カルロス・フエンテス著『遠い家族』
私がフエンテスの小説を読むのは、『アウラ・純な魂』に次いで二作目だ。
技巧的な小説作法と流麗で繊細な文章は『アウラ・純な魂』と同様である。更に本作は長編ということもあって、フエンテスが追求し続けたテーマ、即ち、旧世界と新世界(本作では特にフランスとメキシコ)の文化的・歴史的な関係、その両方の世界を知るフエンテスのメキシコ人としてのアイデンティティの問題、記憶や時間の捉え方、亡命と帰属、所有と剥奪、存在と不在、調和と不調和、情愛と非情などの対立する感情がふんだんに盛り込まれている。
故に短編集の『アウラ・純な魂』以上に把握するのが難しい。一応ゴシック小説の形式を取り、怪奇的な雰囲気を漂わせているが、そのカテゴリにのみ収まる作品でもないのだ。
この小説はブランリー伯爵が〈私〉に語った物語を、〈私〉が読者に対して語るという形式をとっているのだが、回想の中にしばしばブランリー伯爵と〈私〉が今現在レストランで交わしている会話が差し込まれている。複数の視点と時間・場所が重なり合い、沈んだり浮かんだりすることで、物語に幻想的な揺らぎと奥行きの深さを与えているのである。
語りの手〈私〉はパリの自動車クラブのレストランで83歳という高齢の友人ブランリー伯爵から神秘的で不気味な体験談を聞かされることになる。
ブランリー伯爵は数ヶ月前にメキシコ旅行をした時に、トルテカ遺跡で共通の友人ジャンを介してメキシコ人の考古学者ウーゴ・エレディアとその息子ビクトルと知り合った。
エレディア父子の親密さは異様で、ブランリー伯爵をして、あまりにも完璧な円の完成、即ち、アルファとオメガの結婚を想起させるのだった。
エレディア父子は前年に飛行機事故で妻のルシーと長男のアントニオを失っていた。エレディア父子は発掘のために出かける先の町々で、自分たちの同姓同名の人物を電話帳で探し、その数を競ったり電話を掛けたりするという奇妙なゲームに熱中していた。
暫くしてウーゴは講演の為にビクトルを連れてパリにやって来て、ブランリー伯爵の邸宅に滞在することになる。
そこでもエレディア父子は同性同名者探しゲームに耽り、探し当てた人物に電話してくれるようにブランリー伯爵に頼むのだった。ブランリー伯爵が電話を掛けると出てきたのは年配の非常に感じの悪い男だった。
その人物に会いに行きたいというビクトル少年の懇願を聞き入れ、ブランリー伯爵はビクトル少年を伴い、電話帳に載っていた深い森の中にある古い屋敷クロ・デ・ルナール館を尋ねた。そこで事故が起きたため、二人は暫くクロ・デ・ルナール館に滞在することになる。
この館で二人はビクトルと同姓同名の主人とその息子アンドレを知る。
フランス人のビクトルは何故かブランリー伯爵に異様な怨恨を抱いているが、それはどうやらブランリー伯爵の少年時代に機縁するらしい。
ブランリー伯爵はフランス人のビクトルに自宅に迎えの電話を入れてくれるように頼むが、何故か誰も迎えに来ない。運転手の行方も分からない。ブランリー伯爵はフランス人のビクトルから不快な仕打ちを受けながら病床を過ごすことになる。
なめし革の匂いの漂う館のあちこちで、ブランリー伯爵は色々な幻覚を見る。
それは時間と空間が錯綜する非現実的な世界であった。その中でブランリー伯爵は自らの過去を再び生きたり、新大陸の植民者で密輸、奴隷売買、売春などで財を成したエレディア一族の汚辱にまみれた歴史を聞かされたりしながら、自分とフランス人のビクトル・エレディアとの因縁を思い出していく。
その一方でビクトル少年はアンドレと親密になり、肉体的にも精神的にも融合して、ビクトルでもアンドレでもない、アンドレ=ビクトルとでも呼ぶべき新たな存在となるのだった。
回復したブランリー伯爵はビクトル少年を連れてパリに戻ろうとするが、司祭のような服を纏ったフランス人のビクトルに殺されそうになる。
ブランリー伯爵は、寸でのところで迎えに来た自分の召使たちによって救われる。召使たちはフランス人のビクトルを配膳リフトの立て杭の中に突き落として殺害する。ブランリー伯爵達はアンドレと合体したビクトルを残して館を後にする。
パリの屋敷に戻ると、ウーゴは息子を置き去りにしたまま帰国していた。
ここまで語り終えてから、ブランリー伯爵と〈私〉はクラブのレストランからプールへと移動する。ここからはブランリー伯爵がウーゴから聞いた話を〈私〉に聞かせ、それを〈私〉が読者に聞かせることになる。
ブランリー伯爵はウーゴを追いかけ、メキシコへ向かった。
ウーゴは自分たち一家の物語をブランリー伯爵に聞かせる。
ウーゴはカラカスで開かれた考古学会に出席するために一家四人で旅行をした。一家は作家のオテロ氏の仮面舞踏会に招かる。そこでウーゴは司祭のような服を纏った奇妙な人物に話しかけられた。その人物こそがクロ・デ・ルナール館の主人、フランス人のビクトル・エレディアなのだった。
フランス人のビクトル・エレディアは、自分の母は黒人暴動を逃れハイチからラ・グアイラにやって来たと言うが、ウーゴの眼には彼がそれほどの老人には見えなかった。
フランス人のビクトル・エレディアはウーゴに、「いつかこの私が必要になったら電話帳で探してください」と告げ、「どうして私にあなたが必要になるのかね?」と問うウーゴに対し、「我々はみんな時々思い出す必要があるんですよ」と答える。
ルシーとアントニオが飛行機の墜落事故で命を失ったのは、その年のクリスマスの日だった。その時から残されたウーゴとビクトルの関係は変わった。
エレディア父子が繰り返し行っていた同姓同名探しのゲームは、フランス人のビクトル・エレディアを見つけるためだったのだ。
ウーゴは彼の家族の崩壊とその失われた家族へのノスタルジアと共に、彼が知る限りのエレディア一族の物語をブランリー伯爵に伝える。
それは想像し得る残虐な行為、生死に関わる遺棄、強姦嗜好、様々な肉欲の罪、野心、金銭、権力、奪った生命や略奪した財産、それから新大陸で名を成した者がその上に自分たちの生活を築き上げている貧困、つまりは新大陸の白人たちの罪障の物語なのだった。
“あなたは過去を持つが、それがどんなものか覚えていない。あなたに残されているわずかな時間の中でそれを思い出しなさい。さもなくば、あなたの未来は失われることになるだろう。”
これがこの物語の登場人物皆が分かち持っている義務なのだとウーゴは言う。
語り終えてからウーゴは、この話を他言しないように、もしあなたが不誠実で誰か他の人にこの話をするなら、自分は酷い結末を迎えることになると言う。
謎が解けたと思うや否や、回答そのものが新たな謎となる。ウーゴがブランリー伯爵に思い出させたかった過去とは何なのだろう。
“全ては関連しており、孤立しているものは何もない、あらゆるものはその空間的、時間的、物理的、夢幻的、可視的、不可視的属性の全体を伴っている。”
“すべての物語は他の物語と隣り合っている”
個人個人の運命は、それと対立したり、それを補完したり、それを予示したりする他のすべてのものと結びついている。ウーゴ、ブランリー伯爵、ビクトル・エレディア、それぞれの物語はそれ一つでは未完であり、独立することは出来ない。
『遠い家族』は、ブランリー伯爵が召使たちと共にクロ・デ・ルナール館を去った瞬間に終わることもあり得た。しかし、物語はまだ終わってはいなかった。何故なら物語は未完で他の物語と隣接するという性質を持つからである。ブランリー伯爵の物語は、ウーゴ・エレディアの物語を介してビクトル・エレディアの物語と繋がっていく。
ブランリー伯爵が旧大陸の秩序と理知を象徴する人物なら、ビクトル・エレディアは新大陸の混沌と熱狂を象徴する人物だ。
作中でしばしば悪魔的人物と評されるビクトル・エレディアは、ある特定の時というよりは様々な時間と場所の漠然とした存在である。特定の生年月日も出身地も持たないがゆえに未完の物語をいくつも背負っている。
彼は1812年ラ・グライラで知り合い1864年クエルナバカの売春宿で別れたフランシスコ・ルイスとママゼルの子供であり、フランシスコ・ルイスとその二番目の妻、心優しいが愚かなリムーザン生まれの大食い女の子供であり、ブランリー伯爵がよくモンソー公園に出かけていた20世紀初頭においてブランリー伯爵と同世代の子供でもある。彼は何歳なのだろうか?
様々な時間と場所に存在するかのように見える人物はほかにもいる。
フエンテスの作品では、ある人物と別の人物との重ね合わせがしばしば起きる。『アウラ』では、コンスエロ夫人とアウラ、リョレンテ将軍とモンテーロがその関係にある。
『遠い家族』では、〈私〉がブランリー伯爵の屋敷の一室で出会ったウーゴ・エレディアの妻ルシーの亡霊とビクトル・エレディアが自分の母だというママゼルやブランリー伯爵の少年時代の恋人とが重なり合っている。
この永遠に未完の女性は、ブランリー伯爵においてのみあらゆる時間が蘇るらしい。彼女はブランリー伯爵が死ぬや否や生き始める。ブランリー伯爵は丁度彼女が今までそうであったように、死んだ瞬間から彼女の亡霊になる。彼らは、初めも終わりもない無限の時間や空間の恐ろしい観念の中に存在しているのだ。
“すべてのものは存在しており、我々が忘れ去ることで罪深くも死に追いやらないかぎり、なにものも完全に死に絶えることはない。すなわち、忘却が唯一の死であり、現在における過去の存在が唯一の生なのだよ。”
“思い出したものだけが記憶なんです。”
“我々は時間は自分たちのものだと思っている。しかし共有する時間以外に本物の時間はないということを過去は我々に教えてくれる。”
場面が他の場面と繋がっているのかいないのか、複数の人物から発せられる言葉が関連あるのか無いのか、曖昧なまま物語は拡散していく。
最後に〈私〉が作者のフエンテス自身であることが明かされる。
彼は望みもしないうちに、自分がブランリー伯爵によってこの物語の新たなる語り手に仕立て上げられていることに気づき、愕然とする。
聖マルティヌスの夏、彼はプールの中に臍の緒で結ばれシャム双生児のように抱き合っている皴だらけの顔をした二つの胎児が漂っているのを見つける。彼は二つの胎児の顔に会ったこともないビクトルとアンドレの年老いた顔を見ている。胎児たちが「エレディア、あなたはエレディアですよ」と囁く。永遠に未完のままこの物語は幕を閉じる。
物語が未完のまま次々に引き継がれていくこの出口のない作品について、うまく感想を纏められなかった。代わりと言っては何だが、最後に訳者による解説を引用しておく。
“言葉と意味とが恩寵に至る飛び石とはならず、テキストを追っていくと別のテキストが現れ、前の意味はことごとく覆され、様々な意味に満ち満ちているが〈意味〉を欠いている意味の迷宮にさまよい込んだ感がある。”
私がフエンテスの小説を読むのは、『アウラ・純な魂』に次いで二作目だ。
技巧的な小説作法と流麗で繊細な文章は『アウラ・純な魂』と同様である。更に本作は長編ということもあって、フエンテスが追求し続けたテーマ、即ち、旧世界と新世界(本作では特にフランスとメキシコ)の文化的・歴史的な関係、その両方の世界を知るフエンテスのメキシコ人としてのアイデンティティの問題、記憶や時間の捉え方、亡命と帰属、所有と剥奪、存在と不在、調和と不調和、情愛と非情などの対立する感情がふんだんに盛り込まれている。
故に短編集の『アウラ・純な魂』以上に把握するのが難しい。一応ゴシック小説の形式を取り、怪奇的な雰囲気を漂わせているが、そのカテゴリにのみ収まる作品でもないのだ。
この小説はブランリー伯爵が〈私〉に語った物語を、〈私〉が読者に対して語るという形式をとっているのだが、回想の中にしばしばブランリー伯爵と〈私〉が今現在レストランで交わしている会話が差し込まれている。複数の視点と時間・場所が重なり合い、沈んだり浮かんだりすることで、物語に幻想的な揺らぎと奥行きの深さを与えているのである。
語りの手〈私〉はパリの自動車クラブのレストランで83歳という高齢の友人ブランリー伯爵から神秘的で不気味な体験談を聞かされることになる。
ブランリー伯爵は数ヶ月前にメキシコ旅行をした時に、トルテカ遺跡で共通の友人ジャンを介してメキシコ人の考古学者ウーゴ・エレディアとその息子ビクトルと知り合った。
エレディア父子の親密さは異様で、ブランリー伯爵をして、あまりにも完璧な円の完成、即ち、アルファとオメガの結婚を想起させるのだった。
エレディア父子は前年に飛行機事故で妻のルシーと長男のアントニオを失っていた。エレディア父子は発掘のために出かける先の町々で、自分たちの同姓同名の人物を電話帳で探し、その数を競ったり電話を掛けたりするという奇妙なゲームに熱中していた。
暫くしてウーゴは講演の為にビクトルを連れてパリにやって来て、ブランリー伯爵の邸宅に滞在することになる。
そこでもエレディア父子は同性同名者探しゲームに耽り、探し当てた人物に電話してくれるようにブランリー伯爵に頼むのだった。ブランリー伯爵が電話を掛けると出てきたのは年配の非常に感じの悪い男だった。
その人物に会いに行きたいというビクトル少年の懇願を聞き入れ、ブランリー伯爵はビクトル少年を伴い、電話帳に載っていた深い森の中にある古い屋敷クロ・デ・ルナール館を尋ねた。そこで事故が起きたため、二人は暫くクロ・デ・ルナール館に滞在することになる。
この館で二人はビクトルと同姓同名の主人とその息子アンドレを知る。
フランス人のビクトルは何故かブランリー伯爵に異様な怨恨を抱いているが、それはどうやらブランリー伯爵の少年時代に機縁するらしい。
ブランリー伯爵はフランス人のビクトルに自宅に迎えの電話を入れてくれるように頼むが、何故か誰も迎えに来ない。運転手の行方も分からない。ブランリー伯爵はフランス人のビクトルから不快な仕打ちを受けながら病床を過ごすことになる。
なめし革の匂いの漂う館のあちこちで、ブランリー伯爵は色々な幻覚を見る。
それは時間と空間が錯綜する非現実的な世界であった。その中でブランリー伯爵は自らの過去を再び生きたり、新大陸の植民者で密輸、奴隷売買、売春などで財を成したエレディア一族の汚辱にまみれた歴史を聞かされたりしながら、自分とフランス人のビクトル・エレディアとの因縁を思い出していく。
その一方でビクトル少年はアンドレと親密になり、肉体的にも精神的にも融合して、ビクトルでもアンドレでもない、アンドレ=ビクトルとでも呼ぶべき新たな存在となるのだった。
回復したブランリー伯爵はビクトル少年を連れてパリに戻ろうとするが、司祭のような服を纏ったフランス人のビクトルに殺されそうになる。
ブランリー伯爵は、寸でのところで迎えに来た自分の召使たちによって救われる。召使たちはフランス人のビクトルを配膳リフトの立て杭の中に突き落として殺害する。ブランリー伯爵達はアンドレと合体したビクトルを残して館を後にする。
パリの屋敷に戻ると、ウーゴは息子を置き去りにしたまま帰国していた。
ここまで語り終えてから、ブランリー伯爵と〈私〉はクラブのレストランからプールへと移動する。ここからはブランリー伯爵がウーゴから聞いた話を〈私〉に聞かせ、それを〈私〉が読者に聞かせることになる。
ブランリー伯爵はウーゴを追いかけ、メキシコへ向かった。
ウーゴは自分たち一家の物語をブランリー伯爵に聞かせる。
ウーゴはカラカスで開かれた考古学会に出席するために一家四人で旅行をした。一家は作家のオテロ氏の仮面舞踏会に招かる。そこでウーゴは司祭のような服を纏った奇妙な人物に話しかけられた。その人物こそがクロ・デ・ルナール館の主人、フランス人のビクトル・エレディアなのだった。
フランス人のビクトル・エレディアは、自分の母は黒人暴動を逃れハイチからラ・グアイラにやって来たと言うが、ウーゴの眼には彼がそれほどの老人には見えなかった。
フランス人のビクトル・エレディアはウーゴに、「いつかこの私が必要になったら電話帳で探してください」と告げ、「どうして私にあなたが必要になるのかね?」と問うウーゴに対し、「我々はみんな時々思い出す必要があるんですよ」と答える。
ルシーとアントニオが飛行機の墜落事故で命を失ったのは、その年のクリスマスの日だった。その時から残されたウーゴとビクトルの関係は変わった。
エレディア父子が繰り返し行っていた同姓同名探しのゲームは、フランス人のビクトル・エレディアを見つけるためだったのだ。
ウーゴは彼の家族の崩壊とその失われた家族へのノスタルジアと共に、彼が知る限りのエレディア一族の物語をブランリー伯爵に伝える。
それは想像し得る残虐な行為、生死に関わる遺棄、強姦嗜好、様々な肉欲の罪、野心、金銭、権力、奪った生命や略奪した財産、それから新大陸で名を成した者がその上に自分たちの生活を築き上げている貧困、つまりは新大陸の白人たちの罪障の物語なのだった。
“あなたは過去を持つが、それがどんなものか覚えていない。あなたに残されているわずかな時間の中でそれを思い出しなさい。さもなくば、あなたの未来は失われることになるだろう。”
これがこの物語の登場人物皆が分かち持っている義務なのだとウーゴは言う。
語り終えてからウーゴは、この話を他言しないように、もしあなたが不誠実で誰か他の人にこの話をするなら、自分は酷い結末を迎えることになると言う。
謎が解けたと思うや否や、回答そのものが新たな謎となる。ウーゴがブランリー伯爵に思い出させたかった過去とは何なのだろう。
“全ては関連しており、孤立しているものは何もない、あらゆるものはその空間的、時間的、物理的、夢幻的、可視的、不可視的属性の全体を伴っている。”
“すべての物語は他の物語と隣り合っている”
個人個人の運命は、それと対立したり、それを補完したり、それを予示したりする他のすべてのものと結びついている。ウーゴ、ブランリー伯爵、ビクトル・エレディア、それぞれの物語はそれ一つでは未完であり、独立することは出来ない。
『遠い家族』は、ブランリー伯爵が召使たちと共にクロ・デ・ルナール館を去った瞬間に終わることもあり得た。しかし、物語はまだ終わってはいなかった。何故なら物語は未完で他の物語と隣接するという性質を持つからである。ブランリー伯爵の物語は、ウーゴ・エレディアの物語を介してビクトル・エレディアの物語と繋がっていく。
ブランリー伯爵が旧大陸の秩序と理知を象徴する人物なら、ビクトル・エレディアは新大陸の混沌と熱狂を象徴する人物だ。
作中でしばしば悪魔的人物と評されるビクトル・エレディアは、ある特定の時というよりは様々な時間と場所の漠然とした存在である。特定の生年月日も出身地も持たないがゆえに未完の物語をいくつも背負っている。
彼は1812年ラ・グライラで知り合い1864年クエルナバカの売春宿で別れたフランシスコ・ルイスとママゼルの子供であり、フランシスコ・ルイスとその二番目の妻、心優しいが愚かなリムーザン生まれの大食い女の子供であり、ブランリー伯爵がよくモンソー公園に出かけていた20世紀初頭においてブランリー伯爵と同世代の子供でもある。彼は何歳なのだろうか?
様々な時間と場所に存在するかのように見える人物はほかにもいる。
フエンテスの作品では、ある人物と別の人物との重ね合わせがしばしば起きる。『アウラ』では、コンスエロ夫人とアウラ、リョレンテ将軍とモンテーロがその関係にある。
『遠い家族』では、〈私〉がブランリー伯爵の屋敷の一室で出会ったウーゴ・エレディアの妻ルシーの亡霊とビクトル・エレディアが自分の母だというママゼルやブランリー伯爵の少年時代の恋人とが重なり合っている。
この永遠に未完の女性は、ブランリー伯爵においてのみあらゆる時間が蘇るらしい。彼女はブランリー伯爵が死ぬや否や生き始める。ブランリー伯爵は丁度彼女が今までそうであったように、死んだ瞬間から彼女の亡霊になる。彼らは、初めも終わりもない無限の時間や空間の恐ろしい観念の中に存在しているのだ。
“すべてのものは存在しており、我々が忘れ去ることで罪深くも死に追いやらないかぎり、なにものも完全に死に絶えることはない。すなわち、忘却が唯一の死であり、現在における過去の存在が唯一の生なのだよ。”
“思い出したものだけが記憶なんです。”
“我々は時間は自分たちのものだと思っている。しかし共有する時間以外に本物の時間はないということを過去は我々に教えてくれる。”
場面が他の場面と繋がっているのかいないのか、複数の人物から発せられる言葉が関連あるのか無いのか、曖昧なまま物語は拡散していく。
最後に〈私〉が作者のフエンテス自身であることが明かされる。
彼は望みもしないうちに、自分がブランリー伯爵によってこの物語の新たなる語り手に仕立て上げられていることに気づき、愕然とする。
聖マルティヌスの夏、彼はプールの中に臍の緒で結ばれシャム双生児のように抱き合っている皴だらけの顔をした二つの胎児が漂っているのを見つける。彼は二つの胎児の顔に会ったこともないビクトルとアンドレの年老いた顔を見ている。胎児たちが「エレディア、あなたはエレディアですよ」と囁く。永遠に未完のままこの物語は幕を閉じる。
物語が未完のまま次々に引き継がれていくこの出口のない作品について、うまく感想を纏められなかった。代わりと言っては何だが、最後に訳者による解説を引用しておく。
“言葉と意味とが恩寵に至る飛び石とはならず、テキストを追っていくと別のテキストが現れ、前の意味はことごとく覆され、様々な意味に満ち満ちているが〈意味〉を欠いている意味の迷宮にさまよい込んだ感がある。”