ガルシア・マルケス他『美しい水死人 ラテンアメリカ文学アンソロジー』
アルフォンソ・レイエス著「アランダ司令官の手」
オクタビオ・パス著「波と暮らして」
フアン・ルルフォ著「犬が鳴いてないか」
カルロス・フェンテス著「生活費」
ホルヘ・イバルグエンゴイティア著「カナリアとペンチと三人の死者のお話」
サルバドール・エリソンド著「包誠による歴史」
ホセ・エミリオ・パチェーコ著「遊園地」
アウグスト・モンテローソ著「ミスター・テイラー」
ガブリエル・ガルシア=マルケス著「美しい水死人」
フリオ・ラモン・リベイロ著「記章」
マヌエル・ローハス著「薔薇の男」
ホセ・ドノーソ著「閉じられたドア」
オラシオ・キローガ著「羽根枕」
フェリスベルト・エルナンデス著「水に浮かんだ家」
マヌエル・ムヒカ=ライネス著「旅行者――1840年」
アドルフォ・ビオイ=カサーレス著「パウリーナの思い出に」
フリオ・コルタサル著「山椒魚」
の17の短編が収録されている。
訳を手掛けた木村榮一による解説は、ラテンアメリカ諸国の歴史的背景にまで触れていて大変参考になる。これを丸暗記できれば、ラテンアメリカ文学について一席ぶつことが出来るんじゃないだろうか。
本書の収録作はスペイン語で書かれた作品ばかりなので、本来ならイスパノアメリカ文学と称すべきなのだが、イスパノアメリカという名称が日本では浸透していないので、あえてラテンアメリカを用いたのだそうだ。
コロンブスに発見されて以来、約三世紀にわたってスペイン・ポルトガルに統治され続けた新大陸は長く小説の不毛地帯だった。小説に対する厳しい規制が解けるのは独立戦争以後、19世紀も10年代に入ってからのことで、それまでは小説を書いて出版するどころか輸入すら禁止されていたのである。新大陸を独立運動に駆り立てた要因の一つがロマン主義の思想的影響で、独立後の文学者たちはまず、フランスのロマン主義を手本に創作を始めた。
ここで紹介されているキローガの「完璧な短編を書くための十戒」がなかなか楽しい。キローガの初々しい気負いは、そのままラテンアメリカ文学の精神の基礎になっているのだろう。
ブエノスアイレスとモンテビデオを中心とするラプラタ河流域では、19世紀後半からゴシック小説をはじめ欧米の幻想小説や怪奇譚が小ブームを起こした。その影響を受けている現代のラプラタ河幻想文学の作家たちは特に私の好みである。
多くの作家が過酷な環境の中で生きる様々な人々の悲惨や痛苦を描き出しているが、それもまたラテンアメリカの現実に基づいているのだ。神経症的な作品しか生まれなくなった先進国の文学と異なり、ラテンアメリカ文学は悲惨さも含めて図太く健康的である。
幻想性と地に足の付いた逞しさの融合がラテンアメリカ文学の魅力なのだろう。
17篇の中では、フアン・ルルフォ著「犬が鳴いてないか」、ガブリエル・ガルシア=マルケス著「美しい水死人」、フリオ・コルタサル著「山椒魚」が既読だった。収録作の中でもこの3編の完成度が抜きん出ていると思った。
特に表題作の「美しい水死人」は、アンソロジーの顔になるのが納得の傑作である。
海辺の村に流れ着いた大男の水死体を村人たちが弔うまでを描いた物語は、素朴な美と優しさに包まれていて、最後の“あそこがエステーバンの村なのですよ”のくだりで毎回目頭が熱くなる。この物語をぜひ美しい絵本にして欲しいと思った。
その他の作品では、オクタビオ・パス著「波と暮らして」、アウグスト・モンテローソ著「ミスター・テイラー」、フリオ・ラモン・リベイロ著「記章」、ホセ・ドノーソ著「閉じられたドア」が気に入った。
「波と暮らして」は、海から連れ帰った波と暮らす若い男の物語。どことなく山尾悠子を思わせるシュールな作風だ。
波との暮らしは最初から波瀾万丈だったが、時には穏やかな愛情めいたものを感じる時間もあった。ところが、波が寂しいと言ってふさぎ込むようになるにつれて、男は彼女が疎ましくなっていく。すると、男の心変わりを察知した波が悪態をつきながら猛り狂う。男はますます波を持て余すようになる。という悪循環を経てのラストが残酷だなと思う反面、男の立場に立てば仕方のないことだったかもしれないとも思えた。今更いじらしい姿を見せられても、一度冷めた心はもう元には戻らないということで。
「ミスター・テイラー」は、アマゾンの密林で首狩りをやって有名になったパーシー・テイラー氏の物語。
ボストンから姿を消したテイラー氏は7年後アマゾン地方に姿を現し、原住民と交わって暮らし始める。原住民から奇妙な干し首を受け取ったテイラー氏は、それを祖国の叔父に送る。干し首が好事家相手の商売になると踏んだ叔父によって、その後もどんどん干し首を送らされることになる。数か月後には空前の干し首ブームが巻き起こり、やがて供給が需要に追い付かなくなる。それに伴って物語は悪夢の様相を呈してくる、というブラックユーモア。
「記章」は、偶々銀製のバッジを拾ったことから得体の知れない結社の一員になってしまった男の物語。
男が最初から最後まで自分の所属する結社について何も分からないまま、とんとん拍子で出世していく様が、滑稽であり不気味でもある。男は物語の最後には、結社の会長にまで上り詰める。結社員からは閣下と敬われ、数多の召使と美女に囲まれた悠々自適の生活だ。だが、いくらそんなものがあろうと、男は今でも何も分からないままだし、それはこれから先も変わらないだろう。だから、誰かに組織の意味を問いかけられても口を濁すしかない。だけど、曖昧なことを言っておけば、どのようにでも解釈できるので、特に問題はないのだ。
「閉じられたドア」は、夢の世界に現れるドアを開くことを願いながら眠り続けた男の物語。
セバスティアン・デ・レンヒーフォは、赤ん坊の頃からよく寝る子供だった。思春期に入ってもそれは変わらず、趣味も友人も持たず学校から帰ると寸暇を惜しんで眠り続けるのだった。たまりかねた母のアデーラに詰問されると、自分は眠るために生まれてきた、などと言い出す。
すべての世界を明るく照らし出す光の世界を夢に見るけど、目が覚めた途端に、夢の世界に通じるドアは閉ざされてしまい、どんな夢だったのか思い出せない。夢の中で味わった幸福な感じを現実の世界に持ち込むには何とかしてドアを開かねばならない。そのためには眠り続けなければならない。セバスティアンにとってはそれが一番大切なことなのだった。
女手一つで苦労して育てた一人息子がこのざまである。
失望したアデーラはめっきり老け込んでしまった。それでも、セバスティアンはひたすら眠り続ける。成人し勤めに出るようになってからも、勤務時間以外はひたすら眠り続ける。職場の人間とは一切交流を持たない。このままではセバスティアンが職場で浮いてしまうと心配した上司のアキレス・マランビオの説得にも、アデーラに語った夢のドアの話をして呆れられてしまう。
この時、セバスティアンとマランビオは一つの賭けをした。
セバスティアンが結局何も見つけられずに死んだら、マランビオがセバスティアンの遺体を共同墓地に放り込む。セバスティアンが勝ったら、葬式の費用をマランビオが持つ。…どちらに転んでもマランビオが損をするような気もするが、それで賭けが成立した。
息子の体たらくに泣き暮らしたアデーラが絶望の中息を引き取ると、セバスティアンは会社も辞め、人生のすべてを眠りに捧げるようになった。
貧しい母子家庭のレンヒーフォ家には、蓄えなどあるはずもない。勤めを辞めたセバスティアンは忽ち困窮することになった。仕方なしに日雇い仕事についても、睡魔をコントロールすることが出来ず、仕事中に眠りこけて失敗を連発してしまう。当然、一銭も貰えず首になる。何処からも雇ってもらえなくなったセバスティアンは、物乞いにまで身を落としてしまうのだった…。
己の肉体の中に閉じこもる究極の引きこもり状態は、代表作『夜のみだらな鳥』と同じである。短編であり登場人物が少ないこともあって、本作には『夜のみだらな鳥』ほどの重厚感、酩酊感、錯綜感はない。ただ全体を覆う息苦しさと非人情、奇妙な滑稽味は本作にも感じられるので、これがドノーソの持ち味なのだろう。
人生の最期にセバスティアンは夢のドアを開くことが出来たのだろうか。
マランビオ家の玄関前で凍死したセバスティアンは、恍惚とした表情を浮かべていた。マランビオは警官を呼ぶと、名前も分からない浮浪者と告げながらも、葬式の費用を全額もってやったのだった。
アルフォンソ・レイエス著「アランダ司令官の手」
オクタビオ・パス著「波と暮らして」
フアン・ルルフォ著「犬が鳴いてないか」
カルロス・フェンテス著「生活費」
ホルヘ・イバルグエンゴイティア著「カナリアとペンチと三人の死者のお話」
サルバドール・エリソンド著「包誠による歴史」
ホセ・エミリオ・パチェーコ著「遊園地」
アウグスト・モンテローソ著「ミスター・テイラー」
ガブリエル・ガルシア=マルケス著「美しい水死人」
フリオ・ラモン・リベイロ著「記章」
マヌエル・ローハス著「薔薇の男」
ホセ・ドノーソ著「閉じられたドア」
オラシオ・キローガ著「羽根枕」
フェリスベルト・エルナンデス著「水に浮かんだ家」
マヌエル・ムヒカ=ライネス著「旅行者――1840年」
アドルフォ・ビオイ=カサーレス著「パウリーナの思い出に」
フリオ・コルタサル著「山椒魚」
の17の短編が収録されている。
訳を手掛けた木村榮一による解説は、ラテンアメリカ諸国の歴史的背景にまで触れていて大変参考になる。これを丸暗記できれば、ラテンアメリカ文学について一席ぶつことが出来るんじゃないだろうか。
本書の収録作はスペイン語で書かれた作品ばかりなので、本来ならイスパノアメリカ文学と称すべきなのだが、イスパノアメリカという名称が日本では浸透していないので、あえてラテンアメリカを用いたのだそうだ。
コロンブスに発見されて以来、約三世紀にわたってスペイン・ポルトガルに統治され続けた新大陸は長く小説の不毛地帯だった。小説に対する厳しい規制が解けるのは独立戦争以後、19世紀も10年代に入ってからのことで、それまでは小説を書いて出版するどころか輸入すら禁止されていたのである。新大陸を独立運動に駆り立てた要因の一つがロマン主義の思想的影響で、独立後の文学者たちはまず、フランスのロマン主義を手本に創作を始めた。
ここで紹介されているキローガの「完璧な短編を書くための十戒」がなかなか楽しい。キローガの初々しい気負いは、そのままラテンアメリカ文学の精神の基礎になっているのだろう。
ブエノスアイレスとモンテビデオを中心とするラプラタ河流域では、19世紀後半からゴシック小説をはじめ欧米の幻想小説や怪奇譚が小ブームを起こした。その影響を受けている現代のラプラタ河幻想文学の作家たちは特に私の好みである。
多くの作家が過酷な環境の中で生きる様々な人々の悲惨や痛苦を描き出しているが、それもまたラテンアメリカの現実に基づいているのだ。神経症的な作品しか生まれなくなった先進国の文学と異なり、ラテンアメリカ文学は悲惨さも含めて図太く健康的である。
幻想性と地に足の付いた逞しさの融合がラテンアメリカ文学の魅力なのだろう。
17篇の中では、フアン・ルルフォ著「犬が鳴いてないか」、ガブリエル・ガルシア=マルケス著「美しい水死人」、フリオ・コルタサル著「山椒魚」が既読だった。収録作の中でもこの3編の完成度が抜きん出ていると思った。
特に表題作の「美しい水死人」は、アンソロジーの顔になるのが納得の傑作である。
海辺の村に流れ着いた大男の水死体を村人たちが弔うまでを描いた物語は、素朴な美と優しさに包まれていて、最後の“あそこがエステーバンの村なのですよ”のくだりで毎回目頭が熱くなる。この物語をぜひ美しい絵本にして欲しいと思った。
その他の作品では、オクタビオ・パス著「波と暮らして」、アウグスト・モンテローソ著「ミスター・テイラー」、フリオ・ラモン・リベイロ著「記章」、ホセ・ドノーソ著「閉じられたドア」が気に入った。
「波と暮らして」は、海から連れ帰った波と暮らす若い男の物語。どことなく山尾悠子を思わせるシュールな作風だ。
波との暮らしは最初から波瀾万丈だったが、時には穏やかな愛情めいたものを感じる時間もあった。ところが、波が寂しいと言ってふさぎ込むようになるにつれて、男は彼女が疎ましくなっていく。すると、男の心変わりを察知した波が悪態をつきながら猛り狂う。男はますます波を持て余すようになる。という悪循環を経てのラストが残酷だなと思う反面、男の立場に立てば仕方のないことだったかもしれないとも思えた。今更いじらしい姿を見せられても、一度冷めた心はもう元には戻らないということで。
「ミスター・テイラー」は、アマゾンの密林で首狩りをやって有名になったパーシー・テイラー氏の物語。
ボストンから姿を消したテイラー氏は7年後アマゾン地方に姿を現し、原住民と交わって暮らし始める。原住民から奇妙な干し首を受け取ったテイラー氏は、それを祖国の叔父に送る。干し首が好事家相手の商売になると踏んだ叔父によって、その後もどんどん干し首を送らされることになる。数か月後には空前の干し首ブームが巻き起こり、やがて供給が需要に追い付かなくなる。それに伴って物語は悪夢の様相を呈してくる、というブラックユーモア。
「記章」は、偶々銀製のバッジを拾ったことから得体の知れない結社の一員になってしまった男の物語。
男が最初から最後まで自分の所属する結社について何も分からないまま、とんとん拍子で出世していく様が、滑稽であり不気味でもある。男は物語の最後には、結社の会長にまで上り詰める。結社員からは閣下と敬われ、数多の召使と美女に囲まれた悠々自適の生活だ。だが、いくらそんなものがあろうと、男は今でも何も分からないままだし、それはこれから先も変わらないだろう。だから、誰かに組織の意味を問いかけられても口を濁すしかない。だけど、曖昧なことを言っておけば、どのようにでも解釈できるので、特に問題はないのだ。
「閉じられたドア」は、夢の世界に現れるドアを開くことを願いながら眠り続けた男の物語。
セバスティアン・デ・レンヒーフォは、赤ん坊の頃からよく寝る子供だった。思春期に入ってもそれは変わらず、趣味も友人も持たず学校から帰ると寸暇を惜しんで眠り続けるのだった。たまりかねた母のアデーラに詰問されると、自分は眠るために生まれてきた、などと言い出す。
すべての世界を明るく照らし出す光の世界を夢に見るけど、目が覚めた途端に、夢の世界に通じるドアは閉ざされてしまい、どんな夢だったのか思い出せない。夢の中で味わった幸福な感じを現実の世界に持ち込むには何とかしてドアを開かねばならない。そのためには眠り続けなければならない。セバスティアンにとってはそれが一番大切なことなのだった。
女手一つで苦労して育てた一人息子がこのざまである。
失望したアデーラはめっきり老け込んでしまった。それでも、セバスティアンはひたすら眠り続ける。成人し勤めに出るようになってからも、勤務時間以外はひたすら眠り続ける。職場の人間とは一切交流を持たない。このままではセバスティアンが職場で浮いてしまうと心配した上司のアキレス・マランビオの説得にも、アデーラに語った夢のドアの話をして呆れられてしまう。
この時、セバスティアンとマランビオは一つの賭けをした。
セバスティアンが結局何も見つけられずに死んだら、マランビオがセバスティアンの遺体を共同墓地に放り込む。セバスティアンが勝ったら、葬式の費用をマランビオが持つ。…どちらに転んでもマランビオが損をするような気もするが、それで賭けが成立した。
息子の体たらくに泣き暮らしたアデーラが絶望の中息を引き取ると、セバスティアンは会社も辞め、人生のすべてを眠りに捧げるようになった。
貧しい母子家庭のレンヒーフォ家には、蓄えなどあるはずもない。勤めを辞めたセバスティアンは忽ち困窮することになった。仕方なしに日雇い仕事についても、睡魔をコントロールすることが出来ず、仕事中に眠りこけて失敗を連発してしまう。当然、一銭も貰えず首になる。何処からも雇ってもらえなくなったセバスティアンは、物乞いにまで身を落としてしまうのだった…。
己の肉体の中に閉じこもる究極の引きこもり状態は、代表作『夜のみだらな鳥』と同じである。短編であり登場人物が少ないこともあって、本作には『夜のみだらな鳥』ほどの重厚感、酩酊感、錯綜感はない。ただ全体を覆う息苦しさと非人情、奇妙な滑稽味は本作にも感じられるので、これがドノーソの持ち味なのだろう。
人生の最期にセバスティアンは夢のドアを開くことが出来たのだろうか。
マランビオ家の玄関前で凍死したセバスティアンは、恍惚とした表情を浮かべていた。マランビオは警官を呼ぶと、名前も分からない浮浪者と告げながらも、葬式の費用を全額もってやったのだった。