は自分も検査を受けたが、彼の身は潔白だった。
よくある不幸な気がするが、男の理屈っぽさと女の異様な単純さが織りなす全くかみ合わない会話が物語を奇妙な方向に転がしていく。「グリージャ」と同様、当事者にとっては悲劇だが、他人にとっては滑稽でしかない。

トンカの不義を疑った男は、当然のことながら彼女を詰問する。
しかし、普段から朴訥で、たまに喋ったかと思えば、単純なことしか言わない女は、この非常時にも「嘘じゃありません」と繰り返すばかりなのだ。何を考えているのかさっぱり分からない。だけど、彼女の単純無垢な言葉と表情に接していると、ありえない話なのに信じるしかなくなってしまうのだ。

トンカは、最初から不可解な女だった。
トンカは、男が自分の祖母の介護と話し相手をさせるために雇った女だった。男はトンカが同じ地域に住みながらも、まったく異なる階層に属していることを知っていた。トンカの生まれ育った家の近所には商売女や浮気な人妻を斡旋する店や女子刑務所があった。近所ばかりではない。身内にも身持ちの悪い女が何人もいた。

生まれた時から常識の物差しが違う。
二人で話をしてみても、まるで話がかみ合わない。男がひとりで喋っているようだった。
たとえば、男が「きみのような若い娘が、一日中老人の世話をしなくてはならないなんて」と問う。それに対して、トンカは「お年寄りのお相手は好きです」とか、「だってお仕事ですもの」などと答える。男が言わんとしていることは、もっとやりがいのある仕事をしてみたくないのかとか、夢や希望はないのかとかなのだが、トンカとしては訊かれた通りに答えているつもりなのだ。男がもう少し突っ込んで「何か他に生きがいはあるの?」などと訊く。トンカは「いいえ」と答える。男の質問に対するトンカの答えは、基本的に「ええ」か「いいえ」だ。男はさらに「思ったことをいってみない?」と追及してみる。すると、トンカは「お給料をいただかなくてはならなかったものですから」と答える。男は、何と簡単なこと!と思う。この女は、問いかけの真意を理解できていないのではないか?
一事が万事こんな調子の女だし、生まれが卑しいということもあって、男の親族は二人の仲を認める気にはなれない。トンカが父親の分からない子供を身籠ってからはなおさらだった。男の実家からの援助を断ち切られ、トンカも仕事を失い、二人はみるみる困窮していく。

男はトンカの何を愛したのか?
解説には“限りなく哀切な愛の物語”とあるが、彼らの間に本当に愛があったのだろうか?愛と理解とは必ずしもイコールではないが、ここまで意思の疎通が出来ていないと、愛があると考える方が不自然な気がする。

男はトンカについて、こんなことを考える。

“トンカを知るとは、彼女に一種の返答を与えねばならぬこと、彼女にむかって、きみはこういう人間だよといってやることだった。彼女がなんであるかは、ほとんど彼次第できまることだった。”

トンカの方は二人の関係について、こう述べている。

“「あなたのおっしゃることがわかるかどうか、そんなこと、どちらでもいいのです。わかったところで、ご返事できないでしょうし。でも、あなたが真剣になっていらっしゃるのが、わたくし嬉しいの。」”

ああ、なんて単純なのだろう。そして、何と自分自身のことも、二人のこともよくわかっていることだろう。この単純明快な正しさの前では、男の哲学的思考など蟷螂の刃ほどの力も持たないのだ。
トンカは意識的に男を翻弄しているのではない。しかし、まったく天衣無縫でもない。トンカはトンカなりに、常に男の顔色を窺っている。それはもう、痛々しいくらいに。そこだけは哀切と思えた。

“彼女は自然そのもののように純粋で生一本だった。単純な女を愛するということは、なかなかもって単純なことではない。”

男も難儀だっただろうが、トンカにとっても男との生活は、野生の動物が檻に閉じ込められるような、川が無理に流れの形を変えられるような、不自然で息苦しいものだったのではないか。
トンカはいったい男の何を愛していたのだろう?
私には、男の言う愛とは、自然を人間の暮らしやすいように重機で破壊する公共事業のようなものに思えた。

二人で森に行ったとき、トンカはこんなことを考えていた。

“(略)この時トンカは、自然というものが、夜空の星のように散りぢりになって寂しくいきている、ささやかな醜いものばかりでできているということを感じただろう。美しい自然、というのか。角灯のような頭をした一匹の雀蜂が、彼の足のまわりをはっていた。彼は雀蜂の方を見やり、それから自分の足を見た。大きな黒いその足は、褐色の道にはすかいに突き出していた。
いつか男が自分の前に立ちふさがって、どうしても逃げられなくなるのではないか、トンカはよくそんな心配をしたものだった。“

トンカが死んだとき、男はこんなことを思った。

“かつて知らなかったもの一切が、この瞬間彼の前に立っていた。眼から眼帯が落ちたような気がした。それは本当の一瞬で、次の瞬間にはすぐ、何かえたいの知れぬ思いが彼を襲ったらしかった。”

それは、何かを掴めそうな瞬間だったのかもしれないし、逆に何かを失う瞬間だったのかもしれない。何れにしても、もうトンカの役には立たなかった。

自然と愛はよく似ている。
離れて眺めているうちは美しく感じられるが、近くで見ればそれを構成する一つ一つの要素は醜悪だ。そして、思い通りにはならない。
男が求めていたものを、トンカは元々持っていなかった。それは彼女のせいではない。二人は最初から最後まで別の次元で生きていたのだ。
読み続けるのに集中力が続かず、途中で別の作家の作品を呼んで息抜きしてから、再挑戦した。終始異物感に付き纏われる、たいへん息苦しい読書体験であった。
ムージルの言わんとするところは、おそらく私が感じたようなことではないのだろう。あまり良い読み方が出来なくて申し訳ないと思った。
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